僕が暮らしているアパルトマンに戻ると、もう、時間は深夜を過ぎていた。
 明日はアートスクールの授業がある。課題はあともう少し時間があれば終わらせられそうだ。こうなったら、もう、徹夜をして学校に行ってしまったほうが良いだろう。そんなことを思いながら、テレピン油のにおいのする部屋の中に、担いでいたズックのバックを放り出した。
 乱雑に散らばった衣類や、壁一面に貼り付けられている様々な絵画のポスター。古本屋を丹念に探して回った古い画集の数々。音楽だけは僕はオルタナティブだのパンクだのが好みだ。でも、こんな時間にそんな音楽をかけるのは非常識かな――― そんなことを考えながら、買ってきたケータリングのパッケージをテーブルに下ろす。そして、着込んでいたTシャツのすそを捲り上げた時…… ふいに、こつん、という小さな音が窓から聞こえた。
 窓から? そんなバカな。僕の部屋は4階だ。誰かが空気銃でも撃ったのか。こんな深夜に?
 ―――そう思ってなにげなく窓を開いた僕は、その瞬間、凍りついた。
「Hallo」
 あどけない声が、フレンドリーに呼びかけてくる。そして再び窓を叩く。
 そこに浮いていたのは、どうみても、10歳に満たない――― 少女だった。
 僕はものすごい勢いでカーテンを閉めた。
 閉めたカーテンに半ばすがりつくようにして、僕は、荒い息をする。何だ、あれは。僕は何を見たんだ。
 恐る恐る、カーテンの隙間を開く。すると、もろに眼があってしまった。ブルーのインクを垂らした様に青い瞳。それは、たしかに10に満たない幼い少女だった。
 黄色い生地に、紫色のすそ模様。小さなパフ・スリーブ。あざやかな色彩の、どことなく非現実的な雰囲気のドレス、蜂蜜を泡立てたような金色の巻き毛。それはいい。まだ許せる。
 でも、彼女の額に生えている櫛状になった触覚と、その背中の羽…… 赤と紫のメタリックな色彩の羽は、どう解釈したら良いんだ?
 とにかく、それは、少女だった。あざやかな色彩の蝶の羽を生やした、10に満たない少女だった。それが外から僕の部屋の窓を叩いている。窓を開けてくれない僕に不満そうに唇を尖らせながら。
「ねえ、開けて。開けてよ」
 ひらひらと羽がその背中で動いていた。彼女は宙に浮いていた。間違いなく、飛んでいた。空を飛ぶ人間なんて実在しない。ましてやそれが10歳前後の少女で、背中に生えているのが蝶の羽だなんてことは、絶対に存在しない!!
 けれど、僕が現実感を失い、真っ白になっている間も、彼女は辛抱強く窓を叩き続けていた。僕は機械的な動作で窓を開けた。とたん、彼女は窓から中に滑り込んでくる。短いパフスリーブ、ハイウェストの、最近だとめったに見ないようなデザインのドレス。
 茫然自失している僕を、彼女は、さも面白そうに眺めた。そのドレスには斜めにガンベルトが下げられていた。革のガンベルトには、大きな口径の拳銃が下げられている。彼女は笑った。可憐な笑顔だった。
「こんにちは、あたしはアナベル・リー。あなたを守りにきたの」
 櫛状になった触覚が、つんつんと動いた。アナベルと名乗った奇妙な少女は、僕の姿を上から下までじっくりと眺める。そして、不満そうに唇を尖らせた。
「ねえ、レディがせっかく遊びに来たのに、紅茶一つ入れてくれないの?」
 アナベルと名乗った彼女にそういわれて、僕は、機械的な仕草で台所に入った。
 湯沸かし器からポットにお湯を注ぎ、リーフティを入れながら、依然として僕の頭は完全に思考停止状態だった。何が起こったのかまったく理解できない。四階の窓から少女が入り込んできた――― しかもそれは、蝶の羽を生やした10歳前後の少女だった。しかも彼女は、なんと言った。『僕を守る』といった?
 いったい、何から、僕を守るだって?
