玉の井の町には、東京の雑多な下町にあるようなものは、たいていある。小学校、交番、診療所から、八百屋、魚屋、コンビニまで。ただ、この町にはちょっとだけ他の町とは違うところもある。……大昔、いわゆる『赤線地帯』だった名残のせいか、風俗営業関係の店がやたらと多いのだ。
町を歩いていれば、まだネオンが無かった当時としては精一杯にハイカラだったんだろうタイルモザイクの鮮やかな店がたくさんあるし、『花柳界』の名を仮にも背負っていたせいだろう、柳や桜の木が、そこらじゅうの街角に植えられている。とはいっても、本当の風俗街である新宿あたりが近いせいもあるんだろう、いわゆる『直球』のお店はほとんどない。玉の井でお金を落として言ってくれるのは、たいていはそういったところで遊んで帰ってきたお兄さんたちや、派手な水商売だと逆に疲れてしまうといったお年頃のお父さんたちだ。ノビが通学路を歩いていく頭上にも、『バー』だの『スナック』だの、あるいは『クラブ』だのといった文字のおどった看板が並んでいる。夜になれば派手に点灯する看板も、今はおとなしく眠っているようだ。
「おはよ、ノビくん」
「あ、しず香ちゃん」
てくてくと歩いていると、ふいに、ぽん、と後ろからランドセルを叩かれた。振り返ると、ファーのついた可愛らしいコートの少女がにこにこと笑っている。茶色っぽい髪の二つお下げ、大きな目。級友の源しず香。
「なんか、入学式の前になって、いきなり寒くなっちゃったね」
「うん。……なんか、天気予報が雪って言ってたよ」
「嘘だあ」
しず香はけらけらと笑う。一見の『お嬢さん風』の容姿と違って、彼女はけっこう活発な子なのだ。
「新しい先生、誰かなあ」
「でも、どうせクラスのメンバーは同じでしょ。なんか代わり映えがしなくてつまんないよね」
はあ、としず香はわざとらしくため息をついてみせる。
「どうせだったら、あたらしい転校生とか来ないかなあ。六年間同じ顔ばっかりって、なんか、どっかの田舎の学校みたい」
「あはは、そうだね」
「本気で聞いてるのぉ?」
白い指を伸ばして、冗談のようにノビの頬をつねる。ノビは苦笑した。
「だってさ、今年もあたしでしょ、ノビくんでしょ、優でしょ、出来杉くんでしょ…… 何かこう、新しい出来事ってのがほしくならない?」
「平和が一番だと思うな、ぼく」
「……少年は荒野を目指すべきだとおもうよ」
キミは少年らしくない、とまたほっぺたをつねられる。あはは、と苦笑してまたノビは謝る。学校が近くなってきても、ランドセルの人影はあまり増えない。そもそも、ノビたちの通う玉の井第一小学校は、生徒の数がとても少ないのだ。
このあたりの土地にはまだ再開発の手も伸びない。古びた三階建ての建物や、雑居ビルの類が立ち並んでいる。彼らの学校はそんな古びた建物たちに埋もれていた。
それからもうちょっとばかり歩いていくと、やっと、ランドセル姿の子どもたちの姿が散見されるようになってくる。中には肌の色の違う子どもたちも珍しくない。このあたりで働いている外国人労働者、出稼ぎのホステスの子どもたちだ。けれど、そんな彼らも加えても、学校の生徒の人数は、総数で180人前後にすぎない。一学年に付き30人前後のクラスがひとつ。学校の部屋もあちこちが空になっている。
狭苦しい校庭の隅だと、毎年咲き遅れのしだれ桜が、きれいに花を咲かせていた。ちょうど入学式、始業式の時期にあわせてくれるから、この桜はけっこう評判がいい。寒風に吹かれて、ソメイヨシノよりも幾分濃い色の花びらがゆれている。その下で誰かがランドセルを放り出して鉄棒で遊んでいた。小柄な少年。誰かを見分けて、ノビは、にっこりと笑う。
「おはよー、ジャイアン!」
「うおっ? ……あ、ノビかー」
うっかり鉄棒から落ちそうになって、それから、なんとかくるりと戻ってくる。褐色の肌と、くっきりした二重のアーモンド・アイ。体格だと、たぶん、二つは学年を下に見ても可笑しくはないだろう。それでも彼も今年で五年生になる。剛田優。
「おはよ、優」
「……源か」
身軽に鉄棒から飛び降りた優は、じとっとした目でしず香を見た。
「お前、まだ俺との約束を守る気にはなんないのか」
「おーほほほ、なんのことかしらぁ、優ちゃん?」
「その名前で俺を呼ぶなぁ!」
優はランドセルを振り回して怒鳴る。しず香は笑いながら逃げていった。ぶう、と膨れた優の頭は、せいぜいがノビの耳の辺りまでしかない。剛田優…… 彼は、どこからどうみても、『小さい』少年だった。
苦笑しながら見送っているノビのほうにくるりと振り返る。彼は、じとっとした目でノビを見上げた。
「……お前はちゃんと分かってるだろうな、去年の約束」
「っていうか、公約?」
「コウヤク? ……と、とにかく、俺は今年こそ、決めたんだ!」
びしっ、と優はノビを指差した。
「名実共に、今年こそ、俺はジャイアントな男になるぜ!」
―――ジャイアントな男。見た目、誰よりもコンパクトな彼の、それは、口癖であり、ポリシーであった。
ゆえに『ジャイアン』。それこそ彼の魂の名前である。……ただし、実際にそう呼んでくれる人間は、現在のところ、ノビひとりしかいない。
「それに、俺、身長が去年よりも3cmも伸びたんだぜ!」
「あはは、すごいねー」
「その口調、ムカつく。ノビの癖にーっ」
優がランドセルを振り回して追いかけてくるから、ノビも笑いながら逃げ出した。コンクリートで舗装された校庭は狭く、子どもの足でもすぐに横断できてしまう。古ぼけた鉄筋コンクリートの校舎。ぱらぱらと登校してくる子どもたち。その上に、桜が散る。
何時もどおりの日々の始まりだと、そう、信じていた。
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