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 朝、私は台所の三角コーナーから、生ゴミをこっそりと取り出す。
 野菜の屑や、魚の内臓。カロリーを押さえるために切り取られた鶏肉の脂肪や、冷え切って堅くなった昨晩の残飯。そんなものが交じり合い、ねたねたとした感触になった生ゴミになんて、触れることも嫌だ。でも、リナに命令されたんだから仕方がない。私はいつだってこの係だった。
 集めた生ゴミからは嫌な臭いがした。私は生ゴミを二重にした袋に入れて、それを部屋に持ち帰る。実際に学校に持っていくのは二日ほど寝かせてから。二日も放置された生ゴミは、きたない汁を垂らし、たまらない悪臭を放つようになる。
 私の部屋のベランダには、そうやって『寝かせて』おいた生ゴミの袋がある。昨日、リナがそう命令したから、私は今日も生ゴミを学校に持っていかないといけない。嫌だ嫌だ嫌だ。なんでこんなことをしないといけないんだろう。
 ひっそりとした空気に満たされた台所には、昨晩洗ったまま置いておいた食器や、清潔なステンレスの鍋なんかがひっそりと眠っている。まだ早朝だ。母さんたちも起きてこない。だから誰も私がこっそりと生ゴミを集めているということを知らない。知られたくない。だから私はこんな時間に起きてくる。起きてくるという言い方は正確じゃない。昨晩だって、一睡だって出来なかった。
 こんなことを言うとリナが怒る。リナを怒らせたら、今度はユイコじゃなくて私がいじめの対象になるかもしれない。そんなことは嫌。嫌嫌嫌。リナのいじめがどれくらい陰湿かは私がいちばん良く知ってるんだから。ユイコが悪いんじゃないってことは知ってる。リナが単に気まぐれなだけだ。でも、たぶんリナは、一回だって、自分がいじめの対象になるかもしれないなんてことは考えたことが無いに違いない。
 母さんが起きるまえにパンを一枚だけ焼いて、それにコーヒー牛乳を添えて、朝食にした。今日は早く学校にいかないといけない。ユイコの机に仕掛けをしておかないといけないから。
 朝の空気はガラスみたいに透き通っていて、スズメの可愛い鳴き声が聞こえてくる。学校までは自転車で20分。私はバックを前の籠にいれ、後ろの荷台に生ゴミを入れた袋をぶらさげて、学校へと急いだ。聖カタリナ女子中学校。この時期は毛虫の多い桜並木の下を通り過ぎ、学校にたどり着いてみると、まだ、自転車置き場には、ほとんど自転車が置かれていなかった。
 朝錬のある部活動の子たちはもう登校してきてるみたい。私は登校口で靴を上履きに履き替え、二階にある教師まで行く。心臓が次第にどきどきしてくる。背中に冷たい汗をかくような嫌な感触。
 2年C組。私たちのクラス。私はユイコの机をすぐに見つけられる。ユイコの机には、カッターで、いろんな文字が刻んであるからだ。
『死ね』とか、『ブタ』とか、『害虫にはゴキジェット!』とか、いろんな文字が刻み込まれたユイコの机。私は教室を見回す。誰も居ない。誰も居ないうちに済ませないといけない。昨日のリナの指令を思い出す。今日は生ゴミ。それと、チョーク。
 私はゴミ袋を開ける。堅く結びすぎていた口はカッターで切らないといけなかった。袋を開けた瞬間、ものすごい臭いの液がこぼれた。すこし手に付いた。すごく嫌だ。
 私はゴミ袋の中身に極力触れないように気をつけながら、中身をユイコの机の中に入れた。
 最近はユイコも用心深くなってきていて、机のなかに教科書やノートを残さずに、全部を持ち帰って登下校するようになっていた。それってすごく大変なことのはずだ。でも、ユイコの判断は正しいと思う。だって、さもないとリナや私たちは、ユイコの教科書をナイフで切り裂いて、ノートに罵詈雑言を書き付けないといけなくなる。
 私はユイコの机の中に、腐りかけた野菜屑とか、魚の内臓とかの交じり合ったものを入れる。それから黒板のところに行って黒板の下の小さな引き出しの部分を空ける。そこにはチョークの粉が溜まっている。今度はユイコのテーブルにそれを振りかけた。カッターでありとあらゆる罵詈雑言の書き込まれたユイコの机は、まるで、パウダー・シュガーでコーティングされたようになった。
 これでいい。リナの指令はここまでだった。あとはユイコが登校してくるのを待って、ユイコが汚された机と、中に押し込まれた腐った生ゴミを見て表情を引きつらせるのを見て、リナといっしょに笑えばいい。でも、それが私にとっては一番しんどいことだ。だって、私はリナと違って、腐りかけた生ゴミがどれだけ臭いかを知っているから。それと、それをぶちまけるのの二倍くらい、片付けるのが大変だということを知っているから。
 今日もユイコは学校に来るんだろうか。私は自分がユイコが学校に来ないことを望んでいることに自分で気づいていた。そのほうがずっと楽だからだ。でも、それと同じくらい、今日もユイコが学校に来てくれることを祈っている。さもないと今度は私がいじめられることになるかもしれないからだ。