 ぎくしゃくした動作でマグカップに紅茶を注ぎ、牛乳を注いで彼女に差し出す。彼女は角砂糖を10個も紅茶に入れた。甘ったるいというよりも、ただの砂糖水と貸した紅茶を飲みながら、「それで」とアナベルは言った。
「あなたの名前ってなあに? わたし、あなたについて何にも知らないわ」
「ぼ、僕は、エドウィン・ベックマン……」
「あら、だったらエディね。パパ・エディと同じ名前だわ」
 うれしそうに彼女は笑う。可憐な笑顔だった。思わず見とれかけ、はっとする。そんな場合じゃない。そもそも彼女の正体を確かめないといけない。
 僕は、ごくりとつばを飲み下した。
「今日は、たしか、ハロウィンじゃなかったよね?」
「そうね」
「その羽はいったい何なんだい?」
「わたしの羽よ。素敵でしょ」
 アナベルはぱたぱたと羽を動かした。赤と紫という派手な色彩で、小さな眼様模様の入った羽根。それはあきらかに昆虫のもの、なんらかの種類の南国の蝶のものだろうということが僕には分かった。それをいうなら櫛状になった触覚は蛾のものに似ている。触覚はアナベルの額の上の辺りから二本生えていた。
 何かの仮装だろうか? 僕はまずそう考える。でも、それが現実逃避だということはすぐに分かった。アナベルは四階の窓を叩いた。四階の窓まで飛んできたということだ。実際に飛行能力を持つ羽を持った少女…… ありえない。人間の人体の構造からして、そんなものが存在するはずが無い。
 紅茶入りの砂糖を飲み干した彼女は、ふいに、真顔になる。そして、僕に言った。
「パパ・エディからの依頼でわたし、あなたに会いに来たの。あなた、命を狙われてるのよ」
 僕は紅茶を吹き出した。
「……なんだって!?」
 だが、アナベルはあくまで真顔だった。
「あなたは将来の偉大な芸術家よ。だから、あなたがやつらに殺されてしまうのは大きな損害だってパパ・エディは考えたの。だからわたしが貴方のところに派遣された。あなたを守るために」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」
 僕には、誓ってもいい、命を狙われる原因なんて一つも思い当たらない。
 僕は平凡なアートスクールの学生で、スープ・キッチンのボランティアで、悪いことなんて何にもしていない。ついで言うとお金も持っていない。なんの理由もなく人が殺されるのがこの街だとはいえ、命を狙われる理由なんて何一つとして思い当たらない。
 それ以前に、僕を守るといっているのは、(信じられないことに)蝶の羽を生やした10歳前後の少女だ。黄色い生地に紫色のプリントの入ったドレス。鮮やかな色のの大きな羽。触覚。可憐な顔立ち。こんな彼女に『誰かを守る』なんてことができるとは夢にも思えなかった。さっきから、何もかもが訳が分からないことばかりだった。
 アナベルはガンベルトから大きな口径の銃を取り出した。弾を充填する…… その弾に再び僕は仰天する。だって、充填されたそれは、色とりどりのジェリー・ビーンズだったのだからだ。
「さあ、エディ、逃げるわよ!」
「ちょ、待っ…… どこへ? 何から!?」
「『やつら』からよ! やつらはもうあなたの居場所をつきとめてる。いつ襲撃してくるか分からないんだから!」
 アナベルは立ち上がると、片手に銃をぶら下げたまま、もう片手で僕の手をひっぱった。僕はひっぱられるままに立ち上がる。何がなんだか分からない。けれど、アナベルの様子には、どことなく、切羽詰った、有無を言わせぬ雰囲気があったのだ。
 アナベルに手を引かれるままにドアを開ける。すると、入り口で、ピザの配達人に鉢合わせをした。
 そういえば、僕は、夕食のために、ピザを配達していたのだ。
「こんばんは、エクステンド・ピザで」
 言いかけた瞬間、アナベルの銃が、炸裂した。
 ばしゃん。ピザ配達人の顔がはじける。僕は声を失った。ピザ配達人は、そのままがくんと膝が崩れ、前から地面に倒れこんだ。
「あ、あ、あ」
 僕は意味の分からない言葉を口から漏らすことしか出来ない。目の前で人が殺された。それも、10歳前後の少女に?
 けれど、アナベルは冷静だった。「見て」と短く言う。
 倒れこんだピザ配達人の体から…… しゅうしゅうと、湯気が上がり始めていたのだ。
 服が縮み、手足がどろりと解けていく。解け去ったソレを見て、僕は、なぜか、ブルーベリー・ジャムを想像した。まもなくピザ配達人だったものはただの解けたジャムの水溜りに変わった。水溜りにはくしゃくしゃになったピザ配達人の服が浮かんでいた。
「ど、いう、こと」
「やつらはどこにでも潜んでいるの。誰とでも入れ替わって、エディ、あなたのことを狙ってる。それを守ることがわたしの使命なの」
 僕は呆然と立ち尽くして、ピザ配達人だった、ジャムの水溜りを見下ろした。
 それは、たしかにブルーベリー・ジャムだった。甘い匂いすらした。ジェリー・ビーンズの弾で狙撃された誰かがブルーベリー・ジャムに変化する。それは何かすさまじく異常であると同時に、ひどくまっとうなことであるように思えた。
「行くわよ、エディ」
 アナベルは、すでに、ドアを開いていた。片手には大きな拳銃が握り締められている。背中では鮮やかな色の羽が揺れていた。蝶の羽を持った、触角のある少女。それが僕を守るという。ジェリー・ビーンズを充填した銃で?
