1.


 はじめに手渡されたのは、ぴったりとした長い袖の付いたドレスだった。
 その上に身に着ける清潔な白いエプロン。エプロンの胸には青い薔薇の刺繍。ドレスの色は濃い紺色。羊毛で編まれたドレスの生地は堅く、まるでどこか体が拘束されているような気分になる。ある意味においてはそれは嘘ではないのかもしれない、とユーリアは思った。このドレスは拘束着。生涯このドレスに体を押し込められ、城の後宮に仕え続けるという誓いをあらわす服なのだ。
「着替えは終わりましたね?」
 ユーリアが奥の部屋から出てくると、出迎えたのは、灰色の髪を堅苦しく結い込めた婦人だった。この後宮仕えの召使い長、テーア・アタルベロだ。
「はい、召使い長様」
「テーアと呼びなさい。それでけっこうです。それでは、お前のお仕えする場所へと案内をいたしましょう。ついていらっしゃい」
 ユーリアはテーアについて歩き出す。タペストリを垂らして石壁を保温していた部屋を出ると、とたんに、冷気が頬を撫でた。
 ブランシュタイン城――― 巨大で古い、長い歴史を持つ城。
 片側の壁には硝子の窓が高い場所に並び、地面にしきつめられた絨毯へと淡い光をそそいでいた。今は春。まだまだ寒さは厳しいけれど、太陽がしだいに力を取り戻し、ブランシュタインに短い夏を運んでくる季節だ。
 城の中を歩き回っている人々は存外に多かった。
 さまざまなものを手にした召使いたちや、軽装に身を包んだ兵士たち。豪奢な衣装の貴族たち。けれど、その誰もがユーリアとテーアの姿を見ると、そそくさと顔を伏せるようにして視線をそらした。ユーリアはテーアを見た。それでもテーアはまっすぐに背筋を伸ばして歩いていた。ユーリアはわずかにそれを不思議に思う。そこに、テーアが声をかけた。
「ユーリア・ベルトラント」
「はい」
「姫様付きの私たちは、この城ではいないものと見なされています。くれぐれも他の城の者たちと友誼を結ばぬように」
「はい……」
 複雑に入りめぐらされた回廊を、テーアとユーリアは何度も巡った。
 肖像画の掲げられた回廊、長い長い階段、彫刻をほどこされた灰色の石の柱、そして、光の入り込む場所に作られ、色づいた光を降り注がせる何枚ものステンドグラス。
 ブランシュタインは、硝子と金属の細工物で有名な国だ。
 その名に恥じぬよう、城にはさまざまな装飾が施される。天井からぶら下がるシャンデリアは硝子、柱に絡みついた蔓薔薇は鉄で作られている。けれど、生の花が飾られているところには一回も出会うことが出来なかった。
 陰気な城だ。ユーリアは心のどこかでそう思う。
 城自体が陰気だというわけではない。モザイク細工を施された床も、色とりどりの綾なすタペストリも、冬の長いこの国の無聊を慰めるべくだろう、美しく飾り立てられ、まるでそれ自体が美しい細工物の展示室のように美しい。けれど、道行く人々の顔に笑顔がない。どことはなく皆が暗い顔をして、口数少なく歩いていくように思える。
 そして、長い廊下を何回も何回も通り過ぎ、道も分からなくなった頃、二人は、一つの大きなドアの前に立った。
 彫刻を施された樫の木の、巨大な扉。ドアには重たげなかんぬきがかけられ、中にいるものを閉じ込めているかのようだ。テーアは懐から重たそうな鋳鉄の鍵を出す。そしてドアを開いた。
 ―――春が、広がった。
「ああ……」
 ユーリアは思わず声を漏らす。光景が一転した。降り注ぐやわらかな春の陽。そこは、花々の咲き乱れ、木々の茂った、ちいさな森だった。
 おおきな白い花をつけた百合、青い宝石をばら撒いたようなルリハコベ、そして、アーチに絡み付けられて花をつけた蔓薔薇の花々。木々は木漏れ日を漏らし、その入り組んだ枝々の向こうに一本の塔が見える。高さは六階ほどの高さはあるだろうか。城の離れといったところか。半ば、城の背後の湖に張り出した岬の上に築かれ、湖に浮かんでいるかのような塔だった。
