―――眼を覚ますと、自宅のベットだった。
「う……」
 電話のベルがけたたましくなっている。僕は瞬間、混乱した。なんで僕はここにいるんだろう? 屋上にいたんじゃなかったのか?
 服は昨晩着ていたままで、Tシャツがくしゃくしゃになっていた。僕はとにかく手を伸ばし、受話器をとる。聞こえてきたのはいつもボランティアをしている教会のシスターの声だった。
「エドウィン・ベックマンさんですね?」
「はい、そうですが」
 シスターは、静かな口調で言った―――
「モートン氏が、お亡くなりになりました」
 ……モートン氏は、いつものようにビルの清掃をしていて、ふいに倒れたのだという。
 病院に急いで駆け込まれたが、すでに急性の心筋梗塞で命は無かったという。
「何時だったんですか」
 僕は思わず問いかけた。シスターはなぜそんなことを聞くのかといぶかしみながら答えた。
「昨夜の2時くらいだったそうですわ」
 昨晩の、二時。
 僕がアナベルたちと、飛行船を眺めていた時間だった。
 僕は手を見る。そこには鍵がある。アナベルから手渡された鍵だった。

 モートン氏には、係累もなければ、友人も僕のほかには無かったのだという。だから、モートン氏の部屋の整理は僕に頼まれた。なんとなく予感はしていたが、僕の持っていた鍵はモートン氏の部屋の鍵だった。
 管理人や警察が立会いの元、モートン氏の部屋のドアを開けた――― その瞬間、僕たちは、圧倒された。
 その部屋には、極彩色が、あふれていた。
 壁一面に張られた少女たちの絵。誰も見たことが無いような奇怪なアラベスクを描いたジャングル。さもなければ稚拙な筆致で書き込まれた極地の光景。そして、なによりも見た目を圧倒する、発泡スチロールで作られた巨大な箱舟。
「これは……」
 僕は絶句した。警察が管理人に慌てて聞く。
「モートン氏には、絵画の趣味がおありだったので?」
「いいえ、聞いたこともありません!」
 管理人は慌てて手を振る。僕は、誘い込まれるように、その部屋の中へと足を踏み入れていた。
 壁に貼られた少女たちのイコン…… そう、イコンと呼ばれるにふさわしい。少女たちの顔はすべて写真からの切り取り、さもなければトレーシングペーパーで写されたのだと思われる稚拙な線を見せていた。首から下にはさまざまな極彩色のドレスが貼られ、背中には同じく図鑑から切り取ったのだと思しい蝶の羽が生えていた。
 少女たちの周りは、ありとあらゆる極彩色の文様で飾り立てられていた。キャンディの包み紙、色とりどりのセロファン、リボン、古ぼけた造花、ボタン、ちぎれたネックレス。ありとあらゆる素材で飾られた、蝶の少女たちのイコンは、壁中にびっしりと、それどころか天井までを侵食しているようだった。
 僕はそのあたりにおいてあったノートを手に取る。そこには書かれている。『少女たちとパパ・エディが海辺の王国にたどり着くまでの信じられない旅路の物語』と。
 タイトルの下には署名があった。エドワード・モートン…… エディ・モートン。
 ノートはうずたかく積み上げられ、今にも崩れてしまいそうだ。モートン氏は誰にも告げることなく少女たちとの冒険物語を書き続けていたのだ。何年間?十何年間?あるいは何十年間?
 僕はモートン氏を思い出す。背中を丸め、みすぼらしいコートを肩にかけ、壊れた眼鏡の奥からこちらを伺う怯えた眼を。
 あんなみすぼらしい老人の中に、ここまで広大な世界があったとは、いったい誰が想像しただろう。
 冒険物語のタイトルは、地球のありとあらゆる場所を通り、さらには宇宙にまで侵食を続けていた。様々な場所に人間そっくりの姿で潜んでいる敵、『人間モドキ』たちとの終わりの無い戦争の記録。モートン氏の想像力はありとあらゆる制限を越えて宇宙の彼方にまで広がっていたのだ。そしてモートン氏は一人孤独にその物語をつづりつづけた――― いや、違う。
 モートン氏には、少女たちがいた。
 蝶の羽を持つ、おさなく、勇敢な少女たちが。
 そして僕は眼を上げ、一つのイコンを見つける。
 それは、とりわけ豪奢に飾り立てられた、一枚のイコンだ。
 金モール、銀モール、さまざまな色合いのビーズ、ビンや色ガラスを砕いたガラスの飾り。それらで聖母さながらにきらきらしく飾り立てられた中で、一人の少女が微笑んでいる。新聞に水彩絵の具で着色したのだろう。瞳の色はインクの青だ。髪は金色の巻き毛。そして、極彩色の蝶の羽。
「アナベル」
 僕は呼びかける。けれど、当然のように、アナベルからの返事は無かった。


