その日の夜も、父からは、帰らないという電話があった。
僕は一人、ファミリーレストランで夕食を取りながら、困惑気味に手にした狐牡丹の花を見ていた。
とうとつに『祭り』などと言われても、そんな話など一度も聞いてはいなかった。自治体が祭りなんかをやるんだったらそうとう前から掲示や宣伝なんかをするだろうし、そもそも、場所といわれた白幡神社自体が、普段だったら人が決して足を踏み入れないような忘れ去られた小さな社にすぎないのだ。一回、小学校のときの社会科見学で覗いたことがあるけれど、何本かの大きな木、古い鳥居、それに、朽ちかけた木のお社があるだけだった。おおよそ『祭り』なんかをすることができるような場所じゃない。
からかわれているんじゃないか―――? そんな気持ちが僕の意見の大半を占めている。
でも、あの老人はすくなくともまじめだった。僕に差し出してくれた狐牡丹の枝は、持ち歩いているにもかかわらずしおれる気配もなく、ちいさな黄色い花をけなげに咲かせている。
僕はたいしておいしくも無かったスパゲッティの最後の一口を口に放り込む。そのときだった。唐突に頭上から声が降ってきた。
「水島!」
ちょっとハスキーな、女の子の声。僕はぎょっとして振り返る。すると、そこには、見覚えのある女の子が立っていた。
細身のジーンズと、ミリタリー柄のキャミソール。髑髏のモチーフが入ったジャケット。そして耳にはじゃらじゃらとぶら下がった銀色のピアス。狐色に脱色された髪―――
「い」
僕は驚愕のあまり、狐牡丹の花を、取り落としかけた。
「尾崎さん?」
彼女は切れ長な細い目で僕を見下ろして、面倒くさそうにがりがりと頭をかいた。
「どこで何やってんのかと思ったら…… こんなところでうだうだ時間つぶしてたなんて」
「晩御飯、食べてただけだよ……」
「いなり寿司、それかお酒、買った?」
僕は思わず沈黙した。
でも、僕のとなりに置かれた大きなビニールの袋が何よりも雄弁な返事だ。『祭り』なんて信じてない、といいつつ、僕はとうてい一人じゃ食べきれない量のいなり寿司を買い込んでいたし、家からは一升瓶を持ち出していた。それをみた尾崎さんは鼻を小さく鳴らした。
「なんだ、来る気があるんじゃない。じゃ、来なさいよ」
「……」
「何?」
細く描かれた眉を吊り上げる。僕はおずおずと問いかける。
「その、『祭り』って…… 何?」
なぜだかその質問は、彼女の気分をひどく害したようだった。彼女は勢いよく立ち上がると、僕の手を無理やり引っ張る。僕はあやうくシートから落ちそうになる。
「うわ!」
「来ればわかる! 来なきゃわかんない! ……どっちなの!?」
「い」
僕は、気おされながらも、結局、自分自身で決めていた返事を返すしかない。
「行く」
「そ」
ぱっ、と尾崎さんが手を離す。僕はあやうくそのまま地面に落ちそうになる。けれども、尾崎さんは頓着しなかった。そのまま細い踵のミュールですたすたと歩いていく。
僕はあわてて伝票と荷物、それに、狐牡丹の花をつかむと、彼女のあとを追った。
白幡神社へと続く道は、薄暗かった。
このあたりは町の再開発から半ば取り残されていて、畑なんかが残っている場所すらある。裏路地を曲がった場所で、近くには刈り残したような森が残っていて、秋なんかは落ち葉を大量に散らす。まだ秋といっても浅い今、落ち葉もそれほどの量ではなく、ただ、荒れた土地に生えっぱなしのススキが、銀色の若い穂をゆらしていた。
白幡神社に近づいたとき、僕は、目を疑った。
人が、いる?
