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 その日の晩御飯は塩焼きの魚と海草のサラダ、それに、缶詰の肉を入れたスープだった。彼から分けてもらった貝は、焼いてトマトソースをかける。食後、いつものように拾ってきたガラクタを父に見せた。父はひとつひとつを丁寧に見て、寸評をしてくれる。
「へえ、懐中時計か。めずらしいな」
「でしょう。こんなもの、僕、見たことないよ」
 合成樹脂製のちいさな人形、古ぼけたなにかのパーツの金属環、それに、花模様の貝殻。母さんは台所で洗い物をしている。いつもの光景。
 でも、そのとき、父さんはひとつのものを手にとって、ふいに、驚いたように動きを止めた。
 それは、直径が三センチほどの、例の、ちいさなレンズだった。
 透明で円形をしている。やや厚めの凸レンズで、中心の厚さは1センチほどもあるだろう。隅っこが欠けて、砂に洗われて磨耗していた。それでも表面には、かすかに虹色の光沢が残っていた。
「こりゃあ……」
 そのレンズを手に取った父さんが黙り込む。僕はすこし怪訝に思う。「父さん?」と呼びかける。
 父さんはしばらくそのレンズをためすすがめつしていたが、やがて、僕に向かって、「おい、こりゃすごいぞ」と言った。
「おおい、おまえ、おまえ! なんだかこいつがすごいもんを拾ってきたぞ。ちょっと来てくれよ」
「え? え?」
「はあい、なあに?」
 エプロンで手を拭きながら母さんがやってくる。父さんはすこし興奮した様子でレンズを天井にかざした。そして僕を振り返ると、「すごいじゃないか!」と言った。
「おい、これはもしかしたら、マインド・ミラーの欠片かもしれないぞ」
「ええ?」
 聞いたことが無い名前だった。僕はめんくらった。それは母さんも同じようだった。首をかしげて問いかける。
「あなた、なに、それ」
「何年か前に開発された特殊な素材だよ。ふむ、ふむ、珍しい。とんだもんだ。こんなちいさな欠片でも、よっぽどの値段がするんだが…… こんなもんが海に落ちてるとはなあ」
 マインド・ミラー。それは、父さんの説明によると、その人の心を写す鏡…… そんな特殊素材で作られた、硝子結晶状のレンズのことを言うんだという。
「細かい説明は割愛させてもらうが、まあ、一種の催眠的な効果を持つパターンを結晶組織の中に組み込んであるんだ。普通はもうすこし大きめのものをゴーグル状に加工してカウンセリングとかに使う。これを装着して、薬物とかを併用すると、その人の過去がこのレンズに写るんだ。犯罪とかの捜査に使われることもあると聞いたが…… うーん、高価なものだからなあ。おれも実物を見たのは初めてだよ」
「まあ、でも、そんなものがあったら、他人の心が覗かれちゃうじゃない」
「違う、違う。あくまでこのマインド・ミラーは本人の心が映るだけさ」
 父さんは笑いながら手を横に振った。
「横から覗いてみたって、そうしたら、覗いた人の記憶がそこに写るだけさ。それじゃ、他人の記憶を覗くことなんて出来ないだろう? まあ、犯人の顔とかを忘れていた場合に、これを使ってもう一回記憶を洗いなおすという使い方や、それに、カウンセリングなどで顔の記憶を確かめたり、裁判で過去の事実を確認したり…… さまざま使い道はあるようだがなあ、でも、本人にしか本人の記憶が見られないというのがネックといえばネックだ」
 言いながら父さんはレンズを部屋の明かりにかざし、覗き込んでいた。そして、唐突に黙り込んだ。
 父さんがずっと黙っているので、母さんは、怪訝そうに問いかけた。
「あなた?」
「あ、ああ、ごめん、ごめん」
 父さんはすぐに我に返った。
「いや、悪かった。なかなか面白いものだな、これは」
 父さんはそう言って僕にレンズを返してくれた。僕はしげしげとレンズを見下ろした。
 古ぼけてゆがんだ、ぼやけた虹色の硝子のレンズ。そんなものが、人の記憶を見せてくれる硝子だなんてご大層なものだとは思えない。けれども父さんは名残惜しそうに僕のレンズを見ていた。
「まあ、それはかなり海水にやられちまってるみたいだから、普通の使い方はできないだろうな」
「そうなの?」
「ああ。それに普通はちゃんとした装置につないで使うものなんだ。それに、催眠誘導や薬物の補助が無いと、それ単体じゃどんな記憶が見えるか分かったもんじゃない。もう、ただの拾い物だよ、それは」
 でもたいそう珍しいものなのは事実だろうな、と父さんは言った。
「よかったな。大収穫じゃないか」
「よかったわねえ」
