狐祭りの夜




 朝、目を覚ますと、窓の外には秋の空が広がっていた。
 雲はいわし雲、まだらに空にひろがっていて、流れの先は遠い北の果てへと向かっている。高台の僕の家からは眼下の町が一望できる。開発地のニュータウン、マンションの白い建物が規則正しく並んで、どこかの窓から布団を叩く音がのどかに聞こえてくる。
 見上げると、空を、雀が飛んでいく。どこかでキジバトの声がする。このあたりにはまだ少しばかりは自然が残っている。たぶん、どこかの森で朝を明かしたキジバトが、朝食を終えて休んでいるくらいの時間なんだろう。
 空気すら澄み切って、遠い、遠いところまで一望できる。遠い海すら、山並みすら見えるような気がする。鉄塔は高圧電線をはりながら遠くまで列を作っている。

 ―――僕が学校に行かなくなってから、三ヶ月目の朝だった。

 学校に行かなくなった理由は、よく、覚えていない。
 ただ、なんとなく、友達とのあいだにいることに疲れてしまった。ある日突然、っていうわけじゃあないんだろうと思う。細かな齟齬は昔から存在していた。たぶん、僕が物心ついたころから、ずっと。
 みんなの話す話題で笑って、みんなの遊びに付き合って、一緒に勉強をして、テストが終われば結果を見せ合って笑いあって。もう二年生だからそろそろ高校の受験の話も出てくる。そんな生活の中で、僕のなかには、口に出せない、言葉にならない『何か』が、ゆっくりと沈殿していっていた。
 ……なんで、みんな、ほんとうのことを話さないの?
 たとえば、僕の家には、母が、いない。
 父は一生懸命仕事をして、僕のことをやしなってくれている。けれども、毎晩毎晩夕食を作り、父のかえりをぽつねんと待つとき、そこには誰の姿も無い。父の帰りはたいてい遅い。それだけ仕事が厳しいんだろう。ときに帰りが0時をすぎる父とは顔すらあわせないこともある。僕はひとりで夕食をとり、一人で眠る。
 それ自体、何かが不満だというわけではなかった。僕の友達にだって、家庭環境に不和をかかえている人は何人もいた『らしい』。らしい、というのも彼らが何も話してくれないからだ。だって、そんな話題を出したら場が暗くなるから。誰も哀しい人の話なんて聞きたくないから。だから、僕らはいつも、うわっつらの楽しい冗談を言い合って、楽しげに笑いあって暮らしていた。
 ―――三ヶ月前、まで。
 僕は時計を見る。8時。こんな生活をしているにもかかわらず、規則正しい生活を送っている僕は、少しおかしいような気もした。でも、誰かと話すわけでもないし、週にいっぺん病院に行ってカウンセリングを受けるほかには用事もない。僕はベットを降りてパジャマを脱ぐ。卵を焼いて朝食にしようと思いながら。
 当然のように、もう、父の姿は、無い。

