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 ―――授業が始まった。
 ユイコはひとりで机を拭いたようだった。チョークの粉は無くなって、ただ、点々と地面に落ちた粉だけが、さっきまでチョークの粉がばらまかれていたということを知らせていた。
 ユイコは醜い。太っていて、目が細くて、天然パーマの髪がごわごわしている。その向こうにはリナが座っている。リナは美しい。髪の毛は、今日も早起きして洗ってブローしてきたんだろう、ほんのすこし茶色がかかっていて、サテンみたいに光っていた。
 でも、私はそんな二人を見ることも出来ない。目は窓の外に釘付け…… というよりも、どうしてもそちらから視線をそらすことができなかった。なぜならそこに『流星少年』がいて、窓のガラスに手を当てて、面白そうに授業の様子を覗き込んでいたからだ。
 嘘だ。
 こんなこと現実なわけがない。
 私は必死でそう考えようとする。でも、流星はそこにいた。女の子みたいな白い顔で、女の子みたいに可愛い笑顔で、こっちのことを見つめている。私の視線に気づくと、ちょっと笑って手を振った。
 教卓だと、禿げかけた中年の教師が英語の授業をしている。私はシャープペンの芯をカチカチを押し出す。少し長くなるとテーブルに押し付けて折る。癖だった。伸ばす、折る。伸ばす、折る。それを繰り返しながら、まだまだ信じられない思いで、今朝の出来事を思い出していた。
 流星は、屋上で呆然としている私に、言った。
「キミが助けを求めているから、ボクはここまでやってきたんだ」と。
「キミ…… キミの名前は知ってる。アイって言うんだよね? アイはずっと助けを求めてた。だからボクはアイのために、遠い星の世界からやってきたんだ」
 何の話だ、と当然私は反発した。反発とすら言えなかっただろう。そもそも私は何をどう考えたらいいのか解らずに、混乱しきっていたのだから。
 青い髪に銀の瞳の少年。流星少年。その姿はどうみても非現実的で、現実に存在しているものとは思えなかった。青いマントは物理的な布とは思えない軽やかさで風になびき、銀色の学生服の胸では、星の入った金のボタンがきらきらと光っていた。
「わ、私、助けなんてもとめちゃ」
「だって、アイは、『朝が来なければいいのに』って毎晩思ってるだろう?」
 誰にも言ったことの無いことを言い当てられて、私は声を失った。
「これ以上、リナの言いなりになるのは嫌。ユイコをいじめるのは嫌。そう思っているよね。ユイコのために生ゴミをわざわざ腐らせておくのも、毛虫やトカゲをあつめてくるのも嫌だって思ってるよね」
「な、なんで……」
「だって、ボクはアイのために来たんだもの」
 そう言って、流星は、にっこりと笑った。絵本の妖精みたいな可憐な笑顔。
 あっけにとられたままの私は何も云えない。流星の銀色の目が私を見つめていた。本当に銀色、CDでもはめ込んだような虹色の混じった銀色の目だ。人間にはありえない目。
「アイはどうしたいの? 逃げ出したい? 戦いたい?」
「に、逃げ出す? 戦う?」
「だって今のアイは、逃げても戦ってもいないじゃないか」
 流星の澄んだボーイソプラノが、ナイフのように胸に突き刺さった。
「ずっとリナの言うなりで、やりたくもないことをやらされてる。逃げたいならリナから逃げればいいのに、逃げない。戦いたいならリナに戦いを挑めばいいのに、戦わない。だからアイはずっと苦しいままなんだ」
 逃げ出しますか? 戦いますか?
「ボクはアイを助けるために来た」
 呆然としている私の耳に、流星のボーイソプラノが響いた。
「アイが逃げるとしても、戦うとしても、きっとボクは力を貸すよ。だってボクはキミの味方だもの」
 ぷちん、とまたシャーペンの芯が折れて、私は我に帰った。
 流星が窓の外で桜の枝に座っている。私のことを見ながら、にこにこと笑っている。その姿はどうみても現実のものだ。どう考えても非現実的だけど、私には流星は実在の存在としか思えなかった。
 予鈴が鳴る。授業が終わる。教師が号令をかけ、みんなが立ち上がる。私は操り人形のようにぎくしゃくとした動作で立ち上がった。

