6

 

 深夜の学校は、満月の明かりに照らされても、足元がおぼつかないくらいに暗い。
 リナは来た。短いキャミワンピに、きらきらしたミュール。つやつやした髪は月光の下でも天使の輪のような光の輪をつくる。薄化粧すらしているようで、唇が淡いピンク色をしているのが見えた。大人っぽいファッションだった。対する私はただのジーパンにカットソーという格好だった。リナは屋上に立っている私を見ると、グロスで光る唇を、嘲笑にゆがめた。
「なに、アイ?」
 私は黙ってリナを見た。
 普通、出入りを禁止されている屋上だった。学校の鍵も、屋上の鍵も《流星》が壊した。私の指はあまりの力の出しすぎで折れてしまったが、そんなことはどうでもいい。私は痛みすら感じない。なぜなら、今の私は《流星少年》だからだ。
「話があるの」
 私――― 《流星少年》は言った。
「何?」
「リナ、いじめられてたんだって? 小学校の頃」
 リナは、一瞬、顔をゆがめたようだった。私は哂う。あざけりの笑みを浮かべる。
「知ってる。全部聞いたよ。リナ、毎日紙袋かぶって学校に通ってたんだって? でも、紙袋を取られたらバツゲーム。犬みたいにおしっこさせられたり、モップを股間につっこまれたりしたんだって? 男子トイレの床を、髪の毛で拭かされたりしたんだって?」
「……誰に聞いたの」
 リナの声が尖っていた。警戒。リナの指が、絹のような長い髪を神経質に弄び始める。私は唇を吊り上げる。リナの生命線を、私は今、握っている。
「みんな知ってるよ。リナの小学校のコだったら。私も聞かせてもらったの。リナがどれだけみっともなくて、みじめで、蔑まれてたか。当時のことはユイコだって覚えてるんだよ? 知ってる? ―――この学校にも、あそこの小学校から来てるコ、何人もいるよね?」
 リナはイライラと髪を弄ぶ。目がぎらぎらと光っていた。それでも私は落ち着いている。
 なぜなら、私は《流星少年》だからだ。
 私は、体の中に、流星を感じる。
 私の目は、今、銀色に光っていることだろう。他の誰にも見えなくても、私自身には見えている。私の髪は青いだろう。他の誰も認めなくても、私自身が知っている。なぜなら私は流星だから。戦うことを選び取った。だから私は負けない。私は逃げない。私はリナに勝つ。勝って――― 今度は私が、リナのいる場所に立つのだ。
 長い沈黙が流れた。リナが、言った。
「だから、なんだっていうの?」
 グロスの光る唇が、私と同じようにつりあがっていた。虚勢だ、と私は思う。今、流れは私のほうにある。
「そうよ、あたしは昔いじめられてたわ。でも今は違う。そんなことがどれだけくだらないか、思い知ったの」
「誰もいないところでまで嘘をつくの?」
 私はあざけった。
「ユイコの次は私。次は誰? みんなのためのスケープゴートさえ作っておけば、自分だけは安全だもんね。誰も次は自分にはなりたくないもの。リナに奴隷に指名されることが、どれだけ辛いか知ってるもの」
「……」
「でもねリナ、私はもう逃げない。あんたの生贄なんて降りさせてもらうわ」
 リナの唇が、引きつるように、笑いの形を作った。
「……そう、じゃあ、どうするつもり? ご立派なあんたは、自分が生贄を降りて、次は誰をゲームの犠牲者にするつもり?」
 私はすっと手を上げた。まっすぐにリナを指差した。月光に照らされて、頭に天使の輪を頂いたリナを。
「リナ、あんたよ」
 リナの表情が、瞬間、般若のように歪んだ。
 私は笑う。笑う笑う笑う。可笑しくなる。リナのこんな顔、見たことが無い。リナはいつだって完璧で清潔だった。でも、そんなリナだってこんな顔をする。とうとう私はリナの仮面を剥ぎ取った。
 腹を抱えて笑う私を、リナは、まっすぐににらみつけていた。
 ひとしきり笑い終わった私は、ふいに、正気に戻る。体の中に力が満ちているのを感じる。今だったら勝てる。リナの運命は、私の手の中にある。
「あんたがそんなみじめないじめられっこだったって知ったら、みんな、どう思うかしらね」
「……」
「私調べたの。あんたがそういう目にあってるとき、写真とってたコもいたって。どっかにその写真はきっと残ってる。きっと見つけ出して、学校中に張り出してやる。インターネットにだって流してやる。小学生女子が泣きながらモップでオナニーさせられてる画像なんて見たら、さぞロリコンの変態どもが喜ぶでしょうね。あんたは破滅よ。次に地獄に落ちるのはあんたよ。みんながあんたを蔑んで哂うわ。おキレイな顔して、女王ぶってるあんたが、ただの惨めな虐められっこだったなんて知ったら、喜ぶ人間が、この学校には山ほどいるもの!!」
 一気に言うと、息が、切れた。
 ぜいぜいと肩を上下させている私を、リナは、しばらく黙って見つめていた。瞬間、その目が銀色に光ったような気がして、私はふと、奇妙に思う。
 リナは、ゆっくりと、言った。
「……それを言うためだけにあたしをここに呼び出したの?」
「そうよ」
 私は顎をそびやかした。
「今だったら、取引に応じてあげてもいい」
「取引って?」
「私じゃなくて、別の誰かをゲームの犠牲者にするの。リナは今までどおり女王様ぶってればいい。私の言うことさえ聞くんだったら、今のままの状態でも許してあげる」
 私が言うと、短く、沈黙が降りた。
 ―――リナが、くすり、と笑みをもらした。
 何がおかしい? 私は、目を疑う。リナがうつむく。長い髪が顔を隠す。笑い声が聞こえてくる。リナは笑っていた。可笑しくてたまらない、とでもいうように笑い出す。痙攣するような笑いの発作は次第に大きくなる。リナが天を仰いだ。真っ白い喉が反り、月の光に照らされた。

