16.



 短いやり取りを終えて部屋を出ると、そこには、緑の髪の少年が、大人しく待っていた。
「行きましょう」
「……はい」
 アデレードは、振り切るように、歩き出す。半ば、走るように。
 眼の奥が熱くなる。涙が滲んでいるのだった。アデレードは気付かずにはいられなかった。自分は決して、ローラントを憎んでいたのではなかったのだ、と。
 アデレードにとってのローラントは、最後まで親友の弟であり、護るべき少年であり、気弱な幼馴染だった。夢見がちで繊弱なローラントはそれゆえに決して王となるべきではなかった。彼の精神が王という名の重さに耐えうるはずが無かったのだ。
 10日。―――どれほど長くとも10日後には、ローラントはすでにこの世に無い。
 そして、手を下したのは、アデレード自身だ。
 シュバインノルンの杯には、常に美し酒が充たされる。ただし、それが豊穣な葡萄酒であるのか、さもなくば死をもたらす毒杯であるのかを誰も知らない。そしてアデレードはローラントに毒杯を仰がせた。彼自身も知らぬうちに。……それは、シュバインノルンの毒にあって、最も強力で、最も忌まわしい毒の一つだった。
 恐水病。
 その忌まわしい病を、アデレードは、ローラントに植えつけたのだ。
 恐水病に狂った犬を傷つけ、その傷口が膿むまで待つ。そして、膿んだ傷口から染み出した汁を、中が中空になった針で、標的の身体へと注ぎ込む。
 その量はほんの僅かでいい。もしもより確実にしたいのなら、二度、三度と繰り返せば良い。傷口が赤く、かゆみを帯び出したら、それは標的が恐水病に感染した証拠だ。そうなれば治癒法は無い。標的は恐水病に侵され、必ず、死ぬ。
 アデレードは髪を撫でるふりをして、ローラントの身体を確かめた。首にはぽつりと赤い腫れ物があった。それは虫にでも刺されたのだろうと、誰も気にも留めないほどの小さな傷。だが、アデレードにとっては、それがすでにローラントに冥界への招きが決まった証拠だということが、はっきりと分かった。
 恐水病は病だ。誰であっても感染する可能性はある。恐水病に狂った犬にかまれることが最もありふれているが、中にはねずみに、あるいは愛玩用に飼っている兎にかまれて感染するものもいる。ゆえにローラントが恐水病で狂い死にをしても、それが毒殺であると断定することは誰にも出来ない。それゆえにこれはシュバインノルンにあって最も強い毒なのだ。決して毒殺であると知られることの無い、密やかな毒――― 
 恐水病を発症したならば、生きて、10日。精神が錯乱し、水を恐れ、最後には呼吸が止まって死ぬ。ローラントは二度とあの中庭の花園へと足を踏み入れることは無い。
「お妃様、どうして泣いてるんだ?」
 ふいに、傍らの少年が、不安げに問いかける。アデレードは乱暴に袖で顔をこすると、「なんでもないわ」と言い放った。
 おそらく、放たれた刺客は、兄からのものだろう。
 どれだけ秘密裏に行ったといっても、病の毒を用いたということ…… それを準備させたということ、が兄に伝わらぬはずが無い。アデレードの兄である宰相シュバインノルン公。彼がアデレードが反旗を翻したことを知ったなら、確実に、妹を捕縛しにくるだろう。
 できるならばローラントに毒が効いたと確信するまで宮廷に留まりたかったが、兄が動き出したというのなら、すでにそれも限界だ。同じシュバインノルンの血を引くものとして、兄は、兄だけはローラントの死の真相を悟るはず。
 アデレードの直属である『鏡の中の狩人』だけを用いてシュネイゼを誘拐し、同じく、リヒテルビンに密通している仲間の待つ森の城へ預けて一日。ローラントへと毒を注いでからはさらに数日。宰相である兄の眼をごまかすのはどう頑張っても数日が限界だった。