彼らはみな、服装も、年齢も、さまざまな人々ばかりだった。
サラリーマン風の背広の人がいる。主婦らしい感じの女性が小さな子供の手を引いている。普通の商売の人だったら着ないような派手なドレスをコートに包んだ女性がいる。そして、共通点は彼らの誰もが、その手に、さまざまな種類の草花を手にしていることだった。
その草花が、光っている。
まるで蛍のように、淡い光を、放っている。
「!?」
僕はあわてて手にしていた狐牡丹の花を見た。―――光っていた。
まるですりガラス越しの蝋燭のような、蛍の火のような、かすかな、かすかな光。それでもそれは確かに光っていた。あわててそちらを見ると、先を歩いていく尾崎さんの手では、一輪の女郎花が光っていた。そして、明かりたちの群れは、ゆっくりと神社の階段を登り、古ぼけた鳥居をくぐっていく。どれだけの人がいるんだろう? 僕はごくりと唾を飲んだ。
「ね、ねえ、尾崎さん……」
僕は、勇気を振り絞って、尾崎さんに話しかけた。帰ってきたのは不機嫌な返事だった。
「何」
「これ、なんの祭りなの?」
彼女は一瞬振り返る。そこにあった表情は、複雑すぎて、僕には感情を読み取りかねた。
彼女はため息をつき、派手なマスカラの目を瞬いた。ぼそりとつぶやく。
「『狐祭り』」
「きつね…… まつり?」
彼女は淡々と答えた。
「人間に混じって暮らしている化け狐が、年に一回集まって、お互いの無事を確かめ合う。……そういう祭り」
白幡神社の細い階段を登り、鳥居を潜り抜けると、そこには、想像もしない光景が広がっていた。
―――広い、広い、銀のすすきの野原。
こんな土地なんてなかったはずだと立ち尽くす僕の傍らを、誰かがうれしげに駆け抜けていく。それは小柄な老婆だった。けれど、彼女の姿がみるみるうちに変わった。まとめていた銀の髪を解き、着物のすそがひるがえると、やわらかそうな尻尾が飛び出した。
地面に敷かれた緋毛氈。あちこちにともされた色とりどりの灯篭。そこに、何匹もの、何十匹もの狐たちが集まっている。地面に座り、山積みにされた油揚げをつまみに、酒を飲み交わして、騒ぎあっていた。
ほんの小さな仔狐がいる。長い尻尾が何本にも分かれた、金の毛並みの狐がいる。無論一番多いのは普通の狐だったけれど、人間のような服、あるいは着物などをひっかけているという時点で『普通の狐』とは到底いえまい。広場の真ん中では浮かれた囃子が演奏されて、何匹もの狐が、跳ねるようにして踊りまわっていた。
上天に細い月。藍色の空に無数の星。こんな無数の星なんて見たことが無い。ここはいったいどこだ? 僕は呆然と立ち尽くす。その背中を、誰かが叩いた。
「やあ、兄ちゃん。見事な化けっぷりだねぇ。でも、ここだと元に戻っていいんだよ。ささ、さっさと尻尾をおだし。ご馳走もたっぷりあるからね!」
親しげな口調のそれは、どこからどうみても狐だった。ジージャンを羽織った二足歩行の狐だった。なんとも返事を出来かねている僕の手から、尾崎さんがビニール袋を奪い取る。そして、彼に向かって突き出した。
「これ、差し入れ」
「おお、いなり寿司! それにこいつぁ、富山の『銀盤』じゃないか!!」
狐はうれしそうにそれを受け取ると、「おおい、みんな!」と手を振った。何匹もの狐がかけてくる。僕は思わず後ずさる、とっさに逃げ出しそうになる。けれども、その肩を誰かがやんわりと抱いた。
「まあ、坊や、そんなに怖がるもんじゃない。とって食いやしないよ」
僕は振り返る。そこに立っていたのは銀ぎつねだった。ひどく年寄りなのだと分かった。尾が二本に裂けていた。でも――― その声は、昼、僕に声をかけてくれた、あの老人のものだった。
「あ、あ、あなた……」
「そうだよ」
彼は、なぜだか自慢げに、二本に分かれた尾を振った。
「私はこれでも400年生きた尾裂きの化け狐さ。ようこそ、『狐祭りの夜』へ」
僕はただただ、呆然と立ちつくすしかなかった。
「どうだい坊や、甘いお菓子もあるよ。いなり寿司だってたんとある」
「酒はどうだい。いやだったら甘酒にしておくかい?」
「何を言ってるんだい。やっぱり酒さ、酒酒。ささ、杯をお出し。たんとついであげよう」
「は、はぁ……」
僕の左右を囲んだ狐たちは、なにくれと世話を焼いてくれる。菓子や折り詰めの中身を進め、何かと酒酒と進めてくる。あいにく僕は飲酒には縁が無かったので甘酒で勘弁させてもらった。それにしても、狐にこんなふうにお酒を注がれるなんて、今まで想像もしたことがない体験だった。