 僕の日課は、たいてい、図書館通いの一言に尽きた。
 僕の家から電車で二駅行ったところにはすこし大きな図書館があって、そこにいけばたいていの本は読むことができる。とはいえ流行のあたらしい本なんかを手に入れるにはけっこうな予約時間をとらないといけなかったけれど、僕がすきなのは古い作家の本が多く、さらにいうなら現在なら絶版になってるようなSFが多かったから、困ることはあんまり無かった。サミュエル・R・ディレイニー、ジーン・ウルフ、J・G・バラード。たぶん学校のクラスメイトに言ったって、誰も名前を知らないだろう。けれどそんな古い作家の書くSFは、どこかしら叙情に満ちたせつない郷愁を漂わせていて、僕の心をやすらがせてくれる。
 今日もキャンパス地のバックから本を出し、予約して取り寄せておいた本をカウンターで受け取る。最近、あのあたりのSF幻想作家の復刊がブームになっていてありがたい。けれど、僕自身で買うには少々高価な値段設定の本が多いような気がする。学校に行かないならバイトでもして、それでお金を稼いだほうがいいのかな。そんなことを考えながら棚の間を一巡りして、牧野修のSFファンタジー短編集と、小川洋子の初期作品を選んだ。あとは、数学者の伝記。今日の収穫はこんなところでいいだろう。
 いつものように本を借りると、僕は、図書館を出た。
 図書館は河のそばにある。広い河原を背の高い雑草に覆われた河。ところどころにはちょっとしたグラウンドなんかが作られたりもしているけれど、大半の地面はセイタカアワダチソウやススキなんかに覆われてしまっている。そんな河の護岸のコンクリートブロックをよじ登り、日当たりのいいあたりで腰を下ろした。僕は本を開いた。
 目の前の河原が光にきらきら光り、トンボが何匹か空を飛んでいた。小学校に通っていたころ、プールの掃除をすると、たいてい、たくさんのヤゴが見つかったっけ。化学部で飼育したヤゴの大半は死に、何匹かはトンボとなって窓のかなたに飛び去っていった。
 本を開いたまま、ぼんやりと景色を見ている僕の背中に――― ふと、影が差した。
「何を見ているんだい、ぼうや」
 知らない声。誰だろう? 見上げると日光が目に刺さった。まぶしさで目をしかめながら見上げると、そこにたっているのは、古ぼけたセーターを着た、白髪の老人だった。
「あのう……?」
「悪いが、すこしそこをどいてもらいたいんだ。狐牡丹の花がほしくってね」
 狐牡丹? なんのことだろう、と思いながら僕は立ち上がる。老人はにっこりと笑い、僕の座っていたあたりに倒れていた草に手を伸ばす。それは黄色くて小さな花をつけた、なんてことのない、雑草だった。男は鋏で丁寧にそれを切り取り、束にまとめて新聞紙でくるむ。
「これは狐牡丹という花でね」
「はあ……」
「毒がある、といわれている」
「!?」
 思わずぎょっとして後ずさる僕に、老人は可笑しそうに笑った。
「いや、冗談だよ。けれども、『きつね』の名のついた花に毒が多いのは事実だ。たとえば狐の手袋はジギタリス系の毒を含んでいて、かつては魔女が幻影を見せるために使用したという話もある。ふむ、つまりは狐というのは人を化かすものだと広く信じられていた証拠だね」
「はぁ……」
 見覚えの無い老人は、僕の周りをいくらか見回して、それから、残念そうな顔になる。おそらく探していた花が見つからないんだろう。僕は思わず声をかけた。
「あの、何を探しているんですか?」
「そうだね。彼岸花や女郎花あたりが欲しいところだ。今晩の祭りに必要だから」
 祭り?
 このあたりで、祭りなんてあっただろうか。けれども、僕にはふと思い当たることがある。図書館に来る途中の道端に、たしか、真っ赤な彼岸花が咲いていた。朱色とも紅ともいえない独特の色彩には覚えがある。
「彼岸花だったら、近くで見ましたけど……」
「ほう?」
 老人は、軽く、片眉を吊り上げた。
「それはいい、実にいい。彼岸花は多ければ多いほどいい。いったいどこの話かね」
「え…… と」
 口だと今ひとつ説明のしにくい場所だ。僕は口ごもった。
 歩いて案内をすればいいんだろう。けれども、なんだかそう言い出すのがためらわれた。ためらわれる、というよりも、僕は戸惑っていたのだ。ここ三ヶ月、ほとんど医者とカウンセラー以外とは会話らしい会話をしていない。どう返事をすればと迷っている僕に、老人は軽く笑いかけた。
「そうだね、無償というのも悪い。もしも教えてくれたなら、君に旨いぜんざいを食わせてくれる店を教えてあげよう。どうだい?」
「は、……はい」
 老人の笑顔はあくまで穏やかで、僕を脅かすようなところはどこにも無かった。だから、僕は半分つられるようにうなずいてしまった。老人はうれしそうな笑顔でそれに答えた。