 私の名前はアイ。
 そして、たぶん私は、とても酷い、いじめっ子だ。

 学校が始まるまで時間がある。一番初めに登校したことがわかると、ユイコの机のなかに生ゴミを入れたのが私だってバレてしまう。だから私はみんなが登校する時間に合わせて教室に戻るべく、残りの時間を屋上でつぶす。いつものように。
 リナというのは、私のクラスメイト。そして、このクラスの女王様。勉強が出来て、スポーツも出来て、とてもきれいな顔をしている。
 ユイコというのも、私のクラスメイト。ユイコはこのクラスのピエロだった。ユイコが泣けばみんなが笑う。ユイコの卑屈な笑顔にもみんなが笑う。ユイコがいるとみんなが笑う。ユイコはそういう役回りだ。
 私は、アイは、たぶん、その他大勢。モブ。みんなの平凡さの中に隠れるのに必死だ。草原のシマウマが、その縞で肉食獣の目をごまかすように、みんなに合わせて、みんなに逆らわないで、誰にも注目されないように毎日がんばっている。さもないと、とっても恐ろしいことが起こるかもしれないから。でも、そんな私はいちおうリナのグループの一人だということになっている。それがいいことなのか、悪いことなのか…… 今の私には良くわからない。
 いじめ、というのは持ち回りのゲームだ。鬼ごっこの鬼みたいに、いじめられっこは伝染する。いじめられっこを他の子に感染せば、その子はいじめられっこじゃなくなる。いじめられっこが居なくなれば自動的にその役目は他の人に移る。だって、鬼が居ないとゲームは成立しないから。
 屋上に続くドアを開けると、ギイ、といつものようにきしんだ音がした。
 屋上にはさびた手すり。粉っぽくなったコンクリートの天井。見下ろすと校庭で運動部の子たちが練習をしている。私は屋上のドアをしめて、やっと、今日で初めての大きくて深い息をする。
 手がきたない気がする。腐った生ゴミの汁がついたから。さっき石鹸で手を洗ったけど、まだなんだか汚いような気がする。私はバックからウエットティッシュを取り出して念入りに手をこする。爪は深爪に近いくらい短く切られている。
 なんだか最近、自分の手が汚いような気がして、すごく不安だった。
 ユイコの机に汚い言葉をカッターで彫ったのはこの手だ。休み時間、トイレ用のモップをユイコの顔に押し付けたのもこの手だ。手は洗っても洗ってもきれいにならない。なんだかすごく臭いような気がする。だから私はウエットティッシュをまわりに散らかしながら、一生懸命手をこすった。だから気づかなかった。私の前に、ふと、影がさしたことにも。
「何をやっているの?」
 ふいに、声が聞こえた。ガラスみたいに透き通ったボーイソプラノ。私は眼を上げる。
 そこで、硬直して、動けなくなった。
「何をやってるの?」
 再び問いかける。今度は可笑しそうに。そして、ふわり、と手すりの上に舞い降りる。それは少年だった。この学校に居るはずが無い、男の子だった。
 私はあんぐりと口をあけたまま動けなくなる。青空を背景にして立った少年。それは、まるで悪い冗談のような、絵本のページを現実にコラージュしたような、ものすごく奇妙な姿の少年だった。
 10歳くらいだろうか。歳はわからない。それは――― 少年だった。
「ずいぶん手を拭くのに時間がかかるね」
「あ…… あ」
「おどろいた?」
 彼はふわりと手すりから飛び降りる。真っ青な、明け方の空のような藍色をしたマントが、おおきく風にはためいた。
 私立の学校の小学生が着ているような、半ズボンの、金色のボタンが付いた制服。でも、その服はどう見たってどこの制服でもありえなかった。だって、その服は、きらきら光る銀色の生地で出来ていたんだから。
 銀色のきらきら光る目。
 マントと同じ、明け方のような青い髪。
 女の子みたいな可愛い顔。
 それは――― あきらかに非現実的な姿の少年だった。
「ボクの名前は流星少年」
 おどろきのあまり口も利けないままの私に、彼は、いたずらっぽく笑いながら言った。
「キミのことを助けるために、星の世界からやってきたんだ」




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