 ローラントを病に見せかけて殺し、同時にシュネイゼを己の手に。同時にシュネイゼの身柄…… 正確には、その身体に流れる『聖なる青い血』を引き換えに、リヒテルビンとの交渉を再開する。それが、彼らの計画だった。
 ローラントが死ねば、シュネイゼの後見となるのは義母である王妃である己だ。宰相である兄であってもその決定権には口を出せない。否、出させはしない。これ以上、シュバインノルン家の権力のためにシュネイゼを利用させはしない。シュネイゼをこれ以上傷つけさせなどするものか。シュネイゼは…… ゾフィーの忘れ形見は、絶対に己が護る。
 鏡の間へと入り込む。幾重にも重なったカーテンをもどかしく掻き分けて、アデレードは、鏡の前へと駆けつけた。
 暗い金色の装飾が取り巻いた、身体の全ての写りこむ、巨大な鏡……
 アデレードは装飾の一部に指をかける。外からは蔦のモチーフとしか見えない飾りを、ある、決まった複雑なパターンで操作した。最後にパーツの一部を抜き取ると、からくりの動く音がする。軋みながら鏡が動いた。
 扉のように、横に、すべる。
 ―――冷たく湿った空気が、流れ出してくる。
 鏡の向こうにあるのは、何の明かりも無い、真っ暗で無骨な通路だった。
 城の中に縦横に張り巡らされた隠し通路。その暗い隘路から、湿った暗闇が、流れ出してくる。
 アデレードは急ぎ、ドレスを脱ぎ捨てる。ずっしりと重いオーバードレスを脱ぎ捨てると、その下は白い生地のシンプルなアンダードレスだけだ。レースをたっぷりと使ってボリュームはあっても、動きやすさは段違いだといえるだろう。足にも手早くスリッパを履く。舞踏靴よりはましだ。
「路は?」
「『引っかき屋』に調べてもらっといた」
 いつのまにやら少年の足元には、猫がいた。アデレードは眼を疑う。この少年は猫など連れていただろうか? 真っ黒い猫の目は少年と同じく赤い琥珀のように赤く、アデレードを見上げた猫は、ニャア、と鳴いて尾をくねらせた。
 少年は懐から取り出した首輪を猫に巻きつけた。小さな石が蛍のように光っている。夜光珠だ。これを目印に、猫に道案内をさせるつもりなのか。……猫に? アデレードが思わず顔をしかめても、少年は、「大丈夫」と笑顔を見せる。
「『引っかき屋』はオイラなんかよりずっと頭がいいんだ。急ごうよ、王妃様!」
 少年が地面に下ろすと、猫は、音も無く走り出した。鏡の向こうへと。少年は身軽に猫を追いかける。アデレードもまた、ためらいながらも後に続いた。暗い通路へと足を踏み出すと、その後ろで、軋む音を立てて再び鏡がとじた。
 暗い路。じっとりと露に濡れ、苔に覆われた床や壁がひどくすべる。ぞっとするような虫が壁を這いまわっていた。目の前に見えるのは少年の姿、そして、猫の首に付けられた夜光珠のほのかな光だけ。確信に満ちた足取りで少年は駆けていくが、それを追いかけても本当にいいのか。迷う己をアデレードは叱咤する。今は迷うべきときではない。信じなければならない。路はすでに己の手で選んだのだ。
 決して、帰れない路を。
 ぬぐっても、ぬぐっても、後から、後から、涙は頬を伝う。白いアンダードレスの、豊かな胸へと滴り落ちた。視界がかすむと必死で涙をこらえようとするが、こらえようがない。ローラントの夢見がちな眼が、成人した男性にはふさわしくも無いやわらかい声が、耳に響いて離れない。
 愛してはいなかった。だが、ローラントは己にとっては間違いなく夫であった。長いときを共にしてきた。一度として、男として愛してはいなかったにしろ、大切な存在であったことは間違いなかった。誰よりも大切なゾフィーの弟であり、幼馴染であったのだから。大人しくて夢見がち、柔弱で繊細なローラント。運命に耐えられず、狂気というやわらかい檻へと逃げ込んだローラント。
