2.


 電車に乗って一時間ほど、たどりついたのは東京のはずれのほうにある知らない駅だった。駅のロータリーでタクシーを捕まえた乃々介は、「特殊指定生物保護センターへ」と行き先を告げる。
「へえ、めずらしいねえ、お客さん。研究者かい?」
 ぶるるん、とエンジンが鳴る。タクシーが走り出す。駅前にはそれでも背の低いビルが並んでいたが、すぐに、周りは背の低い民家ばかりの光景になる。
「いえ、知り合いに会いに行くんですよ」
「知り合いねえ。へえ、じゃあ、学者さんかい」
「そういうわけでもないんですけどねー」
 乃々介はなんとも微妙な調子で苦笑した。奈子は小首をかしげる。窓の外を眺めていると、やがて、タクシーは坂を登りだす。周囲は雑木林の光景へと変わっていく。
 大きな榎木で蝉が鳴いていた。まだ夏の初めだ。まだ色の薄い緑にそぐわない蝉の声は、いかにも間が抜けて感じられた。植え込みのつつじの鮮やかな赤や白。タクシーはやがて、大きな石の門扉をくぐって止まる。
 料金を払ってタクシーを降りると、そこにあるのは、大きな公園のような場所だった。
 石の門扉には、『特殊指定生物保護センター』と書かれていた。
 広々とした園内には、さまざまな種類の木が植えられ、向こうにはきれいな水をたたえた池も見えた。乃々介は入り口にほどちかいひとつの建物へと入り、呼び鈴を押す。
「すいませーん」
「ああ、はいはい」
 出てきたのは、初老の、温和そうな男だった。乃々介を見ると、「ああ」と親しげに頷く。
「乃々介さんかい。ひさしぶりだねえ」
「ええ。―――九爪丸はどうしてますか?」
「相変わらずだね。可哀想だけれど――― はて、そちらのお嬢ちゃんは?」
 奈子は慌てて頭を下げた。
「えと、井戸道奈子です。こんにちは」
「僕がお世話になってる井戸道先生のお嬢さんです。今日は社会科見学で付いてきたいって言い出して」
「へえ」
 男は目を丸くした。
「すいません、いいですか? ご迷惑だとは思うんですけど……」
「そうだねえ、まあ、いいんじゃないかなあ。あんまり奥まで見せてあげるわけには行かないけど、なかには奈子ちゃんと同い年くらいの子もうちにはいるし。よかったら、お茶でも飲んで、話を聞いていくといいよ」
「あのう…… ののっち、じゃなくて、乃々介と一緒にはいかれないんですか?」
 奈子がおずおずと聞くと、男は、困ったような顔をした。
「ううーん、それは、ちょっと……」
 乃々介は、おっとりと笑う。言い聞かせるように言った。
「奈子さん、僕は、昔馴染みと積もる話があるんですよ。奈子さんが一緒だと、退屈してしまいますからね」
「えー」
 奈子は頬を膨らませる。ごまかされているような気がする。とはいえ、乃々介が言うのだから仕方ないだろう。ため息をついた。
「……まあ、いいけどさー」
「ありがとうございます、奈子さん」
 乃々介は嬉しそうに笑うと、ぺこんと小さく頭を下げた。


 そもそも、『特殊指定生物』という言葉は、それほど古い歴史を持つものではない。
 戦前には、それでも、ある程度は存在を認識されていたというけれど、本格的に存在を意識されるようになったのは、高度経済成長期になって、公害が問題になるようになってからだ。山が崩され、川や海が汚染され始めたとき、はじめて、彼らの姿が意識された。
 通常の生物とは違う生理で生きる彼らは、けれど、生きる環境に依存しているという意味で、環境の破壊に非常に弱いものたちでもあった。
 清い水や、霊気に満ちた深い森。峻厳な山嶺。実際は、そういう場所だけが彼らの居場所ではない。中には人の間に交わって暮らしているものたちも多い。そういったものたちは、今では、人間と同じかそれ以上の保護を受けて、人の間に交わって暮らしている。
 『特殊指定生物』――― その名は新しく、耳に馴染みの無いものだ。