狐が笛を吹き、狐が太鼓を叩く。ただのお囃子だけじゃなくって、ギターを持ち込んでいる狐もいる。カラオケの演奏にあわせて歌を歌っている狐もいて、なんだか、場はどこかの田舎のお祭りの打ち上げ、とでもいったような雰囲気だ。僕一人だけ人間だから浮いている…… と思いきや、隅っこの銀野原のほうで、尾崎さんがひとりでぽつんと座ったまま、缶ビールを飲んでいた。
なんで一人であんなところにいるんだろう? 僕は声をかけようと立ち上がりかける。けれど、銀狐に肩を抑えられた。あの老人だった。
「トミノだったらほうっておいておやり。あの子はあそこがいいんだ」
「どうして……?」
銀狐の姿でも、やさしくてやわらかい調子の声は変わらない。老人は少し悲しそうに笑った。狐の表情は分からないけれど、そう見えた。
「あの子はね、純粋な化け狐じゃないんだよ」
「え……?」
「あの子の父親は人間だった。だから、あの子は半分は人間で、まともに狐の姿になれない。だからああやって端っこのほうに座っているのだよ」
僕はあらためて尾崎さんを見た。缶ビールを一人で飲んでいる尾崎さんを。
尾崎さんの耳からは、ピンととがった狐の耳が伸びていた。ジーンズの尻からはふかふかした尻尾が出ていた。それだけをみれば狐だ。でも、それだけだ。他のところは何一つとして『狐』ではない。彼女はたしかに人間に見えた。
「あの……」
僕は、ためらいながら問いかけた。
「なんで、みなさんは、こんなところに集まっているんですか……?」
銀狐はさみしそうに笑った。朱塗りの杯から、一口、酒を飲んだ。
「昔はね、ここのあたりは、すべて、森と野原だったのだよ」
「え?」
「見てごらん、このすすき野を。すべては幻で作ったものだけれど、これがありし日のこの地の姿だよ」
僕は周囲を見回した。
どこまでも、どこまでも広がる、広大なすすき野原。
銀の尾花が月の光にきらめき、風を受けて海のようになびいている。遠く見えるのは森の影か。星々は手を伸ばせばつかめそうなほどに近く、月は夜の獣の爪のようだ。そして、澄み切ったこの空気。純粋な秋の夜の空気のにおい。
「ほんの…… 100年も昔になるかね」
銀狐は切なげに笑った。
「やがて人間たちがやってきて、山を崩し、原を埋め立てて、そこに家をつくり、町を作った。我々は故郷を追われ、住む場所を失った。そして……」
人間になったんだ、と彼は言った。
「化ける力の無いただの狐はみな死んだよ。けれどもわれらは化け狐だった。人間にまぎれて暮らすことも難しいわけではない。みんな人に化けて、それぞれ人に紛れ、人と化して、暮らしてきた。中にはずっと人の姿でいるうちに、人間になりきってしまったものもいる。狐であることを忘れてしまう、それも、幸せなことなのかもしれない」
くい、と銀狐は杯を干した。そして、ため息をつく。
「けれども、我々はまだ忘れられないのだよ。この銀の野原を駆け、人間たちを騙し騙され、そうやって幸せに暮らしていた日々がね。あまりに昔といえば昔だ。けれど、だからこうやって年に一度集まって、狐の姿に戻り、一晩ばかり幸せに遊び暮らすのさ」
「……」
僕は、返事が出来なかった。手にした杯の中を見る。そこに見たされた、白濁した甘酒の水面を。
そこに写っているのは僕の顔だ。まぎれもない人間である僕の顔。けれども、僕にはなぜか、彼らの孤独が分かるような気がした。二度とはふるさとに戻れず、人にまぎれて暮らす身の切なさが。
ふるさとは、もう、無い。友とは別れ、会うことも無い。そして人にまぎれて生きるうち、最後には自分が狐であったことすら忘れていくのだ。ただそこに一抹の孤独だけを残して。……ここは自分の居場所ではない、という、胸の奥をえぐるような郷愁だけを残して。
僕に分かるわけが無い。僕はあわてて首を横に振った。甘酒を飲み干す。やわらかい甘みが喉を通り越していく。
銀狐はやさしい目で僕を見ていた。きっと、彼が僕をここに誘ってくれたのは、僕のこの勘違いを分かってのことだ。僕はただの人間で、異分子などではない。けれどもまるで異分子であるかのように錯覚をしている。それを戒めるために僕をここに呼んだのではないだろうか――― 違うだろうか?
