僕たちは新橋で電車を降りた。
「今、何時だか分かりますか?」
「ええと…… もう、真っ暗ですけど」
「どうします、露路さん。晩御飯を食べますか? それとも、このまま浅草まで行きますか? 個人的には、ご飯を食べることをおすすめしたいのですが。もちろん不肖セバスチャン、お嬢様にお金を出させるような無礼なマネはいたしません」
言葉の意味は分からないだろうが、くすり、と露路さんが笑った。うなずいたようだった。
「そうですね。……わたし、外でご飯を食べるなんて、めったにありません」
「さすがに露路さんです。ええっと、何かお店はありますか?」
「……」
露路さんは辺りを見回しているようだった。ぎゅっ、と握り締める手に力が込められた。
新橋駅ってどんなところだったっけ。僕は思い出そうとする。あんまり出入りしない場所だった。たしか、フジテレビとかがあるほうにいけばずいぶんきれいだったはずだ。でも駅自体はまだ古くて汚い。さんざん迷った末、露路さんが、「行きましょう」と言った。
「お蕎麦屋さんがあります」
「あー……」
僕は、一瞬ためらった。けれども。
「あの?」
「あー、そうですねぇ。じゃあ、お蕎麦にしましょうか」
まあ、いいや。あたって砕けろ、って感じだ。僕は露路さんに引かれるままに、お蕎麦屋らしき方向に行く。
暖簾をくぐる。足元に敷居を感じる。湯気の感じ、出汁の匂い。それから、人たちの熱気。蕎麦屋にあがったということはすぐにわかった。店員さんが、「いらっしゃ」と声をかけかけて、途中で切れた。
「いらっしゃい」
すぐに、言い直す。なんとなくばつが悪そうな感じだけど。……まあ、いいや。
カウンターらしい席に案内されて、手探りで椅子を探し、テーブルを探す。露路さんが手伝ってくれた。メニューは読めないけど、こういう場所だったら何があるかは分かる。
「じゃあ、僕、天蕎麦で」
「私はたぬきのあったかいので」
テーブルに水が置かれる。音で分かった。店員さんが伝票をおく。それも分かった。
でも僕は少しばかり困惑したままだ。「どうしたんですか?」と露路さんが聞く。
「いやあ、あの……」
気にしたってしょうがない。分かってる。分かってるんだ。
「……割り箸の場所がわかりませんで」
苦笑と、おどけ笑いの中間のような顔。仕方がないんだ。ほかにどんな顔をしろっていうんだろう?
露路さんが返事をする前に、なんとか、箸を見つけたかった。僕は手でテーブルを探った。手に、何かがぶつかった。冷たいものがかかった。水だった。
「あ」
コップを、ひっくり返した。
「すいません、お給仕さん!」
露路さんが、すぐに店員さんを呼んでくれる。僕の膝にちょっと水がかかった。ぱたぱた、と水がたれる音がした。僕は動けなかった。何も出来なかった。
誰かが露路さんの向かいでチッと舌打ちをした。僕は身体がびくんと震えるのを感じた。指先が冷たい。水が落ちる。でも、僕は何も出来ない。
氷が手に触れる。冷たい。僕はテーブルの上をすべる氷をイメージした。けれど。
「大丈夫ですか?」
すぐに、その手に、露路さんの手が重ねられた。
ちいさくて華奢な手。ちょっと冷たい手。でも、今の僕には、十分に暖かい手。
「あ、……はは、すいません」
僕は笑った。こわばった笑い。でも、しかたない。ほかにどうしろっていうんだ?
22歳にもなって、ひとりだと、お箸の場所も分からない男が?