 より古い呼び方では、彼らは、『妖怪』や『もののけ』と呼ばれる。

「このセンターだと、数が減少している特殊指定生物の保護と育成、研究を行っているんですよ」
 センターの中を案内してくれながら、男は、そういう風に説明をしてくれる。
 建物の中ではなく、公園のような園内を歩きながら、あちらこちらにつけられたプレートや、檻などを見せてくれる。けれど、奈子の目の前には、実際に彼らが姿を見せることは無かった。見えるのは初夏の滴るように美しい緑と、まだ、どこかしら調子が外れて聞こえる春蝉の鳴き声ばかり。
「でも、ぜんぜんいないんですね」
「彼らは夜のものですからね――― この時間は、みんな、暗いところに身を隠してるんですよ」
 男は苦笑した。
「まあ、逆に夜になると、危なくて歩き回りにくくなるんですけどね。なんといっても、人間を驚かすのが生きがいみたいなのもたくさんいますから。所員の中には足をかじられたりした人もいますし」
「そんなのもいるんですか?」
「ええ、ノヅチとかね。まあ、あんまり悪気があるようなのは、そもそも、外にはいませんけれど」
 ぱしゃん、と背後で音がした。奈子は弾かれたように振り返った。
 背後にあるのは、睡蓮の葉を浮かせた、透き通った池だった。かなり広い。水面に波紋が広がっていた。何者かがこちらを伺っていたのだろう。
「河童ですね」と男は言った。
「か、かっぱ?」
「ええ。四万十川とか、今でも河童が普通に暮らしてるところも多いんですけど――― 汚染で故郷を追われて、一時的にここに避難してる河童もいるんです」
 男は少しだけ悲しそうに笑った。
「もともと、彼らは人懐っこいんですけどね。でも、環境破壊のせいで、人間に対して神経質になってるんです」
 奈子は、振り返り、水面を見つめた。睡蓮が薄黄色い花を咲かせていた。花はゆらゆらと揺れている。
「……ねえ、おじさん」
「はい?」
「ののっち…… 乃々介さんは、特殊指定生物なの?」
「ええ、そうですよ」
 男はあっさりと答えた。奈子は思わず考え込んでしまう。
 乃々介が、人間と違うと思ったことは無い――― 見て分かる違いといえば、ちいさな牙が生えているということくらい。けれど、それも、いつもひかえめに微笑んでいる口元に隠されていて、見えることはほとんどない。
「ののっち、人間とぜんぜん同じに見えるのに……」
「乃々介さんはね、爪と牙を削っているんです。角も定期的に切ってますね。人間と同じように見えるようにね」
 男の台詞に、奈子は、ぎょっとした。
「そうなの!?」
「ええ。……ご存じなかったんですか?」
 男は、ふたたび、ゆっくりと歩き出した。奈子は慌てて横を付いていく。
「そもそも、乃々介さんの登録は…… 人間で言うところの戸籍のようなものですけれど…… このセンターにあるんですよ。だから、ときどきセンターにきて、カウンセリングとチェックを行わなければいけないことになってるんです」
「じゃあ、今日の目的もそれなの?」
「いえ、今日はお友達に会うのが目的ですよ」
 お友達、と奈子はつぶやいた。男は、「また不味いことをいったかなあ」と苦笑する。
「僕はどうにも口が軽くて。……奈子さんは、乃々介さんから、どこまで話を聞いてるんです?」
「ううん、今日は古い知り合いに会うんだって、それだけ……」
「ああ、そうですかあ」
 男は、道を曲がり、建物の中に入った。ガラス張りの巨大な温室だった。中に入ると、独特の熱気が立ち込める。
 見上げるほどに高い樹木が聳え立ち、金属のキャットウォークが張り巡らされた温室。男が、ピピピィ、と口笛を鳴らす。すると、頭上で、ばさり、と大きな羽音がした。
 見上げると、何かが舞い降りてくる。奈子は思わず眼を瞬いた。
 それは、うつくしい極彩色の羽を持った、鳥。
 広げた翼には、孔雀の尾びれにあるような、目玉の形をした模様があった。尾は地面を掃くほどに長くつややかだった。けれど、奈子を驚かせたのは、そんなものではない。その鳥は――― 美しい少女の顔と、ささやかなふくらみの乳房を持ち合わせていたのだ。
「カリョウビンガですよ」
 男の腕に止まった鳥は、羽をたたむと、きょとんとした眼で奈子を見た。インド系とでもいうのだろうか。くっきりとした顔立ちとアーモンド形の瞳。そして、頭上で結われ、金の髪飾りを飾った髪。
「元はインドの特殊指定生物なんですが、ここでも繁殖させているんです。うつくしいから密漁されて、数が減っているんですね。……ほら、触ってみてください」
 男に促されて、奈子は、おっかなびっくり手を伸ばした。すべらかな頬に触れると、鳥は、心地よさそうに目を細めた。白目のほとんど無い、漆黒の、鳥類らしい目。
「数が減っているというのは、人喰いもそうなんですよ」
 男は独り言のように言った。奈子は、「え?」と声を漏らす。
「そうなの?」
「ええ。乃々介さんのほかには、全国を合わせても、もう、10人もいないでしょう―――」
 だって、そうでしょう、と男は言った。
「人喰いは、『人』を食べなければならないんですから」
 鳥は、男の頬に、甘えるように顔をすりよせる。鳥の喉を指でくすぐってやりながら、男は、奇妙な苦さの滲む口調で言った。
「たとえ人喰いを保護したくても――― 彼らは『人』を食べるんです。そんなことを許すことが出来るとお思いですか?」
「え……」
 奈子は、返事に詰まった。
 乃々介は、人食いだ。それは知っている。けれど――― 奈子は、乃々介が人を食べるところを見たことが無い。
 そもそも、乃々介は、いったい、何を食べて生きているのだろう?
「特殊指定生物のなかには、人に害を及ぼすものもいます。これはとても難しい問題です。彼らとて生きているんですからね。人に害を及ぼすというそれだけで、滅ぼすことが許されるというわけではない。けれど、人を『食べる』となると、話は別だ」

 人の命をみだりに奪うようなものを、許すわけには行かない―――

「じ、じゃあ、ののっちは、どうしてどこにも閉じ込められないで、あたしたちといっしょに暮らしてるの?」
「それは……」
 それは、と男は、困惑の表情で言った。
 
 それは。



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