15.



 王宮、それも最も奥まった園から、王女が消えた―――
 おそらく、まだ誰もそれを知るまい、とアデレードは思う。その証拠には、王宮には今日も、優雅な舞踏会が催されている。
 天井には花盛りの春が描かれたフラスコ画があり、足元には稀少な薔薇色や萌黄、薄緑といった色彩の大理石を用いたモザイクが、世にも優雅なモチーフを描く。その上をすべるのは貴婦人たちのドレスの絹やレースの裾。そして、心の浮き立つような演奏がチェンバロやヴィオラ、様々な種類の楽器によって奏でられ、春の盛りにしか味わうことの出来ない瑞々しい魚や果実を用いた菓子が客人をもてなす。部屋のそこかしこでは貴人たちがそれぞれの社交に忙しい。まだ幼さを面差しに残した少女が着ているのは、彼女が未婚であることをしめしている白いドレス。けしてブランシュタイン本来の風習ではないが、『未婚の少女は白いドレスを纏う』という流行は、華やかさもいやましにまそうというリヒテルビンの社交界より、さまざまな流行などと共にこのブランシュタインにまで流れてきつつあるのだ。
 大きな湖の水が、決して流れることもざわめくことも無く、ただ、清くあり続けることがありえるだろうか? ありえまい。流れなければ淀む。それが定めだ。歴史も、人も、全ても。
 気まぐれなローラントが舞踏会に姿を見せぬというのは珍しいことではない。今日もまた、彼は舞踏会の始めに始めのぶどう酒を開け、乾杯の声と共に一杯のグラスを干してすぐ、このホールを辞してしまった。
 その理由を知るものがどれだけいるのか。自らは綴れ織りのクッションを置いた椅子にもたれかかったアデレードは、羽の扇で口元を隠し、翠の瞳でホールを見渡す。人々が笑いさんざめき、あるいは、優雅な踊りの輪を広げるホールを。
 地位の高い貴族たちは、己の領土を治めねばならぬゆえに、このような特に意味も無い夜会へと訪れることはめったに無い。現れるのはもっぱらその奥方や縁戚たち、すなわち、こういった社交の場においてそれぞれの政治的な思惑を遠まわしに伝え合い、あるいは牽制を含めて険悪な眼差しを交し合う。さもなければ婚礼といった形で出世を望むもの、あるいはなりあがることを願いこういった場所へと姿を現すたぐいの人種もいる。優雅な夜会が繰り広げられる…… だが、それはあくまで表立ってのこと。その裏にある真実は、決して、物語にあらわれるように甘いものではないのだ。
 いくたりのものが知るだろう。王女がこの王宮から連れ去られたということを知るものは。
 本当にそれを知っているのならば、このように浮かれた騒ぎなどが起きているはずも無い。全ては闇にまぎれて行われた。手勢は少数であり精鋭であった。二人の侍女を殺し、姫君を連れ去る。その全てにはこの城の中にある隠し通路が用いられており、朝には何食わぬ顔で別の侍女が姫君と自分たちのための食事を受け取った。病に寝付いたシュネイゼのもとへと通っていなかったローラントは、おそらく、己の籠に閉じ込めていたはずの小鳥が攫われたことも知らない。全ては秘密裏に進む。そして、誰も何も知らぬうちに、全てが終わるのだ。
 もうすぐ、とアデレードは扇の裏で歯を噛み締める。
 もうすぐ、終わる。全ての茶番が。
「妃殿下」
 ―――思いにふけっていたアデレードは、ふいに、かけられた言葉に意識を引き戻される。
「あら、どうなすったの」
「ごきげんうるわしゅう、妃殿下。本日はこちらのものの拝謁をお許しいただきたくて」
 声をかけてきたのは、アデレードよりも幾分年かさだろう貴婦人。たっぷりと肉がつき、白粉をはたいたさまは、まるで、まるまると太った猫のよう。それに引き換え傍らに立つ少年は小柄だった。緊張を隠せぬ面持ちで、地面に膝をついてかしこまる。お仕着せらしい膝下までのダブレットには、色とりどりの絹が接ぎ合わされていた。金糸の房を飾った、華麗な、けれどいささか滑稽な風情。おそらくはリヒテルビン、それも王宮の最新流行だろう、とアデレードは見当を付ける。
