「……おふくろ!!」
 声がして、誰かがやってくる。僕は顔を上げる。露路さんは上げない。声からすると壮年の男性のようだった。
 僕の隣に座った露路さんは、さっきから、不安げに、電車に乗らないと、乗らないと、と繰り返していた。男性が来てもあまり変化はない。男性は露路さんに声をかける。安堵と苛立ちの解けたあとの、裏腹の大声で。
「なにやってんだよ、おふくろ!! こんなところまで来ちゃってさ!」
「あのう、どちら様ですか?」
「俺だよ、わかんないの…… ああ、もう!」
 そんな大声を出さないで欲しい、と僕は思った。
 でも、口には出さない。露路さんの手はひんやりしてて華奢で…… 紙のようにもろくて、やわらかい。
「あの、そちらさんは?」
「僕は日下部と申します。こちらで、ちょっと、正岡さんと一緒になりまして」
「ああ、あなたがおふくろを見つけてくれたんですか。すいません」
 声には疲れがにじんでいた。当たり前だろう。自分の母親が、行方不明になっていたのだから。男性は僕の前にやってきて、たぶん、頭を下げようとしたんだろう。僕はわざと明るい声を出す。
「ああ、お礼はいいですよー。残念ながら、当方、見えませんもので」
「あ…… ああ、すいません」
 男性はしばらく言葉を捜しているようだった。僕は露路さんの手を握ったまま言葉を待った。煙草くさい駅の待合室。
 駅員さんに露路さんの服のあちこちを探してもらったら、案の定、迷子札がつけてあった。電話番号が書いてあったそうだ。かけると、すぐに家族が飛んできた。たぶんいつものことなんだろう。……たぶん、こんな遠くに来ちゃうというのは、いつものことだとは言いがたいだろうけれども。
「おふくろ、最近ぼけがすすんで、徘徊がひどくって…… でも、事故にならなくってなによりですよ、ほんとうに」
「……」
 徘徊、と言うのだな、と僕は何かひどく切ない思いで思った。
 露路さんは、ただ、家に帰りたいだけなのだ。でも、その『家』はもうどこにもない。『玉の井』はもう、どこにもない。墨田区東向島、なんていう住所は、露路さんにはなんの意味もない。ただ露路さんが帰りたいのはあの日の町、自分が若い娘として、手習いなどをして暮らしていた、あの当時の町なのだ。
 露路さんは、つれて帰られて、また、思うんだろうか。
 人攫いの家なんか逃げ出して、家に帰りたい、と。
 ―――露路さんがほんとうに帰りたい場所は、『昔』に他ならないのだ。
 息子らしい男性に肩を抱かれて、露路さんは立ち上がった。手が離れた。思わず追いたくなる…… ぎゅっと、硬く手を握り締めて、こらえた。
「慈郎さん」
 露路さんが呼んだ。少し低い、きれいな声で。
「ねえ、気をつけて帰ってくださいね」
 僕は、硬く、白杖を握り締めた。無理やりのように笑った。
「うん、露路さんも、気をつけて」
 男性はなにくれと露路さんをなだめながら、待合室を出て行った。僕はひとりになった。
 僕は眼を閉じた――― 開けていても、閉じていても同じ闇だけれど、それでも眼を閉じた。閉じたくなった理由を、分かってほしい。
 『むかし』は帰らない。
 僕には、もう二度と、『ひかり』は帰らない。
 僕はさまよい続けるんだろうか。還らない『ひかり』をさがして。それを人は痴呆老人の徘徊と同じように思うのだろうか。おろかな、不自由な人間の振る舞いと?
 でも、分かって欲しい。たったひとりで暗闇の中を歩くとき、露路さんの手が、どれだけ心強かったか。
 同じ、見知らぬ世界をさまようとき、共に歩いてくれる人の手が、どれだけ心強かったか。
 僕たちは一緒に『むかし』を歩いた。『むかし』を探した。それが幻影であっても、僕たちは、手を取り合って一緒に歩いた。
 僕には、『むかし』がある―――
 たとえ、明日が、暗闇の中でも。
 僕は眼を開く。やはり目の前には真闇だけがある。その表現すら正しくない。闇すらない。盲の世界がある。
 それでもいい。
 僕は歩けるし、僕は笑える。そして、僕は、露路さんの手を引いて、『玉の井』へとたどり着くことすら出来たのだから。
 大きく息を吸う。大きく息を吐く。
 そして、僕は呼びかける。
「駅員さん、すいません―――」
 家に電話をかけよう。迎えを頼もう。母はずいぶん心配しているだろう。
 でも、僕は電車にも乗れた。ここまで来られた。
 僕はもう怖くない。どれだけ恐ろしくても、どれだけ不安でも。
 なぜなら……

 なぜなら、僕たちには、『むかし』があるのだから。



 
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