海辺の王国にて





 むかしむかし
 海辺の王国に
 ひとりの少女が住んでいて
 アナベル・リーの名で知られていた
(E・A・ポオ 『アナベル・リー』)



 ―――さて、僕の代表作についてだが、僕は、『海辺の少女』と名づけられたあの作品を、ひそかにだが、『アナベル・リー』の名で呼んでいる。アナベル・リーの有名な名はみなさんもご存知かもしれない。E・A・ポオの遺作。幼妻ヴァージニアを悼んだ短い詩篇。けれど、僕が描いたのはそのアナベルではない。僕の知っているアナベルというのは、そう、僕のあの都市に住んでいた一人の少女の名だ。
 アナベルの肖像を描くことは、本来、僕に許されることではない。けれどアナベルの肖像を書く権利をもっていた彼はもういない。そしてアナベルもまた、もう、存在しない。
 でも、アナベルが、ひいては『彼』が、忘却の闇へと消えていくということが、僕にはひどく…… いや、感傷的な話はやめておこう。

 この短い物語は、僕、エドウィン・ベックマンと、もう一人のエディ、そしてアナベル・リーの物語だ。



 スープ・キッチンでの仕事は、いつものことだが、気がめいるものだった。
 この都市にはホームレスはいくらでもいた。肌の色も髪の色も、瞳の色も違うたくさんの人々。ありとあらゆる民族の人々がいただろうが、彼らの肌は一様に垢に汚れ、汚い服をまとった姿は、不思議とそれぞれの区別を消し去ってしまう。まだ気力を残した眼の隻腕の男、疲れきって暗い眼をした女、攻撃的な眼をしたまだ若いホームレス、どろりと濁った目の薬物中毒者……
「おい、手が止まってるぞ、エディ!」
 同僚から怒鳴りつけられて、僕は慌てて作業を再開した。
 使い捨てのカップにシチューを盛り、パンを添えて、係に手渡す。彼らはかならずしも行儀良く列を作らないホームレスたちを整理するのに苦労している。伸ばされる手、手、手。老人の手、若者の手、男の手、女の手。
 セットにしたシチューとパンを忙しくあちらへこちらへと手渡しながら、ふいに、視界に空が見える。電線に細かく縦断された空は、灰色のスモッグに曇り、けれど、確かに青い色を見せている。この空の色を表現するにはどんな絵の具が必要だろうか。インクか、アクリルか、水彩か、油彩か。いっそのこそスプレーを使って壁にでも書くべきか。
 だが、なんにしろ、描くとしたら僕はこの空を青く描くだろう。そうとしか思えない空。
 せわしなくシチューを盛り、パンを切り、立ち働きながら――― この都市でも空は青いのか、と僕はぼんやりと思いつづけていた。
 
 もう十何年も前のことになる。当時、まだ20代初めの青年だった僕は、アートスクールに通いながら、ボランティア活動をしたりなんだりと、目標を見失った日々を送っていた。
 僕の父は優秀なビジネスマンで、僕は裕福な家庭に育った、甘やかされた白人の子供だった。そのことに対する根拠の無い罪悪感と、両親に対する反発。でも、そんなものを感じながらも、僕は両親の出してくれる金を頼りにこの都市に居座っていた。
 ボランティアをするのは、自分が裕福な家庭のお坊ちゃんで、生ぬるい環境で生きてきたという事実を否定したいから。両親の金を頼りに生活をしていたのは、たぶん、そうやって両親の金を使うことで、少しでも迷惑をかけてやりたいという倒錯した気持ちからだったんだろう。
 けれど、アートスクールには通っていたが、当時の僕にすら、これから自分がアートだけで食べていけるようになる、なんていう生ぬるい妄想は抱けていなかった。かといって、当時あの都市の影を誇らしげに駆け抜けていたグラフィティ・アーティストたちみたいに、自分の感性だけを信じた芸術的テロ活動に踏み切る勇気も無かった。
 アートが好きだ…… 要するに僕は、そんな気持ちだけをもてあました、どこにでもいるようなモラトリアムの若造だったのだ。