 ―――ローラントを狂わせたのは、王の座だ。
 王権は剣に座すが如し。それを知らぬのは、真に、王の座が意味するものを知らぬものだけだ。
 王は強くなければならぬ。王は苛烈でなければならぬ。王は非情でなければならぬ。誰かを生かすがため、誰かを殺す。それを選ぶものが、『王』なのだ。
 あの時代、大陸は戦乱のさなかにあった。"白鷲王"シーグルドの進撃の前にあって、はるか北方のブランシュタインにおいても、平穏などがあろうはずがなかった。
 ブランシュタインもまた、再三の出兵の願いを受けた。当時の隣国からだ。ブランシュタインはそれに応えた。地味の貧しいブランシュタインにとっては、鉄や銀を売るということが必要だった。当時の王は国を富ますがため民を売った。王は戦を好んだ。己もまた戦を望んだ。英雄詩の中で生きて栄光を掴むことを望んだ。彼はあるいは生きながら伝説となった"白鷲王"を羨望したのやもしれぬ。
 だが、まだ幼かったローラントに、それが理解できるはずも無かったのだ。
「出たよ、お妃様!」
 ふいに、目の前に、おぼろげな光が現れる。長く続く隘路に麻痺しかけていた思考が、ふいに、覚醒させられる。
 少年の髪が月の光に透けて、美しい翠に光る。しなやかに身を翻した猫に続いて、少年もまた、身軽に段差を飛び降りる。大きな石の転がった古い闘技場…… すでに高く上り、白く澄んだ月の光に照らし出されたその場所に、アデレードは、呆然とした。
 立ち尽くし、動けないアデレードに、少年は不思議そうに振り返る。頭に付けた羽飾りが揺れた。
「おきさきさま……?」
「ここ、は」
 どれだけ長く歩いたのか。
 あるいは、長く続いた隘路に、意思が麻痺していたのか。
 あの路が、ここへと続いていたとは。
 光に照らし出されるそこは、打ち砕かれた柱が、石像が、廃墟のように転がった闘技場だった。あるいは『処刑場』というべきか? いずれにしても、王宮からは離れた場所であり、また、通常ならば足を踏み入れることが決して許されぬ禁則地だ。閉ざされた場所。なるほど、ならば人目に付くことも無く出入りも出来よう。その存在を秘された兵である『鏡の中の狩人』たちがここを選ぶのも頷かれた。
 だが、今この瞬間にこの場所を見せ付けられるということは。
 既視感は、すでに、罰にも似ていた。
「……」
 ふらり、と踏み出したアデレードの足が、砕けた大理石のプレートを踏む。かつてはこの闘技場には純白の大理石がモザイクとなって埋め込まれていた。今は崩れ落ちたバルコニーに、アデレードもまた、座っていたことがある。酸鼻きわまるその光景、眼を逸らしていたから、決して記憶に残っているわけではないけれど。
「……そこの小姓」
 戸惑いの表情で立っていた少年の、その髪に飾った羽飾りが、驚きにぴくんと揺れる。
「う、うん」
「ここが『何処』なのかを、知っているか?」
 少年は戸惑いの表情を浮かべる。困ったように眉を寄せて、小さく、答えた。
「ううん、知らない」
 アデレードは笑った。乾いた笑みがこぼれた。視界が、ゆらりとにじむのを感じる。
「そうね…… そう」
 当たり前だ。知るはずが無い。アデレードは涙を振り千切った。泣いている暇は無い。ドレスをさばいて立ち上がると、「いきましょう」と少年へと言い放った。







 もう17年も、あるいは、それ以上も前だ。
 先王は、宮殿に程近い場所に、ひとつの闘技場を作った。
 それは、王がために武器の威力を試すという意図を持った――― 闘技場とは名ばかりの、処刑場だった。
