序章



 ブランシュタイン城の後宮には、古代風のモチーフを模した、ちいさな塔が建造されている。
 塔の周りには白樺などの木々が植えられ、地面は素朴な花々を付ける草々がお花畑を作り出す。ユリや紫蘭、ルリハコベやきんぽうげや野菊が咲き乱れ、自然的でありながら実は計算されつくした庭園が、城の裏の小さな森に広がっている。
 ゾフィーとアデレードの遊び場所は、いつも、そこだった。
 ブランシュタインの王女であるゾフィーと、シュバインノルン公爵令嬢であるアデレード。二人は親しい友、もっと言うならば親友だと言ってもよかった。
 黒髪に黒い瞳のゾフィー、赤みのかかった髪に翠の瞳のアデレード。二人はいつも一緒だった。二人はくだらない噂話にうつつを抜かすサロンよりも、城の裏のちいさな森のほうがずっと好きだった。花々が咲き乱れ、秋には木々が色づいた葉を落とし、冬には深く積もった雪が純白に輝く。美しい森。そこだけが、ゾフィーとアデレードのふたりのための場所だった。
 そして、今は、冬。
 雪は深く降り積もり、木々にわずかに残った木の葉には霜が降りる。こう寒くなっては森に遊びに出るわけにも行かない。二人は森の奥に築かれた小さな塔にもぐりこみ、そこで、糖蜜とジンジャーのケーキを食べ、温かい紅茶を飲みながら、炉辺から森の木々を眺めていた。塔の後ろは巨大な湖。凍りついた水面に、雪が降り積もっている。
「何をやってるの、ゾフィー?」
 絵本を眺めているのに飽きたアデレードが、ふと、ゾフィーに話しかける。ゾフィーは窓際で木枠をかけた布に刺繍を施していた。アデレードが背後から覗き込むと、そこには花盛りの森が刺繍されている。整地に織り込まれたルリハコベ、ユリの花、野菊。咲き乱れる花々が精緻な針目で几帳面に縫いこまれ、うつくしい春の光景を作り上げている。
「冬ってあんまり好きじゃないわ」
 ゾフィーはため息をついた。
「わたし、外で遊ぶほうがすき。ダンスのレッスンもハープのレッスンも退屈だわ。馬に乗ったり、お花畑で花輪を作ったりするほうがずっと好き」
「ゾフィーらしいわね」
 アデレードは笑った。
 ゾフィー・クレティア・ブランシュタイン。彼女はブランシュタイン王国の、たった一人の王女だ。
 ゾフィーには一人の弟がいたが、いずれ、ゾフィーが政略結婚の駒にされることは分かりきった話だった。王族、さもなければ貴族の娘というのはそういうものだ。自らの恋を成就されることなど望むべくもなく、婚礼の後に不倫の恋を華やかに楽しむというのが貴婦人たちのたしなみだった。アデレードの母親だってそうだ。アデレードの父とは稀に朝食で顔をあわせる程度の関係で、母は今は美しく若い騎士の一人に現を抜かしている。
 アデレードは窓の外を眺める。石造りの窓。黒檀の窓枠。上部は優雅な弧を描き、窓には硝子が嵌め込まれている。硝子というのは高価なもの、色硝子ならばなおさらだ。窓には色硝子が幾色も組みあわされ、翼を広げた天使の図像が表されていた。
「ねえ、ゾフィー。大人になりたくないわね」
 アデレードは窓枠にひじを着いて、ぼんやりとつぶやいた。
「わたし、結婚なんてしたくない。愛してない人のところに嫁ぐなんてまっぴら。できれば、ずっとこうやって、ゾフィーと一緒に遊んで暮らしていたいわ」
「それはムリよ、アデレード」
 ゾフィーはおっとりと答えた。針を動かしながら。
「noblesse oblige……」
「何、それ?」
 アデレードはかるく眉を寄せた。ゾフィーは微笑む。
「高貴なるモノの義務、っていう意味だそうね」
 白い手は休みなく動いている。銀の針がきらめき、真っ白い指先でキラキラと踊った。縫い上げられていくのは精緻な花々の光景だ。赤に黄色、白に青。紫に桃色。様々な花々が咲き乱れる美しい光景。
「わたしたちはこうやって幸せに暮らしているんですもの。それも、国民の皆が一生懸命働いてくれているからだわ。私たちがこうやって着ているドレスも、このソファも、髪に飾った銀の櫛だって、みんな国民のみんなが治めてくれた税で買われたものだもの。だからわたしたちはみんなが出来るだけ幸せに暮らしていけるように義務を果たして生きていかないといけないのよ」
「……真面目ね、ゾフィー」
「王女ですもの」
 微笑むゾフィーの笑みには、かすかな諦念が漂っていた。アデレードは哀しくなる。手を伸ばし、ゾフィーの手を取った。ふっくらとして白い、砂糖菓子のような手だった。
「だから、こうやって少女時代を暮らしていける間だけが、わたしたちの自由な時間。そこでアデレードとお友達になれて私はとっても仕合せよ。だって、アデレードは、わたしを普通の女の子のようにあつかってくれるんですもの」
「……」
 宮廷でのゾフィーの立場を知っているアデレードには、何も返事が出来なかった。
 金糸・銀糸でびっしりと刺繍を施されたガウンを身にまとい、無数の貴石をちりばめた金銀の装飾品を身にまとったゾフィー。真っ黒い髪と真っ白い肌のうつくしいゾフィー。ゾフィーはいつかどこかの貴族に嫁ぐか、さもなければ他国の王族によって妻とされてしまうことだろう。そうしてレースと花で飾った塔のてっぺんに閉じ込められて、半永久的に赤子の世話でもさせられる羽目になる。
 おっとりとしたゾフィーはそれを受け入れているようだったが、アデレードには、その覚悟がどうしても分からなかった。