「嘘だッ!!」

 その叫びが、月夜を、つんざいた。
 私は驚愕する。リナはもう笑っていない。まっすぐに私を見ていた。かつん。音がする。リナのきらきらしたミュールが、屋上のコンクリートを踏む音が。
「嘘…… 嘘、嘘、嘘、嘘、嘘つき、嘘つき!!」
「な……」
 リナがまっすぐに私を見る。私は驚愕する。その目は銀色――― CDのような虹の光を含んだ銀色。ぎらぎらと光る銀色の双眸が、私をまっすぐに睨んでいた。
「取引なんて嘘! すぐにあんたはあたしを犠牲者に叩き落す! じゃないとあんたの復讐心が満足しないもの! あたしはそれだけのことをやってきた! 無事に生きていくために、みんなを恐怖で縛り付けて、足元に踏みつけにしてきた!!」
 リナが近づいてくる。私は思わず後ずさった。背中に手すりが触れた。立ち入り禁止になっているこの屋上で、その縁をささえる手すりは古くなり、塗装されたペンキが剥げかけていた。
「それでもあたしは戦う! あたしを傷つけるものはみんな排除してやる! みんな、みんな、あたしに跪かせてやる! じゃないと――― あたしは誰かに殺される!!」
 リナが、そっと、ミュールを脱ぐ。素足になる。ピンク色のペディキュアが塗られている。ぎらぎら光る銀色の目で、月光を反射させながら、素足になったリナが、私に近づいてくる。
 あたしの中で流星がささやいた。
 ―――戦いますか、逃げ出しますか?
 私は、とっさに、選択した。
 『逃げ出す』と!
 私の目が、銀色に光った。
 私の足が地面を蹴る。私は跳ぶ。人間にはありえない反射速度で。
 けれど、リナの手は、さらに速かった。
 リナの手が、私の髪を、掴んだ。
 掴み取られた髪が、ぶちぶちと音を立てて、頭皮ごと引きむしられた。私は倒れた。
「逃がさない」
 リナが、笑った。地面に引きずり落とされた私を見降ろして。血と頭皮の付いた私の髪の毛の一握りを、片手に握り締めて。
「私は、戦う。―――二度と、逃げたりしない!」
 リナの手が、私の首を掴む。立ち上がらせる。手すりに押し付ける。
 そして、少女としてはありえない…… 人間としてはありえないほどの力が、私の肩を押した。
 私の体は、宙を、舞った。
 
 ―――私が最期に見たものは、銀の虹の瞳を光らせ、青い髪に天使の輪を頂いた、うつくしい、リナの姿だった。


 ずしゃり、と水を詰めた袋を落としたような、音がした。
 彼女は、リナは、無感情に手すりから下を見下ろす。そこにはアイが落ちている。手足を奇妙な方向に曲げ、驚愕したような表情のまま、絶命したアイが。
 校庭のコンクリートに、じわじわと血溜まりが広がっていく。まるで何かの虫でも押しつぶしたようだ、とリナは思う。リナは手を見る。頭皮付きの髪の毛がまだ指に絡みついている。
 なんと、言い訳をしようか?
 家人に家を出ると伝えておかなくてよかった。このまま家の窓から部屋に戻れば、ここに自分がいたという証拠は残らない。アイが虐められていた、という証言は、クラスメイトたちにさせればいいだろう。いじめを悲観して自殺した――― 今の世の中だとありふれた話だ。三文誌のニュースになるのが関の山だろう。もともと自分は実行犯じゃない。犯人はユイコあたりに押し付ければいい。
『本当にこれでよかったの?』
 リナの中で声がする。『彼』の声が。
「いいの。3年前から、答えはずっと同じ」
 リナは冷静に答えた。
「あたしは答えを出しそこねたりしない。あたしの答えはずっと同じ。『戦う』よ。」
 リナの中で、誰かが首肯する。リナは微笑んだ。そして、手を無造作に振り払うと、頭皮付きの髪の毛を、屋上から下へと振り払った。

 戦いますか、逃げ出しますか、Yes/No、Yes/No?

「あたしは戦い続ける。生きるためだったらなんでもする。―――それでいいんでしょう、『流星』?」
 誰かが頷く。その答えはリナにしか見えない。銀の瞳、青い髪の少年は、リナ以外の目には、決して見えることは無い。
 ―――ただ、月光だけが、裸足の少女を見下ろしていた。



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