すぐに店員さんが雑巾をもってきてくれたようだった。テーブルを拭いてくれたようだった。僕の隣は空席だったようだった。ぜんぶ、『ようだった』だ。僕には、結局、何一つとして把握できなかった。
天蕎麦とたぬき蕎麦が持ってこられるまで、僕は、無言だった。露路さんも黙っていた。でも、蕎麦が運ばれてくると、「あの」と露路さんは僕を呼んだ。
「これ、お箸です」
僕の手を持ち上げて、箸を握らせてくれる。
「それと、これがお蕎麦です」
次は、どんぶりの場所。
手の甲にどんぶりが触れた。熱かった。おずおずと手で触る。慎重に位置を確認する。テーブルの端っこからの距離。カウンターへの距離。
ぱきん、と音がした。露路さんが箸を割ったらしかった。さっきまでずっと喋り通しだった僕が、急に無口になったのを、どう思うだろう。
「……あの、ですね」
おずおずと、僕は、言葉を捜した。
でも、その声は、露路さんにさえぎられた。
「日下部さん、うちの家には、たまに検校さんや、按摩さんがくることもあるんですよ」
「……」
露路さんの声は耳に優しい。出汁と醤油の匂い、海老や野菜を揚げる油の匂い。
「みなさん、はじめはさんざん苦労したという話をしてくれることもあります。ちいさなころからめくらでもそんなに辛いのに、大人になってから眼が暗くなってしまったら、たいそうお辛いだろうと思います」
「……」
「ご飯、ゆっくりでも大丈夫ですよ。浅草も玉の井も、夕が遅い町ですから」
露路さんの手が、僕の手に触る。
露路さんの手。
小さくて、華奢で、ひんやりした手。
ゆらゆらゆれる湯気の中で、僕は、ぽつん、と涙が落ちる、小さな、小さな音を、たしかに聞いた。
もう、一年も、本を読んでいない。
もう、一年も、TVを見ていない。
もう、一年も、パソコンに触っていない。
もう、一年も、景色を見ていない。
もう、一年も、誰の顔も見ていない。
そして、これは始めの一年で、僕の暗闇はずっと続くのだ。僕には二度と朝は来ない。
―――ずっと、ずっと、夜が続く。
僕たちは、地下鉄に乗った。浅草まで行くのだ。そして、そこでバスに乗り、玉の井に行く。
でも、ほんとうに『玉の井』っていう土地があるのかどうか、僕には分からなかった。たぶん露路さんにも分からないだろう。僕たちの短い旅は、どこにたどり着くのかも分からなかった。
そもそも、僕らは『省線』に乗っているわけでもないし、僕らの目指しているところが、ほんとうに露路さんの『家』なのかも分からない。
でも、僕はそれでよかった。
露路さんが手を握ってくれている。それで、僕は、良かったのだ。
「あのですねぇ、僕の母は言うわけですよ。これからどうするんだ、って」
ごとん、ごとん、とゆれる地下鉄は、方向が逆なせいか、ずいぶんと人が少ないようだった。席にも座れた。座って露路さんの手を握るとずいぶん安心した。ごとん、ごとん、という音が闇に響く。
「でもねえ、僕にもわからないわけですよ。だいたい僕はSFとかミステリとかが好きで、事故ったバスってのも、ミステリ研の連中といっしょのバスだったんです」
でも、僕はもう二度と、本が読めない。
「点字とかいうのを勉強してみたこともあるんですけれど、あれは、分からないものですねぇ。指だとあのぷつぷつが読み取れないし、だいたい、僕の好きな本なんて、誰も点字にしてくれないわけです。かといって読んでもらうわけにもいかないのです。……わかりますか?」
「はい」
露路さんが、ちょっとだけ手を握ってくれた。僕は胸の底がじわりと温かくなるのを感じる。僕も握り返す。露路さんの小さな手を。
「ミステリ研の連中は、みんな、僕を見舞いにきてくれるわけです。でも、連中はみんなだんだん元気になっていくんです。僕だけ大学にもいけないし、もう本も読めないわけです。絵だって見れない。映画だって無理です。それに、普通の仕事について、普通に働くのも不可能です」
そして、本当を言うと。
「……実はですねぇ、僕は、今日家を飛び出してくるまで、もう、ずーっと家を出ていなかったのですよ」
「ほんとうですか?」
「本当です。こうやって電車に乗ってること自体、嘘みたいです」
真っ暗闇の中を、走った。
