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 彼女は、名をメルリエという。
 水銀のような滑る光沢の髪、瞳孔の縦に裂けた紫の瞳、同じく紫色の唇。たっぷりとした重さとやわらかさを持った乳房もなまめかしい彼女は、けれど、実際のところ、人間ではない。なぜなら彼女の腰から下は、太さならば彼女の腰よりもはるかに太く膨れ上がった蛇体となり、身長の何倍もの長さとなってとぐろを巻いているからだ。なぜなら彼女はラミア。美しい女の上半身に、蛇の半身をもつ魔物に他ならないからだ。
 黒鳥城の一角、ぬるい鉱水の湧き出す泉のある部屋。そこがメルリエの住家、狭いながらも楽しい我が家だ。
 そこには冒険者たちから奪い取ったり、他の魔物たちとの交換で手に入れたりした宝物がたっぷりと蓄えられている。ぬるい鉱水は虹色の鱗の艶を増してくれるし、彼女の鱗にも似たタイルの嵌め込まれた浴槽はひどく心地がいい。本来は誰か貴婦人のために作られた浴室だったのかもしれないが、彼女はそういうことを考えたことは無い。今日も今日とて、久方ぶりの獲物でたっぷりと腹を満たし、くつろいだ気分で爪を磨いていた。
 だが、そこへ、ふいの闖入者が現れる。
「メルリエ、おるか、メルリエー?」
「……ああん」
 野太い、地面を揺るがせるような声。それに驚いた拍子に、鑢が爪に傷をつけてしまう。メルリエは思わず声を上げる。そして、不満たっぷりの眼で、声の聞こえてきたほうを見た。
「ドウム?」
「おう」
 ずん、と音がした。天井から埃が落ちた。浴室の狭い入り口から、まず、古木のように太い足が見えた。ついで現れたのは魔よけの面のように厳つい顔だった。頭には無数の角が瘤のように盛り上がっている。庇のように盛り上がった額の下の真っ赤な目。
 トロールである。トロールに間違いあるまい。
 だが、メルリエは驚きはしない。傷の付いてしまった爪をうらめしげに眺め、それから、トロールのほうに向き直った。ふっくらとした唇を色っぽく尖らせて、「なんなのよう」と不満たっぷりに答える。
「爪に傷が付いちゃったじゃない。何の用なの?」
「おおう、驚かせたか。すまんのう。ちと、ぬしに用ができての」
 トロールは、大きな体を狭苦しく縮め、苦労をしながら部屋の中に入ってくる。座っていても頭が天井につかえそうだ。彼の名はドウム。この黒鳥城に暮らす灰色トロールの一人、メルリエとは旧知の仲の友人だ。
 この黒鳥城は、一種の巨大な迷宮だ。そこにはスライムや三つ目蜥蜴といった知能を持たないものたちから、ゴブリンやオークのように社会を構成するもの、メルリエのようなラミアといった高レベルの魔物に至るまで、無数の魔物たちが暮らしている。
 魔物たちはお互いのことをさほどに気にかけているわけではない。けれど、一つところに暮らしていれば、一種の利害関係も発生するし、利聡い者の中には魔物たちの間を取り持つことで立場を得ようとする者たちも現れる。したがって黒鳥城には魔物たちのみで構成された奇妙な社会が出来上がり、中にはメルリエとドウムのような、『ラミアとトロールの友情』といった奇妙な関係までが出来上がることになる。
「で、なんなの今日は?」
「おう、ちと、ぬしに相談があっての」
 狭苦しく正座をしたドウムは、手につまんでいた布の塊をそっと床に下ろす。メルリエの瞳孔が細くなった。
「人間の赤ん坊?」
「おう」
 地面に下ろされたショックで眼を覚ましたのかもしれない。あああん、ああああん、と赤子が細い声を上げて泣き出した。乳くさい匂いと人間独特の匂い。メルリエは思わず唇を舐めた。二つに割れた舌。
「見てもいい?」
 言いながら、勝手に手を伸ばし、布包みを開いている。すると、現れるのは、まだ生まれて一月も経たないであろう、小さな小さな赤子の姿だ。
 もみじのような赤い手が堅く拳に握り締められ、赤子は、全身の力を振り絞るようにして泣いていた。まだやわらかい髪は琥珀色、瞳はエメラルドの碧だ。肩に小さな痣がある。女の子だった。メルリエは思わずごくりと喉を鳴らした。
「珍しいじゃない! こんな美味しそうなもの、どこで見つけたの?」
「ちと、下の森を散歩しとったらのう……」