 だが、何がなんだか分からず、判断力を失った僕は、アナベルに従うしかなかった。僕はアナベルに続いてドアを出た。



 街に出ると、照らし出す灯りは街灯だけになる。
 ダウンタウンほど近いこのあたりだと、日が暮れると外出することも危ないくらい治安が悪くなる。ましてや蝶々の羽をつけた少女なんて一緒にしていればなおさらだ。横を通り過ぎていった男が怪訝そうな眼でアナベルを見ていった。あたりまえだ、と僕は思った。
「アナベル、君、なんで羽が生えてるんだ?」
「生まれた時から生えてたわよ」
 返事になっていない。僕はため息をつく。
 アナベルは油断なくジェリービーンズの拳銃を構えていた。敵…… 敵? なんのことだかさっぱり分からない。たしかにこのあたりは治安が悪いけれど、そうそう簡単に人を襲うような相手に出くわすはずも無い。
 けれど、その予想が甘かったということに、僕は、すぐに気づかされた。
「来たわ」
 アナベルがゆだんなくつぶやく。拳銃を構える。とたん、建物の影からわらわらと人々が現れた。誰もみな同じ服を着ている。作業服めいた青灰色のつなぎ。その顔を見て――― 僕は仰天する。顔が無い。
 アナベルの拳銃が、炸裂した。
 破裂音が響くたびに、がくん、と男たちが倒れていく。倒れた男の体は見る間に解ける。ママレードにアプリコット・ジャム。アップルジャムにクランベリージャム。みるまは路面はぬるぬるに汚れて、そこに残った作業服だけが散らばる。
「急ぐわよ」
 唖然としている僕に、アナベルは、言った。
「このままだと数がどんどん増えちゃう。わたし一人じゃ対応できないもん。早く『船着場』に急がないと」
「『船着場』?」
 付けば分かるよ、とアナベルは言った。
 物陰に積み上げられたジャンクの類。建物と建物の細い隙間。地面にへばりついた吐き捨てられたガムや反吐。アナベルと僕はそんな夜の道を走った。
 アナベルのすこし後ろを走ると、その蜂蜜色の巻き毛が、ひらひらとした極彩色の羽が揺れるのが良く見えた。信じられない。夢でも見ているような感触。でも、こんなリアルな夢なんてあるだろうか? 風の冷たさや足の裏に伝わってくる地面の感触、アナベルの髪の香りすらかんじられるほど詳細な夢が存在するだろうか?
 角を曲がると繁華街にでる。この時間でも人が多い場所だ。見れば、大型バイクが止められ、柄の悪そうな連中がたむろしていた。そんな連中が奇怪な服装をしたアナベルに気づかないはずが無い。一人の大柄な黒人が、ひゅう、と口笛を吹いて足を止めた。
「おいおい、お嬢ちゃん。ハロウィンにはまだ早いぜ」
「余計なお世話だわ」
 つんとアナベルが答えると、男はむっとしたような顔をする。座っていたテーブルから立ち上がった。同じテーブルでビールを飲んでいた男たちが騒ぎ立てる。アナベルは冷静に銃を構える。
 けれど。
 炸裂音が響いたのは、別の方向からだった。
 パン、パンパンパン!! 連続した音を立ててグラスが砕け散る。男はにやけた顔のまま凍りつき、ジャムになって溶けた。レストランのガラスが砕け散る。百万のダイヤモンドをばらまいたようにきらめく。アナベルは振り返る。すると、そこに、アナベルと似たような容姿の少女が立っていた。
「甘いわよ、アナベル」
「ドロレス。あんた、向こうの地区の浄化を担当してたんじゃなかったの」
「もう終わったわ」
 クールに答えた彼女は、ジェリー・ビーンズを充填した銃を肩に担いだ。どことなくアジア風の顔立ちをしていて、眼のまなじりに赤い紅が引かれていた。ケープの付いたワンピースは赤のドット模様。やはり、どことなく奇妙なデザインだ。そしてその背中には真っ黒い羽。瑠璃色の筋が縦に入った、ルリタテハの羽だ。
 ……けれど、浄化、って?
