2.
―――ラプンツェルは、還らなかった。
その夜、領主の食卓に、一人の男が招かれた。
領主といってもささやかなルドの領土だ。決して豊かなものではない。けれどもワインだけは最上級のものが開かれ、食卓には豚の肉や林檎、チーズのパイなどが並んだ。領主はひどく上機嫌だった。
「どうぞ、どうぞ。ささやかな地ですが、ワインだけは美味いものがある。どうぞお飲みください。極上の赤を用意させました」
「痛み入ります」
答えるのは若い男、今は晩餐に相応しい様に服を代えたカスパールだった。王都風に長目に伸ばした髪が肩にかかり、秀麗な顔立ちはいかにも雅やかだ。やさしげな顔立ちをした彼に、給仕をする領主の娘も浮き足立っている。そう、彼は王都から来たもの、仔細は聞かされては居ないものの、いずれかの貴人に仕える騎士であるには間違いない。
ルドの地は、王都からはあまりに遠い。
王都からの客人、それも高貴な方の使者だというのなら、下働き風情を食卓に上げるという異例も許される。それがこのように雅やかな様子の騎士だというのならなおさらのこと。もしも彼が主にルドのことを良く話せば何かの出世のきっかけにならないともわからないし、高貴な方の従者であるのなら、末娘の一人ほども嫁にやって惜しくは無い。
「どうですか、このルドは」
「ええ、美しい町です。それに葡萄酒がとても良い」
「そのほかにはとりえの無い町ですからなぁ。けれども、田舎らしく物は美味い。王都での美食にはかないませんでしょうが、素朴な味わいというものがあると思っております。……おい、もっとお注ぎしなさい」
末娘がピッチャーから酒を注ぐ。ピューターのカップに注がれるワインは血のように赤い。カスパールがそれを飲む。領主はその姿をじっと見つめる。
頬に恐ろしい傷があるが、美しい顔立ちをした男だ。年のころなら21・2といったところか。結婚はしているのだろうか。していないのなら、今晩の床に娘を沿わせても良い。内々の話ではあるが、彼の主は非常に地位の高いお方であるのだという。もしも噂が真実のものであるとしたのなら、彼も将来の出世は約束されたようなものだ。近衛の地位とて夢ではないやもしれない。田舎領主にとっては願っても無い婿になる。
だが、赤いワインを飲んだ青年が次に口にしたのは、思ってもいない言葉だった。
「ところで、ラプンツェルという娘はご存知ですか?」
「は……?」
一瞬、何を言われたのかが、わからなくなる。
「下働きの娘です。長い金の髪をした……」
「あ、ああ」
一瞬、思い出したのは、違う『ラプンツェル』だった。領主は乾いた笑いを浮かべた。笑おうと必死になった。なぜカスパールがこのような話題を持ち出してくるのか、まったく判らない。
「たしかそのようなものもいたような…… あまり憶えてはおりませんな」
「『石炭袋』という穴のなかから引き上げられたとか」
カスパールは淡々と語る。もうだいぶワインを飲ませているだろうに、彼の日焼けした頬には酔いの欠片も浮かばない。よほど強いのか。それとも?