 テーアは花々に眼をむけることもなく、まっすぐに歩いていく。けれど、その瞬間だった。ふいに、花々が激しく揺れて、白い服を着た何者かが、花の間から飛び出してきた。
「テーア!!」
 走ってきたのは、少女だった。ユーリアはその姿に目を奪われる。それは、それくらい美しい少女だったのだ。
 漆黒の髪、純白の肌。唇は赤く、瞳の色は明け初めた空の紫水晶。愛らしい顔立ちの少女。それは、走ってくる、走ってくる。そして、厳格なテーアに向かって、飛びつくように抱きついた。
「なんですか、シュネイゼ姫様。どうなさいました」
「あのね、シュネイゼね、小鳥さんをみつけたの。とべない小鳥さんなの」
 少女はたどたどしい口調で言うと、両手を差し出す。そこには一匹のひわがいた。まだ幼鳥なのだろう。小さな体をしていて、体をふるふるとかすかに震えさせていた。
「それは……」
 テーアが何かを言いかけたとき、ユーリアは思わず、さえぎるように声を出してしまっていた。
「それはとべない小鳥ではありませんわ。きっと、巣立ったばかりなのです」
 少女は、びっくりしたように目を丸くして、ユーリアを見た。
 初対面だから驚いている、当然だろう。けれど、話し出してしまった以上、とめることはユーリアには出来なかった。シュネイゼの前に立つと―――身長はほとんど同じだった―――やさしくその手に手を重ねた。
「巣立ったばかりの鳥は、なかなか飛ぶことが出来ずに地面にいることも多いと聞きますわ。ですから、きっとそのひわも巣立ったばかりで、地面に落ちていたのです。何もしなくとも、近くの木の枝に止まらせておけば、すぐに親が迎えにやってきますわ」
「……おねえさん、だあれ?」
 あどけない口調だ、とはじめは思った。けれど、それは違うとユーリアはまもなく思う。
 それは、16・7歳ほどの少女だ。
 手足は健やかにしなやかに伸び、腰は細く、ふっくらとした胸乳がゆったりとしたドレスの胸を持ち上げている。身長は並みの少女よりも幾分か高いだろう。長い黒髪は濡れたような光沢を放ち、背中で一本に編み込まれていた。肌は白い。雪のように白い。けれど、そのうつくしい瞳に知性の色は無かった。春の花のような淡い紫色の、どことなく焦点の合わない目。少女はユーリアに出会ったことにはにかんだのか、手を口に運び、さかんに爪を噛み始める。
「そのひわは、私が木に戻しておきましょう」
 ユーリアは笑いかける。そんなユーリアの顔を、少女はじっと見つめていた。そして聞いた。
「なんでおねえさんのかおはよごれてるの?」
 ユーリアの顔には、大きな、赤黒い痣がある。
 痣を斑に覆っていた。額や頬、まぶたの上にも赤黒くいびつな形の文様を描いている。長い髪はこげ茶色、瞳の色は青緑。その痣さえなければユーリアは美しい娘だったろう。けれど、正面を切ってそれをユーリアに言うものはほとんどいない。けれど少女はなおも続ける。
「おねえさんのかお、きたないね。あらったほうがいいよ」
「……」
 テーアは黙り込んだまま、少女の手から小鳥を奪い取った。
「シュネイゼの小鳥さん!」
 少女は悲鳴を上げる。テーアは冷たく言い放った。
「姫様、お花でお遊びくださいませ。わたくしはこのユーリアに仕事を言いつけなければなりません」
「シュネイゼの小鳥さん……」
「なりません。早くお行きなさいませ」
 ぴしゃりと言い放たれて、たちまちのうちに、少女の顔がゆがんだ。
 泣き出しそうに口がへの字になり、目に涙が浮かびだす、少女の手がぎゅっと握り締められた。まるで5つの幼児のようなその仕草は、16・7歳だろう美しい少女には、不釣合いという以上に違和感を感じさせた。
 やがて、少女はぱっと踵を返すと、そのまま花々の間へと走っていく。そして後にはテーアとユーリア、そして、一羽のひわだけが残された。