 どうして自由に生きたいと思わないの? 自分の望んだように生きたいと思わないの? ……そう何度も問いかけた。けれど、ゾフィーは微笑んで答えるだけで何も言わなかった。王女というのはそういう存在なのだ。背負わされたnoblesse obligeはあまりに重く、『王女ゾフィー』を必要とするものは居ても、『ただのゾフィー』を必要とするものは誰も居ない。
 ただ、自分ひとり以外には。
「ゾフィー」
 ふいに、衝動的にアデレードは手を伸ばす。ゾフィーを抱きしめた。ゾフィーは小さく悲鳴を上げる。指に針を刺してしまったのだ。
「なあに、アデレード? 痛いわ」
「ゾフィーが幸せに暮らせるようにするには、わたしはいったいどうしたらいいのかしら」
「……」
 微笑んでゾフィーは答えなかった。代わりに窓を開ける。冷たい風が吹き込んでくる。黒檀の窓枠に粉雪が散った。
 ゾフィーが窓の外に指を差し出すと、雪に血が滴った。ゾフィーは微笑みながら、独り言のようにつぶやいた。
「わたしに娘が出来たら、きっと、こんな雪のように白く、血のように赤く、黒檀のように黒い娘が欲しいわ」
 その父親は誰なの――― アデレードは、問いかけることが出来なかった。
 そのとき、ふいに、塔の扉が開いた。
「ああ、寒い。なんて寒さなんだろう」
 つぶやきながら、誰かが塔の階段を上ってくる。二人はそちらを見る。黒檀のドアを開いて現れたのは、二人よりもわずかに年下と見える少年だった。
 古い黄金のような鈍い色の金髪。ぶどう酒を満たしたアメジストの杯のような瞳。ゾフィーの弟のローラントだった。まだ、11にしかならない。ブランシュタイン王国の、唯一の王子。
「やはりここにいらっしゃったのですね、姉上」
「どうしたの、ローラント?」
「めずらしい果物が献上されたので、姉上に差し上げたいと思って持ってきたのです」
 ローラントは微笑む。繊細な、丁寧に作り上げられた細工物のような美貌だ。金の巻き毛が彩る白い肌は、まるで精緻に彫刻を施した大理石のよう。11にしては背の高いローラントは、二人に向かって籠を差し出してみせる。そこにはルビーのような果肉のこぼれる石榴が盛られていた。
「こんな季節に石榴なんてめずらしいわね」
「南のクラーシュから運ばれてきたもののようです。よければどうですか、姉上。……アデレード」
 はじめてその存在に気づいたように、ぞんざいにアデレードの名を付け加える。アデレードはわずかにむっとした。この美貌の王子は、このブランシュタインの唯一の世継ぎだ。けれど、彼は実際のところはあまり有能な少年とは云えない。繊細な感性を持ち、美しいものに対して敏感な神経をもつけれど、その能力は国を治めていく能力とは無縁のものだ。
 幼い頃に母をなくしたせいか、ローラントはゾフィーに過剰なまでの親愛の念を抱いている。それは傍らから見ていて危うさすら感じるほどのものだ。アデレードはそのあやうさに時折恐れのようなものを感じる。紫水晶のような瞳の奥に、なにか、人に伝えることの許されないような感情を抱いているような、そんな気がして。
 けれど、ローラントは…… アデレードにとっては、将来の結婚相手かもしれないのだ。
 大貴族の娘であるアデレードの父は、代々、宰相としてブランシュタインの政治を牛耳っている。代々のブランシュタインの王は政に疎いことが多く、たいていの政治はアデレードの家系であるシュバインノルン公爵家によって任されているようなものだ。
 アデレード・マリア・シュバインノルン。その名はアデレードにとっても決して軽いものではない。アデレードもいつかはどこかの貴族、あるいは王族の元へ、政争の道具として嫁がされることになる。そんなことは分かりきっている。だからいつも忘れるようにしている。たった今、ゾフィーとすごすこの時間だけを愛し、いとおしみ、それだけのために生きようと思っている。
 ローラントが石榴を割ると、ルビー色の粒が零れ落ちた。ローラントは微笑みながら石榴をゾフィーに差し出す。ゾフィーはそれを受け取り、微笑みながら口へと運ぶ。
 暖炉だと火が燃えている。黒檀の窓際に積もった雪に、ゾフィーの血が滴っている。平穏な日々。少女たちの日々。
 けれど、ゾフィーもアデレードも、もう13歳だ。そろそろ婚姻の話が出始めてもおかしくない年頃だ。こんな日々はもう長くは続かない。アデレードはそのことを痛いほどに悟っている。
「私にも頂戴、ゾフィー」
「ええ。甘くてとても美味しいわよ」
 透き通った粒のなかに赤いルビーの色彩を秘めた石榴の粒。アデレードは拾い上げ、唇に含む。かみ締めると酸い味と甘みとが共に口に広がる。アデレードは不意に思う。石榴…… 神話の中で、無垢な少女を冥界の王へと嫁がせた罠の果実だ。
「美味しいですか、姉上、アデレード」
「ええ、とても美味しいわ、ローラント。わざわざ私たちにありがとう」
 微笑みながらゾフィーが言うと、ローラントは微笑んだ。その笑みに、その紫水晶の瞳の奥に、何かが見える。仄見える。けれど、そのときにのアデレードには、その瞳の奥にあるものを見て取ることは出来なかった。
 ……あるいはそれを理解していたなら、未来は変わっていたのだろうか。


 ―――もう、20年の前の話だ。

 
 

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