「以前、こちらの小作人の若い方々が、何か金銀の類でも見つからないかと思って、あの穴の中に降りていったそうですね。そのとき見つけたのがあのラプンツェルだった」
「は、はあ。そんな話もありましたな。……おい」
何か風当たりがおかしい。嫌な予感がひたひたと胸に近づいてきた。末娘がワインを注ごうと近寄ってきたのを追い払う。外へと出るように、と乱暴に言いつけた。
末娘は不安そうな顔で部屋を出て行く。ドアが閉まる。部屋には二人だけが残される。
燭が揺れ、カスパールの顔に、光と影が躍った。
「ところで、以前、この町には『ラプンツェル』という娘がもう一人いたそうですね?」
「なぜ、それをご存知なのです?」
「聞きました」
誰から、とはカスパールは言わなかった。ただ、淡々と続けた。
「彼女は領主の娘だったけれど、少々知恵が足りなかった。金の髪は美しかったが、美貌といえるほどに美しい娘でもなかった。だから裏では馬鹿にされて『ちしゃ頭』と呼ばれていました。両親も彼女を恥に思い、高い塔のてっぺんに閉じ込めた。けれど、ある日、彼女の心を射止めた男がいた」
「……はは、それは…… 私のことですか」
何の話だこれは。この男は何の話をしている。なぜ遠く王都からきたはずの男がそんな話を知っているのだ。
「男は彼女の心を射止め、塔の窓からロープを下ろさせることに成功しました」
カスパールは淡々と語る。まるで、古い物語でも語るように。
「そして彼女を花嫁として迎えると、古い領主の両親二人は次々に亡くなり、男は領主になりました。―――けれど、ある日、ふとラプンツェルが居なくなった」
「ええ、妻は消えました。方々を探させましたが、何処へ行ったのかも判らなかった」
男はひそかに手のひらの汗を握り締める。かまをかけられている。だが、尻尾を出してはいけない。そう思うと、目の前の男が急に恐ろしく見えてくる。たかだか20やそこらの若造――― そのはずが、まっすぐにこちらを見つめる青灰色の目には、奇妙な威圧感が感じられる。
「そして、そのとき、彼女と同時に、このルドの領地の印章指輪も消えてしまいました」
印章指輪。領主としての決定権を保障する指輪。そうだ。あれは消えてしまった。あのラプンツェルと一緒に。
だから探させた。くまなく探させた。ラプンツェルが持っていたのではないかと疑ってあの『石炭袋』まで探らせた。遺体を切り刻んでくまなく捜さなかったことを後悔した。
カスパールはピューターのカップを干した。
「その指輪は、これですね?」
そして、ゆっくりと舌を出す。
その舌の上に――― 黄金の印章指輪が、鈍く光っていた。
殺させたはずだラプンツェルは。あのちしゃ頭のおろかな女。お前など領主の地位がなければ誰が抱くものか。それが子供など孕んで。ちしゃ頭の子供などいらぬと言ったのに生むなどと言って。その上指輪まで隠した。お前が生きていても誰も喜ばないのだあのちしゃ頭が。だから私が領主となってこのルドを治めればいい。そう思っていた。それがなぜこんなときに指輪などが出てくる。誰が渡したあの若造に。あの指輪を? なぜ? どうしてそこまで知っている?
ラプンツェルから聞きました、とカスパールは言った。
貴方もラプンツェルから全てを聞けば良い、と言って、指輪を置いて席を立った。
すると、もう、居ても立ってもいられなくなった。
明日の朝を待てなかった。夜だった。隈の無い満月が折りよく出ていた。
月光に照らされた道を急ぎ、『石炭袋』へと急ぐ。馬を駆ける。これほど馬を駆けさせたのはどれほどか。かつての美しい旅人の男は、今では醜く太って老いさらばえていた。
森が左右から盛り上がっている。梢から月光が木漏れ日のレースを落とす。
黒雲が表面をよぎるたびに、あたりが真っ暗になる。
森が切れる。
『石炭袋』が目の前に現れた。
男は汗まみれになりながら馬を下り、もつれる手でロープと縄とを用意しようとする。けれどそこに傍らから声がかけられた。
「いつかのように呼びかけてみては如何ですか」
瞬間、そこに誰が立っているのかが判らなかった。
一人の男が、木の傍らに立っている。小柄な娘を従えて。男の服は闇に溶け込む漆黒だった。マントも、ブーツも、腰に回したベルトのバックルすら、全てが、黒い。
娘は首に幾重にも髪を巻きつけていた。赤味の掛かった目でじっと男を見つめていた。男は息が止まるような思いを憶える。今見れば似ている。似ている。とても似ている。あのおろかなラプンツェルに、そして、自分に?
嘘だ嘘だ嘘だ。
あのラプンツェルは殺させた。子供など産んでいるはずが無い。娘などがいるはずがない。では、あの娘は誰だ? なぜあの男が、ふざけた偽名の『おろか男』がすべてを知っている? そして、あの指輪が戻ってきた?