 彼岸花は一群れ、二群れと群れるようにして咲いていた。老人はそのなかからつぼみの多い茎を選んで花を切った。途中で見つけた咲き残りの夾竹桃の花も切る。老人の腕は見る間に花でいっぱいになってしまう。見かねた僕が半分持つことを提案すると、老人は笑顔で丁寧に礼を言った。
 そして、最後、僕と老人は、裏路地にあるちいさな甘味屋にたどりついた。
「ただいま」
 藍に染められた暖簾をくぐるとき、老人がいった言葉に僕は驚く。店はごくちいさく、客は10人はいるのがせいぜいといったところだろう。ラジオが古ぼけた音楽を流していて、店の端では、何人かの老婆が買い物袋を片手に談笑していた。
「おかえり、じいちゃん。……ん?」
 返事が出迎える。その声は、女の子の声だった。僕は目を瞬いた。店の奥から出てきたのは、僕と同い年くらいの、明るい茶色い髪の女の子だった。
 細い釣り目、白い肌、細いあご。僕はおどろく。同級生だったのだ。
「……尾崎さん?」
 尾崎トミノ。それが、たしか、彼女の名前。
「あんたは……?」
「おや、トミノ、同級生かい」
 ピアスをいっぱい耳に光らせた尾崎さんは、僕を見て顔をしかめた。なんでこんなのを、という顔だ。けれども老人はかまわずに店にあがりこみ、日当たりのいいあたりの席に陣取って、隣の席に僕を招く。ためらいながら僕が座ると、尾崎さんがなんともいえず複雑な表情で注文をとりにきた。
「トミノ、私は田舎ぜんざいで。君は?」
「え…… と。栗で……」
 尾崎さんはうさんくさそうな顔を隠しもせずに注文をとった。そして、店の奥へと入っていく。その背中から僕は目が離せない。
 ―――学校の同級生なんかと顔をあわせたのは、実に、何ヶ月ぶりだったろう。
 尾崎さんとはクラスが違ったけれど、彼女の評判は聞いていた。有名な不良少女。学校で出入りを禁止されているような場所に平気で出入りし、飲酒もタバコも常連なのだという。かといって評判の悪い連中とつるむというわけでもない。男子生徒の間だと、『たのめばやらせてくれるらしい』女として有名だったけれど…… 目の前の温和そうな老人に、それを言うのはためらわれた。
「あの…… あなた、尾崎さんのおじいさんなんですか?」
「ああ、トミノは私の孫だよ。まだ若いけれど、なかなかしっかりとした子だよ。知り合いかい?」
 僕はあわてて首を横にふった。
「ふむ。では、君の名前はなんというのだい」
「あ、水島祐樹といいます……」
 誰かから名前をたずねられたのも、何ヶ月ぶりだろう。そもそもこうやって人と話すこと自体がひどく久しぶりだ。僕はなんとも返事をしかねた。けれども、老人が次に口に出したのは、ずいぶんと僕に優しい答えだった。
「ジーン・ウルフか。なかなか古風な趣味だね。何を読んでいたんだい?」
「『デス博士の島、その他の物語』です……」
「なつかしいなあ。私もときにはそういった類の作品を読んでいたことがあってね。特にジーン・ウルフはいい。実に良心的な作家だ」
 彼はすらすらと言葉を口にする。まるで、読み上げたかのように。
「『けれど、また本を最初から読み始めれば、みんな帰ってくるんだよ。ゴロも、獣人も』」
 その一行。
 僕の胸を詰まらせ、何度かは涙すら流させたその一行を、彼はこともなしに口にしてみせた。僕は瞠目する。老人は笑った。
「君はどうやら、ずいぶんと本が好きなようだね」
「ええ…… はい」
「今日は他に何を?」
「ええっと、20世紀SF傑作選の70年代選集と、あと、小川洋子の『完璧な病室』、それから、牧野修の短編集です」
「ふむ、繊細な趣味だ。なかなかいい。私も小川洋子は好きだよ。特に『シュガー・タイム』がいいね。あと、『貴婦人Aの蘇生』がいい」
 どちらも小川洋子の傑作小説だ。現在流行しているような暖かい話ではなく、どことなく静かな死の香りを漂わせている作品たち。僕が惹かれているのはちょうどそんな作品群だったから、だからこそ、僕は、ひどく感嘆した。
「よくご存知なんですね……」
「たまたま、だよ」
 老人はにっこりと笑った。そのときぜんざいが運ばれてきて、仏頂面の尾崎さんが、僕たちの前に甘いぜんざいと、熱いお茶を並べてくれた。

