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 がたん、と強く上下に馬車が揺れた。
 頭上を深く覆った木の枝の間から、杯の形をした月が見え隠れする。幾重にも重なり合って頭上を覆うのは樹齢数百年にも及ぶ木々ばかりだ。枝々は奇怪な形にねじくれて奇妙なシルエットを作り出し、激しく馬車を揺らす音にまぎれて、時折、何かの獣の鳴き声だろう奇怪な叫びが聞こえた。
 暗い森――― 闇に覆われた魔の森。この森は人間の暮らすことの出来る領域の外にある。この森にあっては何が起きても不思議ではない。何者が現れても、けして、不思議ではない。
 馬車に乗った貴婦人は、ウィンプルで深く顔を覆っていた。ときおり黄金の巻き毛が頭巾からこぼれ、馬車の外から差し込む光にきらめいた。その身を忍ばせていても分かるほどに、高貴な身なりの貴婦人だった。貴婦人はふかくうつむいて、決して顔をあげようとはしなかった。
 遠く、近く、化鳥の声が甲高く響く。怯えた馬が嘶く。がたん、とりわけ強く馬車が揺れる。御者が悲鳴のような声で馬を御した。
「殿下、これ以上は無理です!」
 道は、目の前で、倒木にさえぎられていた。
 木は既に深く苔むして、道が途切れてからすでに長い時間が経っているということが知れた。木に生えた奇妙な茸が不気味な燐光を放っている。貴婦人はそれを確かめて、ぽつり、つぶやいた。
「そうですか……」
「殿下、なれば、私めが」
 馬車に同乗していた男が進み出る。男はつばの広い帽子をかぶり、腰に剣を刷いていた。騎士のいでたちだ。
 貴婦人は、手にしていた布包みを、ぎゅっと抱き寄せた。
 白い、柔らかい布のお包みだ。温かい。中から穏やかな寝息が聞こえてくる。包み込まれているのは、まだ、生まれて間もない赤子だった。
 貴婦人は顔を上げる――― 木々のこずえの向こう、はるか彼方に、さながら、聳え立つかのような建造物が見える。
 それは、有機的なラインを持ち、外へ成長していこうとする活力を秘めたまま、石となって凍りついたような、奇怪な建造物だ。
 無数の尖塔やバルコニー、回廊と薔薇窓。捩れあい一つとなって伸びていく塔や棟が融合しあい、ひとつの巨大な塊を作り上げている。さながら小さな山のようなそれは――― 城だった。
 その名は、黒鳥城。
 貴婦人は再びお包みを見下ろした。貴婦人の眼はエメラルドさながらの緑色だった。そこに涙があった。貴婦人はお包みを抱き寄せる。ほのかな乳の香りが立ち上る。
 そのとき。
 ふいに、鳥たちが、飛び立った。
 木々の砕ける、ばきばきという音が、遠く、響いた。騎士はハッとしたように顔を上げる。剣を抜き放った。何者かが近づいてくる。それも、恐ろしく巨大な何者かが。
「殿下! お下がりください!」
 ふいに、木々の間に、赤い眼が光った。
 頭上はるか高く、人間の背丈の倍以上はあるだろう。杯の形の月にその異様な影が垣間見える。異様なまでに膨れ上がった肩や首の筋肉。頭上に瘤のように盛り上がった何本もの角。そして、灰色の岩のような皮膚。
 それは、灰色トロールと呼ばれる魔物の姿。
 くっ、と騎士はちいさく呻いた。灰色トロール。強力な魔物だ。自分ひとりでは到底かなう相手ではない。貴婦人を守りきれない。
 そう思ったとき、貴婦人が、鋭く命じた。
「逃げるのです! 馬車に乗りなさい!」
「で、ですが、殿下……」
 だが、振り返った騎士は、ハッとする。貴婦人の手には、すでに、白いお包みは無い。
 お包みは倒木の下に置かれていた。茸の放つ燐光が、白い布をほのかに照らし出していた。赤子は眠っているようだった。貴婦人の目にはすでにためらいは無い。涙は既に消えていた。
「もう十分に黒鳥城に近づきました。これで使命は果たされたはずです。逃げるのです、早く!」
「は、はっ」
 貴婦人が馬車に乗り込むと、騎士は、馬車の後ろの足場に取り付いた。鞭が鋭く鳴った。馬が甲高く嘶いた。
 馬車は激しく揺れながら、方向を変え、走り出す。一目散に逃げ出していく。奇怪な建造物から。岩の塊のようなトロールから。そして、白い布にくるまれた赤子から。
 貴婦人は馬車の激しい揺れに耐えるため、中に付けられた手すりを握り締めながら、わが子の名を呼ぼうとした。できなかった。
 なぜなら、その赤子には、名すら与えられていなかったからだ。

 ―――そうして、その赤子は一人、黒鳥城の森へと捨て去られた。





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