―――Yはグラスを、もう一度、一息に干した。
らしくもない大声を張り上げて、女給を呼びつける。さらに酒を注がせる。それもひといきに飲み干した
「後で聞いた話だ。N公爵は愛する妻に姦通されていたのだそうだよ。美しい細君はそれを知られて睡眠薬を飲んで死に、後に残されたのは、妻によく似た美しい息子だった。だが、先の公爵が若くして変死し、遺言書に後継者として名指されるまで、誰も公爵の息子を見たものは居なかった」
Yは、肩を震わせた。笑った、あるいは、戦慄したように。
「公爵は息子を誰にも見せることなく、あの屋敷で育てていた。屋敷について人に聞かれたときには、『あそこには妻が居る』と答えていたそうだ」
私は絶句する。Yはもう自嘲の笑みを浮かべてはいなかった。その眼は夜の獣のように、ぎらぎらと、光っていた。
「おれはまだ絵を描いてはいない。おれは明日にはもう一度あの屋敷へと行き、今度こそ、『娘』の画を仕上げて見せるつもりだ」
私は悟った。
Yはもう、憑かれてしまっている。
Yはその屋敷に戻り、すべての心血を注いで画を仕上げたのならば…… 二度と、誰にも姿を見せぬかも知れぬ。
名をあらためて聞いてみれば、その男――― 公爵は軍にも顔の知れたやり手だった。公爵も己の秘密をあかしたのなら、もう、Yを現世へと返してはくれぬやもしれない。
では、なぜYは私に会いにきたのか。
そう問いかける私に、Yは、かすかに笑った。
「人生をかけた最高の傑作を描いて、それが誰にも知られずに朽ち果てるなぞ、画描きとしては、あまりに悔しいだろう? おれはせめて貴様を悔しがらせたかったのさ」
せいぜい貴様は、おれの傑作を見られぬことを悔いて、悔しがるがいい、とYは冗談めかして言った。Yは大分酔っていた。酔いながらテエブルに突っ伏して、酒をすこしこぼした。飲みすぎだ、大丈夫か、と月並みなことしかいえぬ私の前で、Yはうわごとのように呟いていた。
「娘だ。うつくしい娘だ。憎悪と妄愛と執着とに磨き抜かれた美だ。あれほどうつくしい娘は居ない。けっしていない。おれはあの娘を描く。絶対に、描いてみせる……」
後に私は、まったく意外な形で、その公爵の姿を知った。
新聞の写真に映った彼は隙の無い軍装に身を包んだ美丈夫で、傍らには美しい細君を控えさせていた。華族らしくも無い辣腕の彼は、関東軍とも結びつきが強く、後には政治の場にも姿を現しすらした。
大正の世も終わった。世間はすっかり変わってしまった。今では浅草の街灯にけばけばしい造花を見るよりも、人々が窓から旭日旗を振る姿を見ることがおおい。今の世間にYのような男は要らぬのだろう。Yの描画について言うのなら、世に隠れた嗜好のものたちの手の中ならばいざ知らず、世間へと渡る程度のものはとうに散逸したと聞く。
―――それから、私は二度とYを見なかった。
ただ私は、Yの描いた娘は、世に類無く美しかったろうと、今でも信じている。
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