「細い月の夜だったよ。森はしんとして、針を落としても聞こえそうだった。おれは裏から風呂炊き用の薪を割る鉈を持ち出し、屋敷の戸へと立った。もう自棄になっていてね、見つからば見つかれと居直ったような気持ちだった。見つかったならば絵は描けぬと答えればいい。そうだ、はじめから、『見もしない娘』の絵など、描けるはずがないのだ。もしも一目見たならば、心血を注いで描いてやると、そう居直れば、あの男も何も言うまいと思ったのだよ」
硬い樫の戸に鉈を叩きつける音は、何度も、何度も、大きく響いた。驚いた鳥が森から飛び立った。それでも、誰も答えない。Yは死に物狂いで鉈を振るった。やがて、鍵が壊れて落ち、ずたずたになった戸が、音を立てて開いた。
目の前に広がっていたのは、ひろく、がらんとした、ホールだった。
「何十人もが舞踏会を出来そうな、ひろい、ひろいホールだよ。正面におおきな階段があった。他には誰もいない。飴色に磨きこんだ手すりに埃が積もっていた。あきらかに、もう何年も人が入っていない廃屋だった」
Yは混乱した。なぜだ? ここにはあの娘がいるはずではなかったのか。Yは屋敷の中をくまなく探し回った。そして、いくつもの部屋を見つけた。使用人たちが寝起きするためなのだろう部屋や、豚も丸焼きに出来そうなほど大きな竈のある厨。壁に飾られているのは、ルドンやモロオといった奇態な幻想を描き出す画家たちの作品ばかりだった。いくつもの客室。青い壁紙と青い帳、薄青い窓硝子のはめ込まれた小さな窓。
そしてやがて、Yは正面の階段を上り、屋敷で最も奥まった部屋へとたどり着いた。
そして、Yは見た―――
「おれでなければ、わからなかっただろうな」
Yは、ぼそりと、自嘲的につぶやいた。
「あの屋敷には、たくさんの部屋があった。そのなかで、一番大きな部屋が――― 女を嬲るための部屋だった」
広い部屋。その中央に置かれたベット。埃をかぶった薄青いリネン。そして、天井から吊るされた鉤。とりどりの色硝子を使った豪奢なシャンデリア。そして、壁には――― 無数の鏡。
隣の部屋には、白い陶器のバスがあった。死んで乾いた蛾が一匹、その中に転がっていた。バスの壁には、鎖がかけられていた。
手に鉈を握り、全身を汗まみれにした、幽鬼のようなYを、窓からの薄い光が照らし出していた。無数のYが、無数の鏡に映り、無数の瞳をぎらつかせた。
ほかの人間だったら気付かなかったろう。その鏡に焼きついた、醜い欲望の色になど。
まるで万華鏡の中に迷い込んだように、無数の鏡像を作り出す、広大な部屋。その鏡の配置は、いかなる姿であっても、いかなる痴態であっても、偽ることなく映し出す。Yは激しい目眩を覚えた。目眩のなかで思った。この鏡の、鏡の中に映りこんだ鏡の、そのまた鏡の中に写りこんだ鏡の中に、もしかしたら、まだ、あの娘が隠れているのかもしれない、と。
すでにYの中には、見たことの無い娘の姿が、強烈に焼きついていた。
誰かが、娘を、ここに。
Yは、それを見たいと、心の底から願った。
湾曲された小さすぎる足、絹のように冷たくてすべらかな肌、まるでおおつぶの金剛石のような瞳を陰々と光らせ、青々と長い髪のなかに荒く研ぎ上げた憎悪を忍ばせ、この屋敷に幽閉されていたのだろう娘。
その冷たい膚に縄が食い込み、殴打に薄い尻が石榴のように割れ、その顔が苦痛と恐怖の絶叫に歪む。手足が、首が、肋が、不自然な形に縛り上げられ、華奢な骨格が限界まで湾曲される。その赤く薄い舌まで、規則正しく奥まで並んだ濡れた歯まで、Yには見える気がした。けれど、鏡の中の、どこを覗いても娘はいなかった。Yは絶望に絶叫し、鉈を鏡に叩きつけた。鏡は百万の鈴を鳴らすような音と共に、砕け散った。
けれどやがて、長い、長い絶叫も途切れて。
赤い絨毯の床に散乱した硝子の欠片の中、Yは力を失って座り込んだ。
そのとき、Yは気付いた。誰かの、足音に。
誰かが、ゆっくり、ゆっくりと、階段を上ってくる。
振り返る気力も無いYの前で、静かに戸が軋み――― 現れたのは、黒い洋装とインバネスの男だった。象牙の杖をついている。無感情な白い顔。男の後ろには、例の唖の女が控えていた。手に大きなトランクを携えて。
男は部屋を見回したが、何も言わなかった。代わりに、ゆっくりとYに近づき、息がかかるほどに顔を近づけ、耳元に囁いた。
「さあ、これが最後のトランクです」
男はトランクを開いた。
Yは見た。
中には、『足』が入っていた。
か細いカナリアの、足があった。おそらくは西洋犬のものだろう、つややかな毛並みの黒い足があった。かぼそい蝶の足すら、きちんと、硝子のちいさな壜に収められて、コルクの蓋がされていた。さらに、猿の足、鶴の足、蜥蜴の足、ぬいぐるみの足、甲虫の足、子牛の足、兎の足、西洋人形の足、ありとあらゆる種類の足―――
どれも古ぼけて、色は、くすんでいた。そのなかへ手を伸ばし、震える指で、Yはひとつの足を拾い上げた。それは小さな、まだ、うまれてほんのわずかしか立っていないだろう、子猫の足だった。青い毛並みの、子猫の足。
その中でとりわけ醜悪で、こっけいなのは、人間の足だった。
おそらくは老人の、それも男の足だった。爪が黄ばんで、しみの浮いた膚が羊皮紙のように乾き、骨の形が浮き上がっていた。……足首のところで、鋸で、切断されている……
だが、Yは、そんなものには興味は無かった。失望が襲ってきた。Yは子猫の足を握り締めた。それは古くもろく、たやすく砕けてしまった。Yは男を見上げた。
「あの『娘』の足は、どこにあるのですか」
男は無表情に答えた。
「もう、どこにもありません」
細い銀のふちの眼鏡の向こうに、冷たい、無感情な、眼―――
「もう、あの足は必要ないのです」
Yはそのとき、気付いた。
男は、杖を、ついている。
磨き抜かれ、甲虫のような光沢をもった革靴は、ひどく小さい。
足は、不自然なほどに、ひどく、小さかった。
男はゆっくりとしゃがみこむと、眼鏡を外した。硝子玉のように透明な、無感情な目だった。床に座り込んだYの肩に手を乗せる。かすれた声で、ささやいた。
「さあ、描いてくれますね」
Yはただ、呆然と男を見つめた―――
Yは男を見た。唇一つ動かさない。けれども、男が笑ったようにYには思えた。それはひどく冷たく、高慢でうつくしく、……無力な笑みだった。
そのとき、初めて気付いた。
男の膚がまるで陶器のように白いということに。
男の髪が夜よりも黒いということに。
男の目は金剛石のように暗く光っているということに。
―――その貌は、無残なほどに、うつくしいということに。
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