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昔者、荘周夢為胡蝶。
栩栩然胡蝶也。
自喩適志与。
不知周也。
俄然覚、則遽遽然周也。
不知周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。
周与胡蝶、則必有分矣。
此之謂物化。
-斉物論より-
父さんの仕事の関係で住んでいる南の島は、空と海の、とても碧いところだった。
木々の滴るような緑。鮮やかな色の花々。浜辺は白く、露頭した石灰石が複雑な模様を描いていた。そして海には全ての色がある。浅瀬の緑、真砂の黄色、イソギンチャクや魚たちの赤、貝の吐く紫、それに、圧倒的なのが海原の青。
燃えるような赤い花の絡みついたポーチで、母さんはジャムを作り、父さんはノートPCに向かって仕事をしていた。それが僕の記憶の中にある最初の景色。その景色のなかに僕はいない。それはその景色が僕の視点のものだからというだけのことではなく、僕がいつもすこし距離を置いてその光景を眺めていたからなんだと思う。
庭に生えていた大きな木。その枝が、僕の居場所。
光沢のある丸い葉を広げた木は、梢が大きく、枝からはたくさんの蔦のようなものが垂れ下がっていた。ガジュマルの木。子どものような妖怪がすんでるという話も聞いたことがある。だとしたらそれはきっと僕だ。僕は両親にちっとも似ていない子どもだった。
がっちりとした四角い顔に熊みたいなひげをはやした父さんと、日焼けした丸顔の母さん。
でも、僕は色がとても白くて、髪の毛は赤いというよりも茶色に近かった。日焼け止めを塗り、日よけの帽子を被らないと、あっという間に体全体が真っ赤になってしまう。だからあんまり昼間は外に出られない。近所に住んでいる子どもたちとも、あまりいっしょに遊ぶことがなかった。
父さんは科学者だったらしい。家にはむつかしい科学の本がたくさんあったし、父さんたちは日差しが苦手な僕のためにいろんな種類の本を買ってきてくれた。その本が子供向けのものばかりではなかったのは父さんたちの趣味だと思う。僕はそれに耽溺した。
昼間はずっと本を読み、夕方になると、海に出かけた。
昼間は一緒に遊ばなかったけれど、友達がいなかったわけじゃない。おとなしい僕はどちらかというと女の子たちと気があったけれど、男の子たちにだって仲間はずれにされていたわけじゃなかった。夕方になって岬に行くと、友達がみんなで釣りをしていたり、海に潜って遊んだりしていた。僕はとおくからそれを眺めた。濡れたしぶきが輝き、夕日を受けた少年達の日焼けた体は、黄金のように光っていた。
でも、僕は釣りは好きじゃなかったし、泳ぐこともあまり得意なわけじゃなかった。僕が好きだったのは、浜辺を歩くことだった。
南の楽園だと人は言う。でも、浜辺はあんがいに汚れている。真っ白でゴミ一つ無い砂浜というのは観光客の集まるところにだけある。それ以外の砂浜には漂着物がたくさん打ち上げられていた。外国の文字の入った空き缶とか、網からちぎれたブイ、プラスチックの欠片、それになによりも、とりどりの色、種類のガラスの欠片。
その日も僕は、浜辺を歩いていた。
「よお、今日もゴミ拾いかー?」
僕が歩いているのを見かけた友人が、僕に声をかけた。真っ黒に日焼けして、海水パンツにパーカーを羽織っただけの格好。手にした網の中には大きな貝がいくつもごろごろ入っている。僕は「うん」と笑って手を振り替えした。
他の友達たちに少し話をして、それから、彼はこっちへと浜辺を滑り降りてきた。彼は、小学校の同級生だった。
「なんか面白いもん拾えたか?」
「タイ語の空き缶、見つけたよ」