 硬い表情の少年は、片腕にフィドルを抱えていた。ヴィオラに良く似た、けれど、少しばかり意匠の異なる楽器。元は流民が用いるもので、すくなくともブランシュタインの宮廷楽師が持つようなものではない。
「まあ、可愛らしい。あたらしいお小姓ですの? それとも、楽師様かしら」
「あの、リュートと申します。どうぞお見知りおきを」
 少年は硬い声で言って、頭を下げる。髪に飾った羽がふわんとゆれる。年のころはどう見ても12・3といったところだろうか。幼い、といったほうがいいような容姿だ。アデレードは少年が珍しい緑黒の髪を、赤琥珀のような眼を持っているということに、初めて気が付いた。
「本当は今日はこれの雇い主でいらっしゃるシュヴァンヴァイス卿がいらっしゃるはずだったのですけれども、卿はどうしても都合が悪いとおっしゃって。代わりにお気に入りの小姓を、どうぞ役立ててくださるように、とおっしゃいましたのよ。このリュートは小姓でございますけれども、見ての通り、フィドルを実に上手く演奏いたしますの」
 赤い琥珀のような眼が、ほとんど恐怖心に近い緊張を含んで、アデレードを見上げている。けれどアデレードが感じたのはまったく別のことだった。
 そこに出された名前。それに思わず、凍りつきそうになる。
 シュヴァンヴァイス卿。
「ええ、夜会の前までは、私どももこれの演奏を聞いておりましたのよ。まあ、舞曲をいたしましてね、まるで私どもまで心が浮き浮きとしてしまうような不思議な演奏でしたわ。私のような年のものまでが、まあ、みっともなくくるくると……」
 彼女はころころと可笑しそうに笑い転げるが、しかし、アデレードは羽扇で隠した口元に、動揺を隠すことだけで必死だ。少年の赤琥珀の目が、床に辞したまま、じっとアデレードを見上げている。
 ふっくらとした肉付きの貴婦人は、ハルトヴィック公爵家の公爵夫人。ハルトヴィック公爵はリヒテルビン派に組するもののひとり。いささか血の巡りの悪い夫人は己の立場を理解すまいが、その手に差し向けられたもの、そして、シュヴァンヴァイス卿という名を出した以上、この少年が、なんの変哲も無いただの小姓や楽師であるはずが無かった。
「ずいぶんお若くていらっしゃるのね。リヒテルビンにはこのようなお人形さんのような楽師さんもいらっしゃるの」
「それにしても珍しい毛色、眼の色でしょう。こんな不思議な子どもを持っているなんて、まあ、シュヴァンヴァイス卿は不思議な方でいらっしゃいますこと」
 さすが…… と言いかけた夫人の言葉を、アデレードは、パチンと扇をたたむことで、さえぎった。
「申し訳御座いません、ハルトヴィック公爵夫人。私、少々ワインをいただきすぎたようですの。バルコニーで風に当たらせていただきたいと思っていたのですけれども……」
 まあ、と夫人は目を丸くする。口元を押さえた。
「あら、あら、まあ。それはいけませんわ」
 ふっくらとした夫人は、手を上げて小間使いを呼びつける。
「次にはタランテラのエトゥーリア風とやらいうものが演奏されますのよ。最近の流行というのやらは分かりますけれども、私たちには少々忙しすぎて、眼が回ってしまったら大変でございますものね。どうぞ冷たい鉱泉水でも召し上がって、ほてりを醒まさせるとよろしいですわ」
 公爵夫人の言うことにうなずいて、次々と数人の小間使いが手早く近くのバルコニーへと小卓を持っていこうとする。花や菓子、井戸で冷やされた鉱泉水。そこでアデレードは公爵夫人に出来る限り何気なく切り出す。
「もしもよろしかったら、こちらの楽師をお借りしてもよろしくて?」
「あら、あら。このリュートに興味をお持ちでございますの」
