人 喰 い 乃 々 介


1.




 奈子の家には、人喰いがすんでいる。


「おはよーののっち!」
 奈子の家の朝は、奈子の大声から始まる。
「おはよーございます〜」
 二階から降りてくると、台所からは香ばしい味噌汁と玉子焼きの匂いが漂ってくる。奈子は階段の下に立ち止まって大きく息を吸い込む。台所のほうからは、玉子焼きが焼けるじゅうじゅうという音が聞こえてくる。
 ひょい、と台所を覗き込むと、そこには、背の高い痩せた男が、頭に三角巾、白い割烹着という姿で、玉子焼きを焼いていた。
 髪の毛は少しぼさぼさしていて、頬骨の出た痩せた顔がますます強調されて見える。垂れ眼に垂れ眉。なんだか気の弱い柴犬のような顔。奈子は手を伸ばし、小鉢に分けられていた小女子のつくだにをつまむ。
「お父さんとおねえちゃんは?」
「実子さんは帰ってこなかったんですよ。多朗さんはまだ寝てます」
「やだ、おねえちゃん、また朝帰り?」
「困りますよねえ、まだ高校生なのに……」
 困ったような顔になると、垂れ眉と垂れ眼が強調されて、ますます情けない表情になる。奈子はくすりと笑った。
「いいんじゃないの? 日曜日だし。あーあ、あたし、お腹すいたー」
「ああ、もう朝ごはんできてますよ。自分の分のごはんをついでください」
「うん」
 電気釜の中には、昨日の残りのご飯がある。自分の分しかつがない。彼はそもそもご飯を食べない。香ばしい味噌汁も、甘くて美味しい玉子焼きも、自分で食べることは無い。
 ―――彼は、乃々介は、人喰いなのだから。
「今日の味噌汁の具はなぁに?」
「きょうふの味噌汁です」
「……ナニ?」
「今日、麩の味噌汁です」
「つまんないよののっち」
 呆れたように言われ、あっはっは、と乃々介は笑った。つまらない冗句を言っては笑う。乃々介は、そんな人喰いだった。


 奈子が朝食をゆっくりと食べている間、乃々介は、梅昆布茶を飲みながらテレビを見る。そんな乃々介の姿を見ていた奈子は、ごくりと玉子焼きを飲み込んで、ふと、気づく。問いかけた。
「ののっち、今日はどっか行くの?」
 乃々介は、いつものような気楽な作務衣姿ではなく、渋栗色の着流しを来て、腰に帯を締めていた。そうですねえ、などと言うと、一口梅昆布茶を啜る。
「今日は古い知り合い二人に会いに行くんです」
「知り合いって誰?」
「んー…… 奈子さんは知らない人ですよ」
「ふうーん……」
 奈子は、ちょっと考えた。
 考えると、すぐに、口に玉子焼きを二つ放り込むと、急いで味噌汁を啜る。にわかに急いで朝食をかきこみはじめる奈子を、乃々介は驚いたように見た。
 あっという間に食べ終わると、奈子は、椅子を立ち上がり、「ちょっと待ってて!」と怒鳴ると、二階へと駆け上がっていった。乃々介が眼を丸くして二回を見上げていると、どたん、ばたん、などという音が聞こえ――― 間もなく、スカートにカットソー、ファーのついたデニム地のジャケットという姿になった奈子が駆け下りてくる。
「ど、どうしたんですかあ」
「ののっち! あたしも今日、ののっちについてく!」
「はぁ!?」
 奈子は、居間に放り出してあったカバンの中に、鉛筆やメモ帳などを放り込み、携帯電話の充電を確認する。乃々介は眼を白黒させた。
「ついてくるって…… ど、どうして」
「あたしねー今学校で家族について書けって言われてるの! 国語の授業!」
 奈子は、にっこりと振り返った。
「でも、お父さんやおねえちゃんについて書くのって普通じゃない? だから、ののっちについて書こうかなーって」
 奈子にとって、乃々介は、生まれたときからいっしょに暮らしている『家族』だ。
 しかし、学校の友人たちには、なんと説明したらいいのかが分からない。兄ではないし、父ではない。生まれたときから母がいない奈子にとっては、『母親』の立場にいると思うのが一番すんなりくるようだが、しかし、乃々介はどうみても男である。
「でも…… 困りますよぅ」
「なんでー? あたしには会わせたくないような知り合いなの?」
「……そうです。僕が多朗さんに叱られます」
「でも、あたし、もう12歳だもん。来年は中学生だもん。たいていのことじゃ驚かないよ」
「うー……」
 困りきった顔で、乃々介は、がりがりと頭を掻いた。だが、奈子はもう、完全に外出する用意になって、乃々介の動向をうかがっている。
「だいたい、ののっち方向音痴じゃない。一人でちゃんと目的地につけるの? 電車に乗るんじゃないの?」
「……昨日、多朗さんに地図を用意してもらいましたもん」
「どこで乗り換え?」
「とうきょうえき……」
 奈子は、冷静に言った。
「東京駅、広いよ?」
「ううううー……」
 

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