 ドウムは灰色トロールという名の魔物だ。非常に高レベルで珍しい。何者にも傷つくことの無い体とすさまじい怪力が特徴で、そもそもあまり群れて暮らすことを好まず、通常は厳しい山嶺の奥底の洞窟などで一人で暮らしていることが多い。そういう例を考えてみると、ドウムは、灰色トロールとしてはかなり変わった性格を持つ男だった。うろうろとそのあたりを放浪して、見聞を広めることが趣味なのだ。ここ百年ばかりはこの黒鳥城に住み着いているが、それでも散歩の習慣は抜けないらしく、夜な夜な黒鳥城の外の森をうろついている。そして、今日ドウムがこの赤子を手に入れたのも、そんな散歩の中での出来事だった。
「なんぞ、人間どもが馬車で走っとってのう。珍しゅうて見に行ったんよ。ほしたら、やつら、この赤子を捨てて逃げ出しよったんじゃ」
「ふうーん?」
 メルリエは、長いまつげをしばたいた。
「なんで夜中に人間がこんな場所に来てるの? 冒険者だったの?」
「いいや、違うようじゃった。攻撃してこんかったけぇ。そもそも冒険者は赤子なんぞ連れとらんじゃろ」
「それもそうね。……で、なんであたしのところに来たの」
 まさかこの赤子を一口味見させてくれる、という理由じゃないだろうな、とメルリエはすでに思っていた。なにしろ、その赤ん坊は極めつけの生まれたばかりで、ほとんど、ドウムだったら一口で食べることが出来るくらいの大きさしかなかったからだ。
 たいていの魔物は、人間の肉が好物だった。
 ぴっちぴちのぷりぷりで、程よく締まってジューシーで、一口齧ると脳天突き抜けて広がる旨み。その上滋養に富んでいて不老長寿の妙薬だというのだから、人間の肉が嫌いな魔物なんているわけがない。エルフやドワーフなんかも似たような味がするが、人間は何しろ別格だ。ちなみに女のほうが柔らかいが男のほうが旨みが強い。どちらが好きかは本人の好みによって分かれる。
「赤子なんて食べたこと無いけど、美味しいのかしらねえ」
「うむ。そこで相談なんじゃがのう、メルリエ……ぬしゃあ、乳は出るけ?」
 メルリエは眼を瞬いた。
「え、なんで?」
「この赤子なんじゃが、ちと、小さすぎると思わんけ?」
 メルリエは赤ん坊を見下ろした。たしかに小さい。
「せっかくのご馳走なんはええんじゃが、これじゃあ酒のつまみにもならんわい。そこで、ちと育ててから食うというのはどうかと思うての」
「なるほどねえ」
 ようやくメルリエは合点が行った。
「ちょっと育てて、食いでが出てから食べよう、と」
「うむ」
「いい考えなんじゃない?」
 人間はそもそも寿命が短い分、成長も早い。
 メルリエたちにとってすれば、5年なんて一瞬のことに等しいが、人間にしてみればかなりの時間だと言えるだろう。5年も育てれば、この赤子もかなり育って大きくなるだろう。食いでもかなり増すだろう。それから食べれば、貴重で美味しい人間の肉をたっぷりと楽しむことができるというものだ。
「で、どうなんじゃ」
「おっぱいね? 出るわよ。出そうと思えば」
 けれど、メルリエは唇に指を当ててニィと笑う。ドウムはぎょっとしたような顔をした。
「そういえば、ドウム、あなた、とっても素敵な紫水晶の腕輪を持ってなかったかしら」
「……あ、あれか。前、オークどもから巻き上げた……」
「ねえ、あなたの腕にはどうせはまらないじゃない。あたしにくれない?」
 それとねー、とメルリエは言う。
「あと、これが大きくなって食べごろになったら、あたしにも半分分けてよ。それが条件。そしたら、あたしのお乳を分けてあげる」
「ぐむむ……」
 ドウムは腕を組んで唸る。やがて、うめくような声で言った。
「土耳古玉の耳飾りじゃあいけんか?」
「え、あのしずく型のやつ? ……そーねぇ、しかたないわねぇ」
 紫水晶の腕輪はさすがに強欲だったか。メルリエはあっさりとあきらめる。そして、腕を伸ばすと、赤子を抱き上げた。
「ほーら人間ちゃん、メルリエ特製の蛇のおっぱいよ。飲みなさい。そして、大きく美味しく太りなさい〜」
 ずっと泣き続けていた赤子だったが、メルリエが乳を近づけると、反射のように吸い付いた。そして、こくこくと小さく音を立てて乳を飲み始める。ドウムとメルリエは顔を見合わせ、そして、ニッと笑いあった。
「美味しいお酒を用意しておかないとね」
「おうよ。5年も育てとったら食いごろに太るじゃろ」
 たっぷり吸って育って太れよ、とドウムは赤子の頭を撫でる。巌のように堅い手のひらだったが、赤子は無心に乳を吸い続けていた。



 ―――そして、5年どころか、7年がすぎた。



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