 スープ・キッチンでの仕事を終えると、明日の配食のために食堂を片付けないといけない。僕がボランティアをしていたスープ・キッチンは、ダウンタウンに存在するカソリック教会が主催しているものだった。力仕事を手伝って椅子や机を片付け、キッチンの入り口の重いドアを閉め、厳重に鍵をかける。さもないと、誰かが侵入してきてキッチンの中のものを根こそぎ持っていきかねない。ダウンタウンは、そんな、殺伐とした場所だった。
「おつかれ、エディ」
「次は来週だったっけ? またよろしくね」
 同僚たちがそうやって僕に声をかける。僕はあいまいな会釈でそれに答えながら、荷物を片手にキッチンを出た。足を向けたのは隣にある教会の礼拝堂だ。そこに、いつものように待っている人がいるはずだった。
 僕がスープ・キッチンでボランティアをするのは週に三日。月曜日と水曜日、それに日曜日だ。平日には閉じられている礼拝堂も、日曜には開かれている。誰が足を踏み入れるということもない古ぼけた礼拝堂だった。こんなダウンタウンでは、神様への信仰心なんてものも、日々の生活の過酷さに磨耗されてなくなってしまう。日曜日の礼拝に教会にやってくるのは、スープ・キッチンでの施し目当ての人々か、日曜教会での授業を当てにした子供たち。それに、教会をただの集合場所代わりにした近隣の貧しい年寄りたちくらい。でも、中には神への信仰を保持し続けている人々もいる。
 彼もまた、そんな人々の中の一人だった。
「モートンさん?」
 呼びかけながら、分厚いドアを開ける――― ドアを閉めると外の喧騒がほんの少しだけ遠くなる。礼拝堂には、古ぼけた埃の臭いと、かすかな香の香りが残っていた。
 ステンドグラスから降り注ぐ淡く着色された光。並べられた硬い木のベンチ。擦り切れた絨毯。そんな礼拝堂の片隅に、やせて丸まった背中が見える。彼は今日も来ていた。僕はそのことにかすかな安堵を感じ、再び声をかけた。
「モートンさん」
 僕の声に返事は返らない。けれど、彼はほんの少しだけ顔を上げる。それは老人。混血らしい色の肌に深いしわを刻ませ、壊れているのをセロテープで補修した眼鏡をかけた、小柄な老人だった。
「今日もお祈りしてたんですね、モートンさん」
 彼は答えなかった。口の中で何かをもごもごと言うだけだ。ひどく内気なのだ。それを分かっていたから、僕は、気にせずに傍らに腰をかける。そして、さっきスープ・キッチンで取っておいたサンドイッチの包みを彼に手渡した。
「もし今日の食事がまだでしたら、どうぞ」
 僕は笑いかける。眼鏡の奥で、落ち窪んだこげ茶色の眼が僕を見上げた。髪は半白、坊主に剃りあげたのが中途半端に伸びかけている。くたびれたコート。反り返った爪。みすぼらしく小柄な老人。日曜にはこの教会に必ず現れ、長い祈りの時をすごすモートン氏は、そんな、おおよそ人の眼を引くところのないような老人だった。
 口の中でもごもごと礼を言って、モートン氏はサンドイッチを汚れたズックのバックに仕舞い込む。これで彼は今晩の夕食を得ることができたというわけだ。
 モートン氏について、僕が知っていることは、あまり多くは無かった。
 彼は近くのビルの清掃の仕事と、わずかな年金を頼りに暮らしているのだという。ひどく内気で友人はひとりもおらず、家族もいない。学校に通ったこともほとんど無いのだという。その執拗な内向さにはどことはなしに情緒障害の気配がうかがわれ、そうでなくとも、まともに誰かとコミュニケーションをとる能力が無いということは明らかだった。教会の神父やシスターを除いたら、きっと、モートン氏に対してまともに話しかける人間は、僕以外にはいなかっただろう。
 にもかかわらず、僕がモートン氏に関わりあっていたのは――― 僕の卑しい道徳的罪悪感の結果のようなものだ。
 モートン氏は誰よりも無害な存在だった。ドラッグや病気、事故や犯罪などでいつ命を落とすか分からないホームレスたちよりも、ほんの少しだけ僕の住んでいるところに近い場所にいる。その『ほんのすこし』の距離が、僕にモートン氏と関わりあう勇気を与えた。けれど、その稜線は本当に薄いもので、彼はいつホームレスへと変貌してしまうか分からない。そうなってしまったら過酷な路上生活はか弱い彼の命を一瞬で奪ってしまうだろう。それを本当に心配しているのならば、僕はモートン氏に老人ホームやそれに類する施設を紹介するべきだったのかもしれない。けれど僕はそれをしなかった。それは僕の怯懦の証拠だったろう。ようするに、モートン氏の人生をそれだけ引き受けるための覚悟が僕には無かったのだ。
 僕のボランティア仲間たちのなかには、体当たりでホームレスの人々と付き合っている人たちも、何人もいた。
 私財を投じてスープ・キッチンを経営している神父。薬物中毒やアルコール中毒といった問題を抱えたホームレスの人々を救おうと必死のソーシャルワーカー。中には貧富の差、境遇の差など気にもせずにホームレスたちと友情を築いている者や、より弱い立場の女性ホームレスたちに親身になる女性ボランティアもいた。