何故、電車になど乗れたのだろう? そして駅にまでつけたのだろう。正直を言って、自分には、目の前をトラックが走っていようが、崖っぷちが聳え立っていようが分からない。いつ線路に落ちて死んだかも分からないのだ。死ななかったということは未練があったということか。そして、自分は今こんなところまで来てしまっている。
「時間を戻せたらいいのになぁ、と思いますけどねぇ」
毎晩思うのだ。
明日、眼を開けたら、また、何事もなかったように眼が見えているのではないかと。
けれど、毎晩の夢の鮮やかさとは逆に、現実は変わらなくて。
毎朝、眼を開くと、そこには、『真の闇』がある―――
露路さんが、僕の手を、やさしく握った。
「日下部さん…… 慈郎さん」
その手は、すこしひんやりとしていて、小さい。
「時間はね、戻せますよ」
その証拠に、と露路さんは言った。
「次の駅は、玉の井です」
「……え?」
がたん、と大きく電車が揺れた。
その瞬間、まぶたの裏に、赤光が、差した―――
ピィ―――――
長く、笛が、鳴り響く。
露路さんが立ち上がる。僕の手を引く。僕らは電車を降りる。夕方の涼しい空気が頬を撫でる。
「……う、そ」
露路さんが歩いていく。改札で車掌がカチカチと切符切りを鳴らしている。切符を箱に入れる。足は土を踏む。アスファルトじゃない。踏み固められた土の道だ。
僕は嗅ぐ。空気の中の匂いを。
土の匂い、どぶ川の匂い、草の匂い、木の匂い、おしろいの匂い。
どこからか音が聞こえる。三味線の音。
下駄を鳴らして歩いていく人々。
棒縞の着物をきた使いの子供。シャツに着物を重ねた学生。風に揺れる柳。どぶのうえに渡された木の板。
露路さんは、うれしそうに歩いていく。僕には露路さんが見えた。初めて見えた。それは、色の白い、若い、人形のような娘だ。黒い髪をあっさりと束髪にして、水色を含んだ素絹の袖、朱に染めた麻の葉模様の帯を吉弥に結び、どことはなしに素人と筋とは見えぬ姿。振り返って嬉しそうに微笑む頬はふっくらと白く、面長なうりざね顔にはほんのりと朱がさしていた。
「ほうら、ここが玉の井ですよ」
僕は、呆然として、一歩を踏み出す。
空は、全天が真っ赤な夕焼けの色だ。
金色に染まった淡い雲に、のんきなラッパがどこからか響く。朱、茜、紅。様々な色を濡らした紙にぼかしたような色。
「わたしの家は、もう、すぐそこです」
露路さんは、嬉しそうに歩いていく。足取りも軽く。鼻緒の紅い塗りの下駄。くるり、振り返って、はにかんだように微笑む。爪紅もささないきれいな指先。
「あのね、慈郎さんがね、一緒に来てくれたから、帰れたんですよ」
「え……?」
「わたしひとりだと、どうやっても、帰れなかったものだから」
だから、ね。と露路さんは言った。
「ねえ、昔は、帰って来るんですよ?」
僕は―――
とっさに、手を伸ばし、露路さんの手をつかんだ。
「露路、さん」
声が震えていた。押し殺したような声。
「違いますよ。『むかし』は、帰ってこないんですよ」
露路さんの手は、ひんやりとして、華奢で、小さい。
僕はようやく思い出す。こんな手を知っていると思ったのを思い出す。
死んだ、祖母の手だ。
この冷たさは、長い年月を経た、老人の体温だ。
まるで眼を醒ますように、赤光が、まぼろしのように溶けていく。
僕は両手で露路さんの手を握り締める。今なら分かる。やわらかくてもろい皮膚。骨の浮き出た華奢な指。この手は、少女の手ではありえない。
老女の、手だ。
「露路さん、今は、今です。もう、昔は返ってこないんです」
僕は言い聞かせる。言い聞かせながら、僕の中で誰かが叫んでいる。そんなの嘘だ。『昔』は帰ってくる。時間は巻き戻せる。あんな事故の前に、僕の世界からすべての光が消える前に。
僕は、無理やりにその声をねじ伏せる。
そんなのはただの夢だ。
二度と、昔は、帰ってこない。
「……慈郎さん?」
「わかってください、露路さん。……ごめんなさい。ごめんなさい」
電車が止まった。アナウンスが告げた。押上駅、押上駅、と繰り返す。
電車は、『玉の井』などには、つかなかった。あたりまえのように。
そこが終点だった。
―――僕は、いつの間にか、泣いていた。
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