「ねー、なんだか臭くない?」
 授業が終わると、さっそくリナが言い出した。いつものパターン。リナの目がきらきらと輝いている。ユイコは机に座ったままうつむいていた。
 たぶん、机の中の生ゴミは片付けたんだろう。でも、たしかに嫌な臭いがした。汁だけでもあんなに臭い。生ゴミそのものとなったら、どれくらい臭いことか。ユイコにはその臭いが染み付いてしまっている。
「ねえ、誰か窓開けてよ」
「やだねー、誰が臭いんだろう」
 リナのグループの一人が窓を開けに行く。外の風が入ってくる。風といっしょにするりと流星が教室に入り込んできたから、私は思わずひゅっと息を呑んだ。
 けれど、誰も流星のほうを見なかった。あんなに目立つのに、誰も流星に気づかない。リナに合わせてこれみよがしの会話をするか、それとも無視をするかのどちらかに必死だから? いや、それは不自然だ。みんな、流星の存在そのものに気づいていない。
「ねえ、アイ」
 そちらに気を取られていて、反応が、遅れた。
「な、何?」
「何ぼうっとしてんの? ……ねー、この教室、掃除が足りないんじゃない? 昨日の掃除係って誰だったの?」
「……ゆ、ユイコだったよね」
 私はどもりながら答える。その返事が気に入らないらしく、リナのきれいに整えられた眉がかるくつりあがる。でも、予想通りの答えでは合ったらしい。あたりまえだ。この教室だと、もう何ヶ月もユイコが一人で掃除をしている。ほかのみんながユイコ一人に掃除をさせることに決めて、ユイコがそれを断らなかったからだ。
「やだー。汚ぁい。汚い雑巾で床を拭いたって、床が汚くなるだけじゃない」
 リナがこれみよがしに言うと、ユイコの背中がかすかに揺れた。ユイコは本を読むふりをしている。でも、ページがめくられていない。こっちの会話に気を取られているのだ。
「ね、汚い雑巾、きれいにしてあげよっか」
「えーリナ親切ー」
「雑巾どこかなぁ? ねえユイコ、雑巾ってどこかなぁ?」
 私はぎゅっと目を閉じた。すると、まぶたの裏に、これから起こることが全部見えてくる。
 これからリナたちに付き合って、私はいっしょに便所まで行く。それからユイコをたっぷりといたぶるのだ。雑巾みたいに絞ってやると行って、殴ったり蹴ったりするのかもしれない。雑巾なんだからきちんと拭けといって顔で便器を拭かせるのかもしれない。でも、どっちにしろリナは見てるだけだ。そういうことをやるのは私や他のとりまきの仕事なのだ。
 ―――逃げ出したい!
 私は思った。すると、ふっ、と流星が笑った。
「解った」
 すると、流星が、ふわりとこちらに飛んできた。
 羽根が風に吹かれるような、非現実的な、体重の無い動きだった。そして流星のマントがふわりと翻った。流星は手を伸ばす。その手が私の肩に触れる。
 流星の体が、私の体に、『重なった』。
 その瞬間、私の口が、勝手に動いた。
「勝手にすれば?」
 リナが、弾かれたように振り返った。
 茶色っぽい、大きな目が、信じられないことを聞いたように見開かれている。他の周りの子たちもみんな私を見た。何を言ってるの? そういう顔。私が言うはずの無い台詞。でも、私の口は、さらに勝手に動いた。
「リナがユイコをいじめるのは勝手。でも私は付き合いきれない。じゃあね」
 言うなり、今度は私の足が動き出す。そのまますたすたと教室を出て行く。ぴしゃんとドアを閉める――― その瞬間、最期に見えたのは、こっちを見ているユイコの、信じられないものをみるような目だった。
 

 私の足が勝手に動く。階段を上っていく。屋上に行く。さびたドアはまたギイと鳴った。屋上へ出て、重いドアを閉めた瞬間、流星がふわりと私から離れた。
「逃げ出せたでしょ?」
「……!!」
 流星はにこにこと笑いながら私を見ていた。私は絶句するしかなかった。
 リナにあんな口を利くなんて。私だったらありえない話だ。忠実で大人しいリナの家来だったはずの私。それが、リナに反抗した?
「り、流星、あんた、何したの」
「アイを逃がしてあげたんだよ。だって、『逃げ出したい』って思ったじゃないか」
 YES/NO? と流星が笑いかける。私は声を失う。
 逃げ出したい――― そう思ったのは事実だった。
 でも、今まで、一回だって逃げ出せたことなんて無かった。リナが怖かったからだ。そんなことしたら後で何を言われるか解らない。もしかしたらいじめられるかもしれない。でも、流星はあっさりとそれをやってのけた。『私の体』を使って!
「勝手なことしないでよ!!」
 私は思わず怒鳴っていた。
「あんなことしたら、後でどんな目にあうか……!!」
「だったら、アイは逃げないほうがよかった?」
 流星にそう切り替えされて、私は声を詰まらせた。
「あのまま一緒にユイコをつれて女子トイレに行ったほうがよかった? そこでリナのためにユイコをいじめるほうがよかった? 笑いたくも無いのに、無理やり笑うほうがよかった?」
「……」
 流星の銀色の目がまっすぐに私を見ていた。流星はゆっくりという。
「ボクはアイの味方。アイがやりたいことしかやらないよ」
「逃げ出したいってのが私の本心だったってこと……?」
「自分の心に聞いてごらんよ」
 YES/NO? 私は逃げたかった? それともあのままリナに付き合いたかった?
 そんなわけない。リナの悪趣味なゲームに付き合わされるなんてまっぴらだった。ユイコのことは好きじゃないけど、嫌いでもない。人を殴ったり蹴ったりすることなんて大嫌いだし、人の顔で便器を拭くなんてもっと嫌だった。そう、私は逃げ出したかった。醜悪なゲームから逃げたかった。
 でも、そんなことをしたら、あとでリナにどんな目に合わされるか分からない!!
「私がリナにいじめられたら、どうしてくれるのよ!」
「そうしたら、また逃げ出すか、戦うかすればいい」
 流星はきっぱりと言った。
「そのときになったらボクがアイの言うとおりにしてあげる。アイの代わりに逃げるか戦うかしてあげる」
「私の体を使って!?」
「だって、ボクはアイ以外の人間の目には、見えないんだもの」
 私は黙り込んだ。
 予想通り。流星の姿は私以外には見えない。だって、銀色の学生服を着て、青いマントをつけた、銀の目に青い髪の男の子が空を飛んでいたら、誰かが気づかないはずが無い。どだい不自然だ。
 でも、だとしたら、流星は何者なんだろう?
「あんた、何者なの……?」
 私はかすれた声で問いかける。流星はにっこりと笑った。女の子みたいに可愛らしく。
「ボクは、アイの味方だよ」




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