男は、はいずるようにして、『石炭袋』の淵へといった。
真っ黒だ。光一つ無い闇。石炭を詰め込んだような闇。
そして男は恐る恐る呼びかけた。まるで、数十年前にさかのぼったように。
「ラプンツェル…… ラプンツェル。お前の髪を垂らしておくれ」
すると、髪が、降りてきた。
さかさまに。
真っ黒い闇のなかから、ゆっくりと、金の縄が上ってくる。
男は見た。
たしかに見た。
数十年前、自分のために塔の天辺から縄を降ろしたラプンツェルの姿を、そこに見た。
『石炭袋』は逆転した塔に他ならなかった。穴の底から、つまり塔の天辺から、髪が降ろされる。己をそこから解放してくれる男を迎えるために。
「あ、ああ、あ、あ」
昇ってくる。
さかさまに垂らされた髪を昇って、『ラプンツェル』が還ってくる。
やがて、ひたり、ひたり、と髪を白い手が昇ってきた。
手が。手が手が手が。
何十もの手が、昇ってくる。
男は逃げようとした。だが、その首にするりと髪が巻きついた。まるで恋人の首に甘えて腕が巻きつくように、するりと、やさしく。
「た、助け……!!」
悲鳴を上げようとした口の中に、髪が、なだれ込んでくる。喉を逆流して体の中に髪が進入してくる。声がふさがれる。息が詰まる。
男が最期のひとつ前に見たのは、瞬きもせずに黙ってこちらを見ている『おろか男』と娘の姿だった。
娘?
そう、『ラプンツェル』は他にいる。
そして男が最期に見たのは、
黄金の縄を這い上がってくる
白い手の
ラ
「―――なるほど。なかなか面白い話だね」
カスパールが纏めた報告書を読み終えて、少年は感嘆のため息をつく。興味深げに細い指を組み、顎を乗せた。
「やはり『無形のもの』だったか。あの地方には昔から伝承があったし、合致する話もあったから、もしかしたらと思っていたのだけれど。まさかほんとうに見つかるとはね。君はとても優秀だ。嬉しいよカスパール」
「貴方はこういったことがあったときばかり、本当に嬉しそうですね」
カスパールがため息をつくと、ユーリウスは嬉しそうに笑った。銀鈴を鳴らすような笑い声。
光差し込む大理石のテラスの向こう、緑滴り薔薇咲き誇る美しい庭が広がる。ここはルドからはるかはなれた王都。さる貴公子の館だった。
髪は紡いだ光のような白金、瞳は二顆の碧の宝玉。己の主人の顔ばかり可憐で、まるで絶世の美姫さながらの微笑を見ながら、カスパールはため息を抑えずには居られない。……どうにかなりはしないのか、この悪趣味は。
「あまりため息をついていると幸せが逃げるよ、カスパール。……ふむ。でも、ここまで典型的な『無形のもの』というのは珍しいよ」
様々な人間の屍骸を喰らい、そのカタチを写し取る『無形のもの』、と少年は呟く。
「ルドに放浪してきた人間たちの屍骸を喰らい、さらには穴に投げ捨てられた前領主の娘を食べて、彼女の無念を写し取っていたのだね。そして恋人が再び迎えに来てくれるのを待っていた。そして、彼女の記憶を刺激するワードにしたがって、髪と自分の体のパーツを再構成して男を迎えた…… それで、男のほうは、恋人に再会できて嬉しそうだったかい?」
「……」
カスパールが困惑したように眉を曇らせると、「冗談だよ」と笑って、少年は報告書をぱたんとたたんだ。
「とにかく今回はご苦労様、カスパール。『無形のもの』のサンプルを得られたというのも非常に嬉しい結果だった。彼女はどうしているの?」
「眠っています、塔の中で」
母の無念が形となり、『無形のもの』から分離した子実体だった『ラプンツェル』は、母の無念が融けると同時に、人間の形を保つことが困難になった。結果、王都に連れ帰られた彼女は最終的に人間の姿を失い、『無形のもの』本来の姿――― 粘膜に包まれた不定形の肉の塊――― へと戻ってしまった。
彼女は、特殊な呪をほどこされた壷のなかに入り、この離宮の裏の塔の一番奥で、しずかに今は眠っている。その眠りが再び誰かによって破られるまで。
「彼女を起こしてくれる恋人は、いつか、やってくると思う?」
「……」
『おろか男』は答えない。少年はくすりと微笑むと、手を伸ばし、自分よりはるかに背の高い男の頭を、その小さな白い手で撫でてやった。
いつか塔の天辺から髪を降ろし、恋人を迎えるまで。
ラプンツェルは、静かに眠り続けている。
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