 おりしも、"白鷲の聖戦"のただなかだった。武器はいくらでも、飛ぶように売れた。ブランシュタインの鍛冶たちは優秀で、鉱山から出る鉄や銀は品質の良いものばかりだった。そしてそれ以上に王は鋼と血とを、愛していた。それもまた青い血のもたらす狂気ゆえだったのやもしれぬ。シュネイゼから英知が、ローラントから強さが奪われたように、先王からは『慈悲の心』が奪われていた。
 人が死んだ。
 いくらでも死んだ。虫けらが殺されるように、死んでいった。
 己に逆らうものを、王は、いくらでも殺した。王は力を求めた。剣鍛冶たちはより強力な武器を、より優れた剣を求め、王はそれを悦んだ。捕らえた捕虜をもってそれを試した。ローラントは全てを見た。見せられたのだ。『王を継ぐもの』として。
 眼を逸らせば鞭が振り下ろされた。弱さを咎められ、強くあれと強いられた。王であれば戦士であれと、剣を握り、人を斬れと命じられた。縛り付けられた捕虜たちを生きたままに殺せと命じられた。哀願の声も、怨嗟の声もそのままに、おぼつかない腕のままに、人を斬れと命じられた。先王はその血と残虐に酔った…… だが。
 もろく弱かったローラントの心は、その鬼畜の所業によって、たやすく押しつぶされた。
 ローラントが王になって始めて望んだことは、あの闘技場を破壊することだった、とアデレードは思い出す。そして同時に、それは最後の望みでもあったのかもしれない。そのほかにローラントは『王』として求められる責務を全て人形として行った――― 宰相であるシュバインノルン公の言うがままに。





 アデレードは思い出す。
 もう、十数年ほども前のことを。
 それは初冬。まだ木々には紅く、また黄色く染まった葉を残したまま、ざらめ粒めいた粉雪が降り始める季節。
 おおきな天鵞布の天蓋の下の席から、アデレードは、石作りの処刑場を見下ろしていた。
 水鳥の羽を入れたクッションや、青狐の毛皮でふちどられた豪奢な外套。そんなもので身を覆っていても、体はなおも寒々しい。アデレードは傍らをちらりと見た。そこにはゾフィーがいる。宝石を編みこんだつややかな黒髪に縁取られて、雪よりなお白い頬が、常よりもさらに蒼白に、黒瞳がじっと闘技場を見下ろしていた。
 そこには、ひとりの騎士の姿があった。この寒さにもかかわらず、身にまとっているのは質素なダブレットだけだ。縄で戒められ、赤黒く変色した木の枠に戒められている。そして、傍らにはひとりの少年がいる…… 琥珀色の巻き毛、紫の瞳、顔は蒼白を通り越して青黒く、怯えに顔が引きつっていた。
 それは、まだ、10代半ばにも届かぬ、少年の日のローラントだった。
 彼の手には、美しい剣がある。隈なきことは水晶にも似た刀身が、うすぐらい秋の陽の下でも、透き通るように美しかった。それは、銀作りの剣だったのだ。
 常の剣士ならば、扱うことの敵わぬ、鏡銀の剣。
 たおやかな少女のようなローラント。その手には、銀の剣はあまりに重い。そのとおり、ローラントの細腕は震え、あきらかにその剣を扱いかねていた。ローラントの眼が恐怖と絶望を含んで天覧席のあたりを見上げる。そこに座している二人の姫を――― 正確には、姉であるゾフィーの姿を、すがるように見る。
「どうした、ローラント」
 不機嫌な声が、響いた。
 それは王だ。血といくさとを何よりも好む、猛悪な王。ゾフィーとローラントの父。
「さあ、斬ってみよ。何もためらうことはない。そなたもすでに14であろうが。幾度打とうと構わぬ。その男を討ち取ってみよ」
 ローラントの、紫水晶の杯のような眼に、涙が溢れた。
 ローラントは見る――― 眼を閉じたまま、じっと動かないその騎士。それは、ローラントの知る男であった。力もたぬ柔弱なローラントに、けれど、剣の師として仕えてくれた男だったのだ。
 父王の声が、あざけるように、響く。