 でも、僕にはそれは出来なかった。正直を言って、怖さがそれに勝っていた。ホームレスの人々と、キッチンのカウンターを通して付き合うのはいい。毛布や薬を配って歩くのもいい。けれど、それ以上の敷居を越えて、彼らと友情を築く勇気が僕には無かった。僕はどこか一歩引いて彼らを見ていた。そんな怯懦が分かっていたんだろう。ボランティア仲間たちも、僕には最初から、ちょっとした労働力以上のものは何も期待していないように思えた。
 ……ああ、あと、もう一つあった。
 僕がモートン氏に近づいた理由が、もう一つ。
「見てくださいよ、モートンさん」
 僕は、いつものように、すこしはにかみながらバックを開ける。中から出してきたのはスケッチブックだった。モートン氏が壊れた眼鏡の向こうで眼を見開く。ほんの少しだけ背筋が伸びた。こちらに身を乗り出した。
「新しいスケッチなんですけど」
 僕がモートン氏に見せたのは――― 僕のスケッチだった。
 モートン氏がおずおずとした手つきでスケッチブックを取る。ページをめくり始める。その眼にあるのは、あたらしい絵本をプレゼントされた子供のような純粋な好奇の色だ。そのあまりの純粋さに僕はいつもこそばゆくなる。僕はほんの少し肩をすくめて、モートン氏が僕のスケッチブックに見入っている様を眺めた。
 モートン氏が僕のスケッチを見るようになったきっかけは、ほんの、ささいなものだった。
 僕がちょっとしたメモの片隅に残したスケッチ。それをモートン氏がポケットに入れているのを僕が見かけた。なぜ、そんなことをするのかは僕には分からなかった。問いかけた僕に、モートン氏はへどもどしながら答えた。その答えを総合するとこんな感じだ。キレイなスケッチだと思う。だから、ぜひ家に持って帰りたい……
 きれいだ、とスケッチをほめられたのは、初めてではなかった。
 でも、美術教育を一切受けないモートン氏による賛辞は、他の人のものとは違っていた。モートン氏は僕の絵が技術的に優れていたからほめてくれるんじゃない。純粋にそこに何かを見出したから、僕の絵を、この内気なモートン氏が、わざわざこっそりと懐に忍ばせるという勇気ある行動に出たのだ。それだけ絵を愛されたのは僕は初めてだった。それからだった。絵を、僕がモートン氏に見せるようになったのは。
 僕の絵はスタイルが古い。正直を言って、モダンアート中心の今の美術界だと通用しないだろう。
 僕の愛する絵は、19世紀も終わりのイギリスのラファエル前派、さもなければドイツ表現主義などの絵画たちだ。神話や物語を題材に取り、偏執的にシルクのドレープを書き込み、美女と美青年、怪物と異界を描いた絵たち。俗悪で安っぽく、ただのポスターのようだと評されることもある。かまわない。俗悪だろうが安っぽかろうが、それらの絵は間違いなく『美しい』。その絵に対するプリミティブな『美しさ』への感覚というものこそが、僕をこのアートの道へと導いたのだから。
 僕がスケッチするのは、そんな、古い絵画のスタイルを真似た絵たちだ。
 すその長いドレスを着た少女が井戸端にたたずむ。大きな木の下で少女がまどろんでいる。砂の袋をもった少女が、眠る子供に魔法をかける。絵本の挿絵みたいだと思うだろうか? あるいは子供だましだと?
 けれど、モートン氏は、そんな絵を食い入るように見つめ、時にため息すらついてくれた。その純粋な賛辞は僕の心を和ませた。モートン氏は、まちがいなく僕の絵の理解者だった。コンセプチュアルではない、そこに思想が無いという理由で僕の絵を否定することが無い。ただ美しいというだけしか価値の無いものを愛してくれるモートン氏は、たった一人の僕の絵のファンだったのだ。
「……」
 ぼそぼそと、すばらしい、だとか、きれいだとかつぶやきながら、名残惜しげにスケッチブックを帰してくれる。僕はそれを受け取り立ち上がった。手を差し出す。
「ありがとう、モートンさん」
 モートン氏はおずおずと顔を上げ、それから、手を僕の手に重ねた。インクで汚れ、かさかさになった手だった。
「では、また来週の日曜日に、ここで」
「……」
 はい、とモートン氏は答えた。そして僕はスケッチブックをザックにしまい、歩き出す。そして、ふと、その背中に、声が聞こえた。

 あなたは偉大な芸術家になるだろう。

「……え?」
 僕は振り返る。そこにはモートン氏しかいない。モートン氏の声だったのか? 僕はまじまじとモートン氏を見た。
 だが、汚れたコートを着て、指なしの手袋をつけ、背中の丸くなったモートン氏からは、おおよそそんな声を聞いた記憶など無い。モートン氏は壊れた眼鏡の向こうから僕を見ていた。その眼はどんよりと濁っていて何を見ているのか分からない。
 気のせいか?
「何かいいました?」
 モートン氏は返事をしなかった。ただおどおどとうつむいた。
 気のせいだろう。僕はそう結論付ける。
 モートン氏はベンチに戻る。もう少しお祈りをしていくつもりなのだろう。僕はその背中をそっとしておいて、一人で礼拝堂を出て行った。






top