 


 そして僕は、大人になり、モートン氏が予言したような偉大な芸術家ではなく、ただの一介の美術教師となった。
 ハイスクールで美術を教えながら、その傍らでイラストレーションや絵画の仕事を続けている。あまり売れはしなかったが画集も出たし、作品の何点かは美術館にも収館された。そのなかの一枚が、『海辺の少女』だ。
 そこは、どこか僕も知らない、どこか、とても海の美しい浜辺だ。 
 真っ白い珊瑚の砂の上を、一人の少女が、脱いだサンダルを両手にぶら下げて歩いていく。そんな途中で呼びかけられて、背中をひねって振り返る。そんな構図の絵だ。
 たくさんの人たちが僕に聞く――― あの少女に蝶の羽があるのは何故ですか? なぜ、触覚が生えているのですか?
 答えは一つしかない。でも、誰にも信じてもらえないだろう。アナベルは確かに蝶の羽を持つ少女だった。そして、僕はアナベルの姿を永遠に、とまではいかなくても、出来うる限り長い間、忘れずに覚えていたいと思ったのだ。
 モートン氏のコレクションは散逸してしまった。一部はそういった美術教育を受けないアーティスト専門の美術館に収館されたというけれど僕は知らない。そこにアナベルがいなければ、僕にとっては意味の無い話だ。
 今でも僕は考える。なぜ、僕は『海辺の王国』へ行くことを拒否したのだろうと。
 今の僕は幸せだろうか? 僕の絵はそれなりに認められ、今では妻も子もいる。不幸かといわれるとそんなことはない。けれど、時折僕には、モートン氏の人生が、痛いほどの憧れを持って思い出されるのだ。
 蝶の羽根を持った少女たちに囲まれ、世界中を旅して回った、またとない冒険家の、パパ・エディ。
 そんなものは空想に過ぎないというだろう。現実のエドワード・モートンは、極貧と孤独のなかに人生を終えた不幸な老人だ。
 けれど、彼の作り出した世界は美しかった。なぜ、美しかったのだろう。内部に自閉し、極限まで内部へと旅立っていったモートン氏の旅路。その旅路は僕には見えない。僕は現実にしばられた卑小な人間で、モートン氏のように空想の世界に生き、誰からの賞賛も必要とせず、誰からも評価されないだろう創作を続けるだけの力はもてない。
 モートン氏は生前、誰からも評価されなかった。モートン氏の作り出したアートは僕のアートとは違う。誰かに訴えかけるためのアートではない。真実、己自身のために作り出されたアートだった。そしてそのアートは力強く、プリミティブな美に満ちたものだった。それが現実すら侵食したほどに。
 たぶん、僕は、それが怖かったのだろう、と今では思う。
 モートン氏の作り出した世界に入り込むのが怖かった。誰からも愛されず、振り返られず、孤独のままに生き続けたモートン氏。そんな彼の生涯を支え続けた空想を前にして、自分が自分自身のままでいられる自信が無かったのだ。
 けれど、僕は知っている。誰よりも解っている。なぜなら、僕はただ一人、モートン氏の娘の一人から手ずからに、『海辺の王国』へと鍵を手渡された人間だったのだから。
 僕は知っている。モートン氏の作り出した世界がこよなく美しかったということを。
 ジェリー・ビーンズの銃で現実と戦おうとしたアナベルたち。そして、真っ白な飛行船に乗って、遠い国へと旅立っていったアナベルたちと、偉大なパパ・エディ。
 今、アナベルたちのいる場所は、きっと美しい国だろう。そして、それは、こんな僕には…… それどころか、世の中のありとあらゆる平凡な人間たちには、決して手の届かない国なのだろう。
 今でも僕は時折空想する。海辺の王国で今は暮らしている、可憐なアナベル・リーのことを。そして、彼女たちにこよなく愛されている、偉大なパパ・エディのことを。
 ……この、憧れは、いったい何なのだろう。郷愁にも似たこの思いは。
 僕には今もわからないままだ。
 おそらく、きっと、永遠に。
 
 ―――これは僕ともう一人のエディ、そして、アナベル・リーの物語だ。





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