 母さんは分かっているのかわからないのか、にこにこと言う。僕はなんだか面食らいながら、そのレンズを見下ろしていた。




 僕の部屋は家の二階だ。高台の家だから、窓からは海が見える。
 カーテンは薄い緑色で、ドット模様のようにちいさなクローバーが散っていた。白いシーツをかけたベット。部屋中に置かれた箱のなかにはいままで拾ってきた拾得物が放り込まれていて、なかでもとびっきりの宝物は、陳列棚のなかに並べられていた。
 父さんと母さんにおやすみをいって部屋に戻った僕は、今日、拾ってきたものを整理した。
 潮はきちんと落としておかないと後で臭いがするし(事実、僕の部屋はどことなく潮くさい)、砂やゴミもきちんと洗い流しておかなければいけない。精緻な装置を持った懐中時計はけっこうな難物になりそうだったので、とりあえず、真水につけて一日置いておき、それから乾燥させることにした。
 問題は、例のレンズだった。
 僕は指先でつまみあげたレンズを、困惑の目で見つめた。
 めずらしいものだという。でも、見た目はただのふるぼけた硝子レンズだ。こんなもの、言ったら悪いが、浜辺に行けば五万と落ちている。浜辺で拾える磨耗した硝子の欠片の類なんか、僕の部屋には箱いっぱいあった。でも、父さんに太鼓判を押された珍品だけに、そんな粗末な扱いをするのも気が引ける。
 僕は枕元のランプを付ける。片目をつぶり、レンズを目に当てる。ぼやけた虹色が視界に広がった。
 ゆがんだ硝子に景色がうるんだ。油の虹越しに空を見上げたような様子だった。でも、ただの硝子だ。何も見えない。
 やっぱり不良品なのかな。僕は別にがっかりすることもなく、そう思った。そのときだった。
 ちらり、と。
 ちらり、と何かが視界をよぎった。
「……え?」
 硝子越しに、何か、白いものが視界を横切った。
 はら、はら、と。
 なんなのだろう、これは、と僕は思う。虹がうるみ、ゆれた。涙がこぼれ、落ちるときのように。
 白いものははらはらと散り続ける。どこから? どこから落ちてくるのだろう? こんな羽のようなものが?
 僕は思った。
 もしかして、これは、雪…… というものなのではないだろうか、と。
 僕は生まれたときからずっと南の島に住んでいる。雪なんてTVの中でしか見たことが無い。だから、これが本物の雪なのかどうかは分からなかった。
 背後はいつのまにか藍色だ。それは硝子のなかに映っているだけのものらしくて、半分薄く透けていた。薄く透けた、まぼろしみたいな光景のなかに、ちらちらと白いものが降り続けていた。雪の景色。
 スノウ・ドームだ、と僕は思った。
 丸い硝子の玉の中に水を満たし、金属色の紙片を満たしたおもちゃ。ゆすると雪が降る。降りつづける。でもそれは偽者の雪だ。偽者の雪は冷たくないし、触れることは出来ない。積もることも無い。ただ、降るだけだ。降り続けるだけの偽者の雪。
 けれど、このレンズは、記憶を写すもののはずだ。だということは、たしかに僕の記憶の中にあるものだということになる。でも僕は雪なんて見たことはなかった。そう考えるとなんだかおかしくおもえてくる。
 この硝子は故障しているんじゃないだろうか。
 でも、僕が何を考えても、硝子のなかには雪が降り続けている。スノウ・ドームだな、と僕は納得した。この硝子は壊れた硝子、誰かの記憶を吸い取って、雪を降らせ続けるだけの硝子なんだ。
 そう納得しても、硝子のレンズのなかに降り続ける雪は、とてもきれいだった。
 触れたら指の凍ってしまいそうな、凍てついて冷え切った藍色。そしてそのなかに降る雪。何の音も無い、静かな、冷え切った景色。
 僕はレンズから目を離すと、カーテンをあけ、外を見た。
 丸い月が出ていた。
 海に銀色に光る道が出来ていた。木々の葉の緑も、花々の赤も見えた。どこかで虫が鳴いていた。生命力に満ちた島の夜。
 一方、僕の手の中にあるものは、音の無い冷え切った雪の景色の欠片。この島の景色とは、まるで違う。
 でも、僕にとって親しく思えるのは、冷たい藍色の景色のほう―――
 そう思った自分に驚き、僕は、また、胸のなかに、ひやりと冷たい何かを感じた。
 こんなに愛されてても、こんなに大事な故郷でも、僕にとっては、スノウ・ドームの知らない景色のほうが親しく思えるのか。
 でもその冷たさは僕にとって心地のいいものだった。
 僕は、レンズを頬に当てて、目を閉じた。




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