ふと、僕は、目を移す。なぜか尾崎さんが気になったのだ。
……尾崎さんは、そこには、いなかった。
「尾崎さん!」
尾崎さんの姿は、探せば、まもなく見つかった。
鳥居まで続く、長い長い石段の途中に座っていた。ジーンズに包まれた長い足が投げ出され、やわらかい尾がふわりと地面に落ちていた。とがった耳にピアスが光っている。たぶん、人間のときの耳が、そのまま獣の耳に変わったんだろう。
僕がためらいがちに歩み寄ると、尾崎さんは目を上げ、キッと僕をにらんだ。目元には派手な化粧が施されている。僕は一瞬足を止めた。けれども、唇をかみ締め、再び歩き出した。
「ぼたもち、食べる?」
隣に座る。尾崎さんは迷惑そうな顔をしてそっぽを向いた。
石段から見下ろすと、周りには真っ暗な森だけが広がっている。はるか下に見えるのはちいさな鳥居。そこが異界の出口で、そこを超えれば人間たちの世界――― マンションが立ち並び、清潔に整備された町並みが広がっているはずだった。
僕は尾崎さんの隣で、なんと声をかけたらいいのかわからずに、横目でその様子を伺っていた。尾崎さんは無表情に膝に頬杖をついて、目はぼんやりとどこも見てはいなかった。長い狐色の髪。派手なアクセサリー。いかにも『いまどきの女の子』風の派手な服装の向こうに…… けれども、僕は、ちいさな仔狐の影を見たような気がして、目を瞬いた。
「こんな祭り、嫌い」
唐突に、尾崎さんが、つぶやいた。
「未練がましい。化け狐なんて、いまどき流行らないんだよ。いっそ、全部忘れちまったらいいのに」
「……」
「なんで皆で集まったりするのさ。思い出話なんかしたりするのさ。全部終わっちまった話じゃないか。化け狐なんかに、居場所なんて、もうどこにもありゃしないのに」
―――乱暴な口調の向こうに、何かが、透けて見えた。
半妖。その身がどれだけ孤独なことか。狐の世界には入れない。かといって、人間の世界にも入れない。どこにも居場所が無い。いっそただの人ならば、あるいは獣だったならば、楽に生きられるだろうに。
……でも、尾崎さんのそんな思いは、錯覚に過ぎない。
「僕は嫌いじゃないよ、この祭り」
「……」
「みんな、楽しそうじゃないか。思い出話が出来て、居場所があって、幸せそうじゃないか」
尾崎さんの切れ長な目が、瞬間、僕をにらんだ。
……けれど、そこには私の居場所は無いと、そう、その目が語っていた。
その通りだった。僕は人間で、尾崎さんは半妖だ。ここの幸福は、手の届かない郷愁。遠くから眺めるだけで、触れることは出来ない。みんなは思い出の中の幸福なぬくもりに包まれているかもしれない。けれども、僕たちに聞こえるのは、すすきの銀野原がゆれる、かすかなざわめきだけだ。
「いいと思うんだったら、なんで、戻らないのさ」
やがて、ぼそりと、尾崎さんが言った。
僕は、苦笑交じりに、答えた。
「あそこは、僕の居場所じゃないよ」
みんな歓迎してくれる。みんなが笑いあい、酒を注ぎ、菓子を進めてくれる。でも、僕一人だけが狐じゃない。あそこは僕の居場所じゃない。
銀狐のおじいさんが僕を誘ってくれたのは、ある意味だと、間違いだったのだろうと僕は思った。
人の間で狐として生きるせつなさ。それは確かに僕の感じている切なさに近いのかもしれない。けれども、僕は狐ではなかった。僕はただの人間で、他の人間たちの中にいてすら、居場所がないと感じている。もしもいっそ僕が狐だったなら、どれほど救われただろう。かりにいくら孤独であったとしても、狐たちの間に帰れば、ゆるされると思うことができるのだから。
「僕は狐になりたいよ」
ぼそり、と僕はつぶやいた。尾崎さんは驚いたように僕を見た。
「……あたしは人間になりたい」
やがて、彼女もまた、ちいさな声でつぶやいた。僕はそこに、鏡に映ったような、僕と同じ孤独を見たような気がした。やがて僕はくすりと笑った。言った。
「人間になっても、さみしいよ」
「知ってるよ、それくらい」
彼女は耳をぴくんと動かした。つんとあごをそびやかす。遠い星を見上げて。
「でも、なったら何か幸せになれるんじゃないかって…… それくらい考えてもいいでしょ?」
僕は少しだけ黙った。それから答えた。
「……そうだね」
星が落ちてきそうな空だった。遠くから聞こえてくるのは銀野原のざわめきと、狐祭りの楽しげなざわめきだった。けれども僕らは同じ夜の中で、石段に腰を並べていた。まるで世界のすべてと切り離されたように、虚空に浮かぶ星のように、僕らは、ぽっかりと二人きりだった。
「そうだね……」
僕のつぶやきを、どう、聞いたのだろう。
尾崎さんは、黙って星を見上げていた。
―――『狐祭り』の夜は、しずかに、ふけていった。
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