「さあ、そなたをあなどったその男に、そなたの力を見せてみよ」
 風が吹いた。まだ血腥い臭いを含まぬ澄んだ風は、けれど、身を切るほどに冷たく、ちいさなざらめ粒のような氷を含んでいた。アデレードはゾフィーを見た。ゾフィーは、その黒い瞳で、身じろぎもせず、弟を見ていた。その指が硬く硬く椅子をつかみ、関節が白くなっていた。
 あの男は罪びとだ…… とアデレードは想う。けれど、それは罪と呼べるほどにたいそうなものだったのか。男は、王に対して、白鷲王シーグルドに挑む愚を唱えたのだ。暴君に対するそれは、命を賭した忠告、真の忠義に他ならなかったろう。―――だが王は、それすら理解せぬほどに、暗愚であったのだ。
「ローラント…!」
 王が、尖った声を放つ。ローラントがびくりと肩を震わせた。
 しゃくりあげるように震える肩は、もはや、泣き出す寸前だということが分かった。だがローラントは、唇をかみ締め、両手で剣を握った。重すぎて細腕にあまる銀の剣を。
 ずしゃっ、と音がした。
 アデレードは、思わず眼をそらした。だが、ゾフィーは身じろぎもしなかった。ただその指が、折れんほどの強さで、樫作りの椅子を握り締める。
 ずしゃっ、ずしゃっ、と音が続いた。技量の足りぬローラントに、重すぎ、鈍すぎる銀の剣。一撃でしとめられるはずが無い。
 アデレードは、眼を上げられなかった。あまりに惨い、あまりに酷い諸行だ。遠いから聞こえはしない。だが、ローラントが泣きながら必死で鈍い剣を振るっているさまが、眼をそらしても、まぶたの裏に幾度もひらめいた。
 そして、長すぎる時間が、過ぎて。
 手を叩く音と、満足げな声が、静まり返った処刑場へと響いた。
「よくやってのけた、ローラントよ。なかなかの善い見ものであった!」
 アデレードは、恐る恐る、眼を上げた。周囲を見ると、その場に居合わせた誰もが、苦い胆汁でも飲まされたように、あるいは己が身に剣を打たれたごとくに、苦渋に満ちた表情をしている。ローラントが声を上げて泣き崩れる。血にまみれた銀の剣が、鈍い音を立てて、本来ならば白かったろう石畳へと転がった。
 白い布が運ばれてくる――― 人間らしい形骸すらとどめぬ躯を覆う。真っ赤なしみが広がる。アデレードはひどい頭痛と吐き気を覚える。思わず口元を押さえるアデレードの肩に、そっと、白い手が載せられる。
「ありがとう、アデレード」
 アデレードは、はっと顔を上げて、傍らを見る。
 ゾフィーが、蒼白な顔に、かすかな微笑を浮かべていた。その表情はこわばり、黒瞳には涙が浮いていたが、ゾフィーは確かに微笑を浮かべていた。アデレードをねぎらう笑みを。
「ゾフィー……」
「耐えてくれて、ありがとう。ローラントと、そして、私のために……」
 そして、ゾフィーは、黒い貂の毛皮でふちどられた外套をかきよせ、席を立つ。彼女はローラントのところへ行くのだ、とアデレードはぼんやりと悟った。恐怖と罪悪感とに体を震わせ、まるで幼子のように慟哭している弟を、慰めるために。
 そして、アデレードは思った。
 弟の心の痛みを、殺される騎士の屈辱を少しでも和らげるために、アデレードの手から、毒を購ったゾフィーは、どれだけの哀しみを背負ったのだろうと。
 弟の剣の下へと倒れるとき、すでに騎士が痛みも恐怖も失い、安らぎと眠りの中に天へと旅立つようへと仕向けたゾフィー。彼女はいつか、同じような定めを己の身にも甘んじて負うのではないかという奇妙に不吉な予感が、ざらつく舌で背筋を舐める。


 そして、アデレードのその予感は、しばしの時を経て、まぎれもなく現実のものとなる。




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