他の子ども達のリーダー格だった彼。女の子みたいな僕なんかにかまってるだけで人からからかわれもしただろう彼。でも、彼は僕にとても親切だった。もしかしたら、小柄でひ弱な僕のことを、弟のようにでも思っていてくれたのかもしれない。
「今日はたくさん落ちてるな」
浜辺を見回した彼は言った。そう、それは、嵐がすぎたばかりの夕方のことだった。
昨日までは風が強く、雨と風が赤や黄色の花を引きちぎった。でも、今は嘘のように風が凪いで、美しい茜色の夕焼け。けれど、彼に言わせると、海は砂が舞い上がってにごってしまい、もぐっても獲物を上手く見つけることが出来なかったという。
浜辺にはたくさんの海草や流木に混じって、いろんな種類のゴミが打ち上げられていた。
「さっきから見てたら、珍しいものがけっこうあったよ」
「へえ?」
「ほら、これ、懐中時計だ。もう駄目になっちゃってるみたいだけどね」
僕は彼にそれを見せた。文字盤が外れて中の歯車があらわになっている懐中時計。磯臭いにおいがした。でも、すばらしい収穫で僕はご機嫌だった。
彼はそれを見て、それから僕を見て、よく分からない、という風に肩をすくめた。普通の少年である彼には、こんなゴミが宝物に見える僕の気持ちがよく分からなかったんだろう。
「おまえ犬みたいだな」
「どういう意味だよ」
「犬はゴミ集めるのが好きじゃないか。あと烏も」
僕は笑いながら彼の背中をたたいた。日焼けした背中を。
熱いのに長袖を着た僕の横顔を、短い袖のパーカーを着た彼の横顔を、夕日は照らした。茜色と朱色、薄紫と黄金が交じり合うすばらしい夕焼けだった。僕はそんな夕焼けが好きだ。この島の夕焼けはいつも美しいけれど、いつ見ても飽きない。
けれど、それは、僕がこの島を故郷だと思えていないからでは無いだろうか、と僕には思えて仕方がなかった。
僕はまるで異郷の景色を見るみたいにこの夕焼けを見る。すばらしく美しい絵葉書を見るように夕焼けを見る。それは、何か間違ったこと、後ろめたくて人に言えないようなことのような気がしたから、誰にも話すことは出来なかった。白すぎる肌と色素の薄い髪が、太陽に弱いせいかもしれない。けれど、なんとはなしに、僕はこの島が僕の故郷であると思うことが出来ないでいた。
「あ、見ろよ。あそこ、光ってる」
彼が手で浜辺を指差す。「うん」とうなずいて僕は近づく。何かが、濡れた砂の上で引いていく波に洗われていた。何か透き通った硝子のようなもの。
拾ってみると、それは、直径が三センチほどのちいさな硝子のレンズだった。表面が砂に現れてすこし曇っているけれど、虹のような光沢がまだすこし残っている。たぶんCDのような非接触式メディアのために使われるレンズだろう。
きれいだ。僕は満足する。今日の収穫はこれでいいかな、と思った。
「そろそろ帰ろうかな」
「そっか」
彼は短い髪をざっと撫でた。髪からは強い潮のにおいがした。それと太陽の匂い。僕からは決してすることのない匂いだ。
「なんかほしいもの、ある?」
僕は拾ってきた荷物を彼に見せる。彼はすこし考えて、手のひらいっぱいのゴミの中からルアーに使うんだろうきらきらした金属片を取った。
「妹に持って帰ってやっか。あ、おまえもこっちにほしいもんあるか?」
「じゃあ、貝ちょうだい。焼いて食べるから」
「たくさん取ったからな。好きなだけ食べろよ」
僕たちはそれぞれの収穫を交換して、笑いあう。僕は懐中時計を天にかざす。さびて曇った真鍮の裏蓋が夕日に光る。それはいつものような日。それが、僕のいつだって繰り返されたような日常だった。それで幸せだと思っていた。
……うつくしい南国を描いた絵葉書のような、幸福な、どこか他人事のような日々。
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