「この町の人間を、みんな、浄化するの」
 ドロレスと呼ばれた彼女は、あっさりと答えた。
「この街は根本から腐ってる。腐った鉢植えはいくら水をやっても無駄。捨てないと駄目。だから、この街も全部浄化して、ふさわしい人間だけを『船着場』へと連れて行くんだわ」
 そこで、ドロレスは、奥二重の目をすっと細めた。
「あなたはふさわしい方みたいね」
 僕は――― 混乱していた。蝶の羽を持ったこの少女たちは、いったい、何を考えているのだ?
 浄化する? この都市の人間を? それは殺すということか。一人残らずジャムへと変えてしまうということか。
「そ、そんなバカな」
「あら、あなたは思ったことないの? この街は汚いって」
 ドロレスは小ばかにしたような調子で言った。
「犬のように絡まりあう男と女、ブランド狂いの母親たち。お金をもうけることしか興味の無い男たち。どれをとってもくだらない人間ばっかり」
「……そんなことない! すばらしい人たちだっているんだ!」
 僕は反射的に怒鳴り返していた。
 思い出していたのは、スープ・キッチンの同僚たちだ。献身的に働き、見返りを求めず、ひたすらに友情を与え続ける。彼らがくだらない人間だって? そんなはずがない。くだらない人間は、むしろ、何一つ成し遂げることが出来ず、ただ、ボランティアに徹することすらも出来ないでいる僕のほうだ。
 うつむく僕を、どう思ったのだろう。アナベルとドロテアは顔を見合わせた。ため息をついたのはドロレスのほうだった。
「まあ…… いいわ。あたしは続きをやるから、アナベルは先にその人を『船着場』へ連れて行って」
「うん、わかった」
「パパ・エディの言うことは絶対よ。どれだけ駄目に見えても、その人には見所があるってことよね」
 まだ僕には言いたいことがたくさんあった。けれど、ドロレスは踵を返す。赤いドット模様のケープ襟の下で、ルリタテハの羽が揺れた。ドロレスはその羽を羽ばたかせ、ふわりと飛び上がる。ゆっくりと飛んでいく姿はまるで天使のようだ。マシンガンにジェリービーンズを詰め込んで、ありとあらゆる人間をジャムに変えてしまう恐ろしい天使。
「行こう、エディ」
 そんなドロレスを見送っている僕に、アナベルが言う。アナベルは控えめに手を差し出してきた。僕はためらった――― けれど、その手を握った。アナベルは笑った。そして、その背の羽を羽ばたかせた。
 ふわり、体が、宙に浮く。
 アナベルに引きずられているというよりも、僕自身の体が重力のくびきから解き放たれたようだった。アナベルはビルの隙間を舞い上がっていく。その羽が金属質の鱗粉を振りまく。月の光にきらきらときらめく。
 やがて、眼下に、この街の全貌が現れる。
 ネオンサインがきらめき、ビルの窓にはまだ明るいところも多い。徹夜で働き続ける人々だっているのだ。なにより遠くに巨大な女神像が光っている。この街を守護する、永遠の自由を司る女神だ。
「エディはこの街がすきなの?」
 アナベルが問いかける。僕は少しためらい、それから頷いた。
「……ああ。汚いところもあるし、危険なところもある。でも、この街は僕にとっては夢の場所なんだ」
 田舎にこもっていては、僕にアートの道が開けることは無かっただろう。この街は僕にとってはアートそのものだった。街は、僕に向かって語りかけてきてくれる。痛々しい孤独の言葉で、あるいは優しい慈愛の言葉で、快活な笑みで、様々な言葉を話しかける。その声に耳さえ澄ましていれば、親家族すらいなくたって生きて行ける。この街はそういう場所だ。
「だれもエディの絵を認めてくれないのに」
 ぽつり、アナベルがつぶやいた。なぜアナベルがそれを知っている? 疑問に思ったのは一瞬だった。僕は答えた。
「それでもいい。僕はこの街が好きだ」
 ―――でも、それは本当だったんだろうか?
 眼下で、明かりが消えていく。ビルの合間から人影が浮き上がってくる。それは少女、どれも蝶々の羽を持った少女たちだ。黒髪の少女がいる、茶髪の少女がいる、黒い肌の少女がいる、白い肌の少女がいる。
 彼女らはみな、あでやかでいて、どことなく奇妙なデザインのドレスを身にまとい、それぞれの羽を誇らしげに輝かせていた。赤や青、緑に黄色、黒と白。ありとあらゆる色彩の羽。それが夜の光の下でひらめく様は、まるで、夢のように美しい。
 非現実的な光景だった。やはり、これは夢なのだろうか?