「リヒテルビンでの新しい音楽について、私、少々興味がございますの。あそこのバルコニーなら静かですもの。なにか静かな小品の一つも聞いて、ほてりを醒まさせていただきますわ」
 微笑むアデレードに、公爵夫人は疑問も持たない。納得したようにうなずくと、羽飾りの少年を立ち上がらせる。少年は片手にフィドルを持ったままだ。その少年を後にして、二人は、静かにホールを後にする。
 バルコニーはホールの片隅、二本の柱の向こう…… だが、柱を超えたところで、アデレードは、ぴたりと足を止めた。
「直裁に申しなさい」
 申し付けると、少年は、軽く周囲を見回した。そしてがらりと口調を返る。硬いものから、砕けたものへ。
「アデレード様を、お迎えにあがれって」
 おそらくはこれが本来の話し方なのだろう。ずいぶんと砕けた喋り方をして、少年は軽く目線を流す。ホールの様子を伺った。
「今はまだ舞踏会があるけれど、夜になれば、刺客が動くんだそうです。それよりも先にアデレード様を『小人の家』にお連れしろって……」
 アデレードは、あらためて少年を見下ろした。
 せいぜいが12・3歳。乳白色の頬にはわずかにそばかすが浮き、緑黒という不思議な色合いの髪が首の後ろでくくられている。可愛らしい顔立ちをしており、機敏そうではあっても小柄だった。とてもではないが荒事をこなせるような風には見えない。だが、だからこそここまでもぐりこむことが出来たのだろう、とアデレードは思う。問いただす時間すら惜しい…… 短く息を止め、吐き出して、「わかりました」と応える。
「では、外へ」
「いえ、城門はダメです。ふさがれてるんだって。衛兵に手が回ってるって」
「なら、どこから?」
「ええっと…… お妃様の、鏡の部屋から……」
 アデレードは得心した。なるほど、あの路ならば、安全に城を出ることが出来る。
 アデレードは、話しながら、すでに半ば駆け足となりかけていた。舞踏用の靴が足にきつい。つづら織りにびっしりと刺繍を施したドレスが重く、歯噛みをするほどに動きが鈍かった。傍らを行き過ぎる小間使いたちの姿もまばら、あたりまえだろう、今は舞踏会で忙しい。けれどもその中の数人は不思議そうに振り返る。構っていられるものか。アデレードは大理石の階段を走るようにして登った。
 刺客は誰だ。だが、それを口にしていいタイミングではないということは理解していた。分かっている。すでに、計画は動き始めてしまっている。遅すぎるくらいだ。自分が『事の顛末』を最後まで見届けようと思いすぎて、逃れれるタイミングを見失った。痛恨のミスだということは分かっているが、しかし、そのミスをあえて犯す程度には、アデレードは動揺していた。そして、その動揺には、れっきとした理由が存在していたのだ。
 絨毯を敷かれた廊下。壁に揺らめく蝋燭の明かり。窓から差し込む月明かり。今宵の月はひどく赤い。それが不吉に思えて、アデレードは唇を噛む。
 ―――だが、己の部屋へと辿りつく前に、アデレードは、一つの部屋の前で足を止めた。
「お妃様?」
 少年が不思議そうな、半ばとがめるような声を上げる。だが、アデレードは動けなかった。思わずその戸を見つめる。豪奢な彫刻を施された両開きの扉。
 ……王の寝室の扉を。
「そこで待ちなさい」
 アデレードは少年に言いつける。少年は、ためらいの表情のまま、だが、こくんとうなずいた。
 アデレードはドアを僅かに開ける。そして、部屋の中へと、身体を滑り込ませた。
 暗い部屋は、しんと静まり返っている。わずかに漂うのは生けられた薔薇のほのかな芳香。幾重にもめぐらされた、どっしりとした天鵞鳥布のカーテン。壁には肖像画がかけられ、大きなマントルピースの上からアデレードを見下ろしている。
 肖像画には、豪奢を極め、冠を戴いた、王の姿。