 テーアは、ため息をついた。
「……驚いたでしょう」
「……ええ」
 ユーリアは詰めていた息を吐き出す。テーアはあきらめたような微笑でユーリアを見た。
「あれが、シュネイゼ・ブランシュ・フリッカ・ブランシュタイン殿下…… わたくしどもがこれからお仕えする姫君です」
 シュネイゼ・ブランシュ…… 白雪姫。
「まずは塔へ参りましょう。そこで詳しいことを説明します」
 テーアは歩き出す。それに、「少々お待ちいただけますか?」とユーリアはひかえめに声をかける。
「この鳥を木に戻したいので……」
「ええ」
 テーアが答えたので、ユーリアは微笑んだ。そして、近くの木のこずえの上へと手を伸ばし、ひわの幼鳥をそこに止まらせてやった。



 シュネイゼ・ブランシュ。『白雪姫』。それはブランシュタインの真珠にして雪、雪にして花。『雪の純白』を意味するその名をもつ姫君は、ブランシュタインの誇る美貌の姫君だった。
 彼女が民衆の前に姿を現すことは、めったに無い。それは彼女があまりに美しいからだといわれる。あまりに美しいため、その姿を人目にさらすことは、危険と判断されたというのだ。また、王の寵愛があまりに大きく、姫君を人々の目にさらすことが惜しまれたのだという話もある。けれど、実際のところ、その推測のどれも正確なものではない。
「姫様は、ああいったお方なのです。ご芳齢は今年で16におなりです。けれど、その心は、たった7つの子供のまま……」
 テーアは塔の召使いたちのためのフロアで、ユーリアのために、ゆっくりと、隠された真実を語ってくれた。
「国民の信義も厚い『白雪姫』が、実際のところは白痴だということは、国民のためにも明かせることではございません。ですから、わたくしどもは城のほかの者たちと交流を持つことなく、姫君のためにだけお仕えしなければならない。それも、生涯秘密を漏らさぬように、姫君にお仕えし通さなければならない。……分かりますね?」
「はい」
 ユーリアは頷いた。そのユーリアの顔を、テーアはまじまじと見つめた。そして、ふっと、自嘲的な笑みを漏らした。
「可哀想ね。その痣はどうしたの」
「生まれたときからございました」
 ユーリアは、淡々と答えた。
「私が産まれた時、産婆は母に私を見せなかったそうです。あまりに醜い娘なものだから、産褥の床についた母に衝撃を与えてはいけないと。そして、私はずっとこの顔を隠して暮らしてまいりました。あまり醜い娘だから、けして人には見せぬように、人前に出して家の恥をさらさぬようにと言い聞かされてまいりました」
「……姫様と同じということですね」
 テーアはため息をついた。
「それではユーリア、あなたは生涯姫様にお仕えする覚悟は出来ているのですか?」
「はい」
 ユーリアは即答した。
「こんな醜い私目を働かせてくださる場所は他にございません。醜い娘がいれば気分が悪くなる、作物の出来が悪くなり、家畜が乳を出さなくなると罵られたことも多々ございます。それに比べれば、姫様の申しようも、ずいぶんとお優しくていらっしゃるものです」
「醜いゆえ他の場所には仕えられぬ……」
「ええ、私の行く場所は他にはございません。誠心誠意、姫君のために働かせていただきます」
「分かりました」
 テーアは立ち上がった。
「今まで、私はひとりで姫様のお世話をさせていただいておりました。助けになる新しい侍女が来ると助かります。ユーリア、これからも姫様に忠実にお仕えするように」
「かしこまりました」
 ユーリアは立ち上がり、スカートを持ち上げて、深く、深く頭を下げる。そのときテーアは初めて、厳格なその顔に、かすかな笑みを浮かべた。



 
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