「夢なんかじゃないわ」
 そんな考えを読んだかのように、アナベルがつぶやいた。
「夢なんかじゃない」
 
 ―――やがて、僕らの目の前に、巨大な飛行船が現れた。
 飛行船、という。ガスで飛ぶツェッペリンじゃない。実際に竜骨をもった巨大な船が天空に浮いているのだ。船は白く輝き、まるで雪花石膏で築かれたように燦爛と輝いている。張られた帆の色は眼にも鮮やかなブルーだった。少女たちが飛行船に群がり、その姿がちらちらときらめいて見える。アナベルは近くのビルの上に降り立った。僕もまた、屋上に足を下ろした。
「あれがわたしたちの飛行船」
 アナベルの言葉は誇らしげだった。
「わたしたちはこれから旅に出るの。いままでも世界中を旅してきたわ。アマゾンで甘い花の蜜を吸って、北極だと白熊の毛皮でコートも作ってもらった。ピラミッドにも上ったし、砂漠で星も眺めたわ。でも、今日の航海が最後の旅なの」
「どうして?」
「……」
 アナベルは少し微笑んだけれど、答えなかった。代わりに、憧れるように眼を細めて、白く輝く飛行船を見上げた。
「これから、わたしたち、海辺の王国に行くのよ」
「海辺の王国?」
「そう。砂が白くて、海は青くて、世界中のどこよりもきれいな場所。そこで私たちは永遠に幸せに暮らすの。それがずっとパパ・エディの夢だった。パパ・エディは本当はずっと海辺の王国に帰りたかったの。今日、やっとその夢がかなうんだわ。そして、パパ・エディはあなたの才能を気に入ってる」
 そして、アナベルは僕に向き直った。真剣なまなざしで問いかけた。
「一緒に来て、くれないの?」
 その瞬間、僕には、その海辺が見えたような気がした。
 真っ白い珊瑚の砂、青と蒼、碧と碧の入り混じった海。風は潮の香りを含んで涼しく、太陽は砂を熱くする。椰子の木々が茂り、色とりどりの果実が木に実る。極彩色の鳥が歌い、魚たちが珊瑚の間を舞い踊る。そんな国。海辺の国。
「……行けないよ」
 けれど、僕は、そう答えた。
 海辺の王国に魅力を感じないかというと、嘘になる。けれど、そもそも海辺の王国にたどり着いた時、僕には絵を描くことなんて出来なくなるだろうという予感があった。絵よりもはるかに美しい光景を前にして、どうして僕が筆を取れるだろう。アナベルは僕を『偉大な芸術家の卵』と言った。けれど、もしも彼女たちについていったなら、僕は決して『芸術家』などにはなれないだろうということが、なぜか、僕には理解されてしまっていた。
 ―――違う。そんなことが理由じゃない。
 けれども、そのときの僕には、何故、アナベルの誘いに答えられないのか分からなかった。僕はひどくためらい、混乱していた。でも一つだけ分かっていることはある。行けない。僕は、『海辺の王国』には、『行ってはいけない』のだ。
 僕の返事を半ば予想していたのだろうか。アナベルの表情は寂しそうだった。
「そっか」
 アナベルの背で、極彩色の羽がかすかに揺れた。
「あなたが来てくれたら、きっと、パパ・エディも喜んだのにね」
「ごめん。その人には、僕の代わりに謝っておいてくれないか」
「いやよ」
 アナベルはつんと顎をそびやかした。いたずらっぽく笑う。そして、僕の襟を、唐突にぐいと掴み―――
 僕の唇に、やわらかい唇が重なった。
 温かくて柔らかい舌が唇の内側に何かを押し込む。それは金属のカケラだった。唖然とした僕が、それが何かを吐き出して確かめるよりも先に、アナベルは爪先立ちでターンするように僕から離れた。
「バイバイ、エディ」
 蜂蜜色の髪。青いインクを垂らしたような眼。つんと尖った小鼻。黄色と紫のドレスに、極彩色の蝶の羽。
「きっとわたしとパパ・エディを忘れないでね」
 そう笑いかけると、アナベルは、ゆっくりと後ろに倒れ――― そこにはすでに、床は無い。
 僕がぎょっとして駆け寄ると、一匹の蝶が、蝶のような少女が、白く輝く飛行船へと飛んでいくところだった。僕は口の中に指を入れ、金属片を取り出す。鍵だった。
 僕は白く輝く飛行船を、そこに群がる蝶の少女たちを、見つめていた。ずっと見つめていた。二度と見ることの無い、この世で最も美しい景色を見るように。



 
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