 ―――肖像画家がいかに偽りを尽くしても、そのひ弱さと紙一重の繊細さ、その翳りを取り除くことが出来なかった、ローラント自身の美しい肖像が、じっとアデレードを見下ろしている。
「陛下」
 部屋の奥へと呼びかける。すると、かすかに身じろぎをする気配がした。
「……誰だい…… 姉上?」
 微睡むような声。ローラントだと気付いて、アデレードは、はっと立ち止まった。
 赤い月が僅かな灯りを投げかけるばかり。部屋は暗く、豪奢な刺繍を施されたリネンばかりがかすかにきらめく。胡桃材にびっしりと彫刻を施した豪奢な寝台に、王は、ローラントは、己の金の巻き毛を敷いて、美しいが蒼白な顔を横たえていた。アデレードに気付きかすかに微笑む。アデレードはそこに立ち尽くした。
「ああ、アデレードか……」
 声に僅かな哀しみが滲む。ローラントは起き上がろうとした。アデレードは静かに歩み寄り、それを制した。
「いけませんわ、陛下。せっかくお休みになっていたのですもの」
「はは。すまないね、アデレード。……夢を見ていたんだ」
 ローラントの瞳は、赤いぶどう酒を充たした紫水晶の杯。ぬぐえない翳りを宿した、夢見がちな眼。その眼の中に残る微かな失望とあきらめの色に、アデレードは、胸の裂けそうな痛みを感じる。
「ずいぶん昔の夢だよ。そうだね、まだ君と私が結ばれるよりも前だ。私たちはまだ子どもで…… 雪が積もっていて、そう、あの中庭で……」
「……」
「私は石榴の実を割ったよ。姉上が半分ほども食べて、君は二つ三つほど口にしたね。私は食べなかったけれど、あの石榴は美味しかったかい」
「……昔の話ですもの。覚えておりませんわ」
 そうだね、といって、ローラントは力なく笑った。
 アデレードは、どうしようもなくもどかしい気持ちを抱えて、ローラントを見下ろす。
 すでに青年という年を越え、一人の男として、生きていくことへの責任を背負ってしかるべき立場。にもかかわらず、ローラントの印象は、アデレードにあってはかつての夢見がちな少年のまま。身体が弱く、争いごとを好まず、何か耐え難い嵐のようなものが現れたのならば、じっと口をつぐんで過ぎ去ることを待つしか知らなかった。そのような柔弱な少年が、どうして苛烈な政争の中にあって生き延びられるだろう。それでも己を鍛え、歯を食いしばってでも生き延びよう、より強く生きようと志すものもあるかもしれない。だがローラントは、ただ、人形のように言うなりになり続けるままで、強さというものを身に付けることが決してなかった。
 最後まで。
「あれは…… シュネイゼは、どうしている?」
 問いかけられたアデレードは、もう、頭の中でとうに決まっていた答えを返した。
「まだ加減が良くないようですの。もしかしたら、少し良くない病かもと、薬師が」
「それはいけない……!」
「ええ、でも大丈夫ですわ。そう、10日ほども休んでいれば、良くなるということですから」
 身体を寝台から起こしかけていたローラントは、その言葉に、「そうか」と身体の力を抜いた。
 アデレードは、緑の瞳で、じっとローラントを見つめる。
「早くあれに会いたい…… せっかくこのように美しい春なのに……」
「ええ、そうですわね」
「この城には美しいものを全てあつめた。あれはここにいるのが一番幸せなことなんだ。そう思うだろう、アデレード?」
「……」
 黙りこむ妻に、ローラントは、「アデレード?」と再び問いかける。
「……ええ、そうですわね」
 アデレードは手を伸ばし、白い貌にかかった巻き毛を、そっと取り除いてやった。ローラントは眼を閉じる。
「少し、眠ろう……」
「ええ」
「今日の夜会には、あれの好きな卵の焼き菓子が出るだろう。持って行かせるように侍女に言いなさい」
「わかりましたわ。……お休みなさいませ、陛下」




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