 その後も、しばらく、作家論や作品の感想などで楽しい談笑が続いた。けれど朱塗りの椀が空になる頃、ふと、思いついたように老人は言った。
「……ところで、君はなぜ、こんな時間に、ここに?」
 ていねいに箸をそろえながらの一言に、僕は、冷水を浴びせかけられたかのように正気に返る。
 時計を見ると、時間は正午過ぎ。普通の中学生だったら学校に通っている時間だ。けれど僕は図書館帰りで、しかも、こんな場所で見知らぬ老人と本の話なんかをしている。不思議に思って当たり前だろう。僕は口ごもった。
「あの、学校は…… 行ってないんです」
 ほう、というように老人は片眉を吊り上げた。
「なぜ?」
「……なんとなく、行きづらくて」
 ある日、学校に行きたくなくなった。その理由は僕にもいまだによく分かっていない。けれども僕は学校に行けない。行く気にどうしてもならない。それだけは、どうしようもなく確かなことだ。
 上っ面だけで友達に合わせるのが辛抱できなくなったのかもしれない。どうしようもなく無意味な授業なんかに付き合うのがいやになったのかもしれない。理由はいくらでもつけられる。けれども、実際に起こっていることはとてもシンプルだ。『不登校児』。……それが、僕に貼られたレッテルだ。
「なんていうか、学校に行く気がしなくて…… 何か、いやな感じがするんです。別にいじめられているわけでも、なんでもないんですけど」
 『僕が』対象になっていないだけであって、いじめ自体は実際にある。むしろ、僕は傍観者の立場だったと言ってもいい。たしかあれは小柄な女の子だった。どういう顔の、どういう名前の子だったか思い出そうとして、思い出せなかった。
「……居場所が無い、ということかな?」
 老人は静かに言った。僕は黙った。その言葉がじわじわと胸にしみこんだ。
 居場所が無い。そう、その言葉はとても僕の感じているものに近い。人と話すのが怖い。人の気持ちを覗くのが怖い。そこに何か、僕と非常に違った何かがあるんじゃないか、という懸念が、僕の足を地面に縛り付ける。
「……トミノもね」
 老人は、ふと、視線をずらした。そこには布の暖簾に仕切られた、小さな台所がある。そこでは尾崎さんが皿を洗っていた。狐色の髪の毛が背中で揺れていた。スリムなジーンズと、ボーダーのニット。
「あまり学校に行かなくてね。まあ、中学はまともに出る気持ちではいるようなのだけれどもね」
「……」
「暇なときはこうやって店の手伝いなどをしてくれている。わざわざ学校に言っても、誰とも話す気が無いようでね、『居場所が無い』というんだ。周りの人間はみんな違う生き物で、だから、話してもどうせ理解なんてし合えないと…… そんな風に言う」
 僕はぼんやりと尾崎さんの後姿を見た。年の割りに背が高く、化粧も濃いから、高校生くらいには見える。けれども、そんな僕とはぜんぜん違う生き方をしている尾崎さんが、そんなふうに僕と似たことを考えているということが、僕には、なにか、とても不思議だった。
 老人は僕を見た。僕は振り返った。老人はにっこりと笑った。そして、傍らにおいてあった束から、一本の草を抜いた。―――狐牡丹の一枝だった。
「なんだか君は、他人のような気がしないよ」
 手渡された僕はたじろぐ。老人は笑う。そのつりあがった細い目が、尾崎さんによく似ている、と僕は初めてそう思った。
「よければ、今夜の『祭り』に来ないかい?」
「え……?」
「まあ、普通はお客などは招かないのだけれども、君は特別だよ。何か他人のような気がしない。それに君ならば『祭り』を楽しんでくれるような気がするからね」
 ちょうど今年は私らの土地が持ちまわりだからね、と老人は言う。僕には意味が分からない。
「あの……?」
「もしも差し入れをしてくれる気持ちがあるんだったら、そうだね、いなり寿司でも持ってきてくれたらみんなが喜ぶ。酒でもいいね。まあ、祭りといっても気楽なものさ。古い仲間が集まって、お互いに酒を飲んで騒ぐだけなんだから」
 その狐牡丹が通行証だよ、と老人は言った。
「今晩、細い月が中天を越える頃、白幡神社の境内へと来るがいい。そうすれば、君も祭りにこられるはずだ。なに、気軽な気持ちでいい。もしも来たくないのなら、来なければいいというだけの話しだよ」
 老人の言う意味は僕にはよく分からなかった。困惑する僕に老人はまた笑い、それから、お茶をひとくちすすった。




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