最盛期の半分以下に子どもの数が減ってしまった『玉の井第一小学校』の校内は、なんとなく、がらんとした印象がある。
 締め切られた教室が半分以上。特に、上のほうのフロアは、現在ではほとんど使用されていない。普通の小学校だとクラス変えだのなんだので一騒動あるところが、『一学年一クラス』のこの学校では起伏の起こりようがなかった。張り出された紙にしたがって二階の教室に入ると、何時もどおりの面子がそろっている。
 しず香は同じクラスの女の子たちへの挨拶、優は悪ガキどもとの騒ぎあい。そんな様を横目で見ながら、ノビは窓際の席の方に行く。そこにはおとなしく座っている色の白い少年が一人。
「おはよう、出来杉くん」
「ノビくん」
 おっとりと微笑む、少女のように白い顔。―――どこを見ているのか、なんとなく、焦点の合わない目。
「今日は悪い電波が聞こえるんだ」
「悪い?」
「うん。チリチリ、チリチリ。……すごく、よくない」
 よくない、と言いながらも、彼の唇はおっとりと微笑んでいる。顔かたちだけを見れば、たしかに彼は美しい少年だった。顔だけを見れば。
 どこも見ていないような薄茶色の目が、窓の外を見ている。窓の外には桜の枝。ひらひら、ひらひら、と薄紅の花びらが散る。
「何か悪いことがおこるの?」
 ノビが問いかけると、出来杉は振り返った。けれど、やっぱり彼の目は何も見ていない。何も見ないまま、ふわり、微笑む。
「……今日が、おしまいの日だよ」
「え?」
 それだけを言うと、がたん、と彼は立ち上がった。ノビの目の前でゆらゆらと歩いていく。うなじは赤い血液が流れているとは信じられないほど白かった。苦笑交じりに見送るノビの背中に、優が声をかけてくる。
「どうよ、今日の出来杉の電波占いは」
「えーっと、大凶?」
「げええ、サイアク。っつーか、ただの電波なんだから、大凶とか出すなよなー、ウチュージン」
「意地悪だよ、ジャイアン」
 優は毒づくが、その扱いにしたって、たぶん、クラスの中だとかなりマトモなほうだとノビは思う。出来杉英才。通称、"ウチュージン"。そのあだ名は、もっぱら、彼のまったくつかみ所のない言動による。ありていに言えば、彼は、『コミュニケーションが不可能』な類の人間だった。
 頭が悪いのかと言われてみれば、それはまったくの間違いで、授業などまったく聞いていないくせに、たいていの勉強は誰よりも良く出来る。それどころか、算数だの科学だのの領域だと、そもそもの知識量の並大抵じゃない水準に、教師のほうが逃げ出している節がある。並みの大人でも適わないほどの知力を持っているとすら噂されている彼だったが…… あいにく、人間的としてのスキルのほうは、さっぱりだった。
 話しかけて返事が帰ってくるのがまだいいほうで、それは『トモダチ』として認められている証。このクラスでも、まったくコミュニケーションの取れない相手のほうが多い。たぶん一番仲がいいのはぼくなんだろうなあ、とノビは複雑な気持ちで彼の出て行った先のドアを見た。真っ白な肌、か細い手足、色の薄すぎる目。そして、まるで少女人形のような、無機質に美しい顔。総体として、握り締めたらぱりぱりと砕けてしまいそうな、薄いガラスのフラジャイルな質感。去年の担任も彼にはすっかり頭を抱えていたようだったが、それでもノビは出来杉が嫌いではなかった。悪いことはしない人だもんね、と思う。
 でも、サイアクってなんだろう?
「お前、出来杉の電波占い、信じてんのか?」
「え? ああ…… うん」
「まあ、たまに当たっからなー」
 そう答える優は複雑な表情だ。ノビは、ふと、ちょっと意地悪く笑ってみる。
「……あのときの一万円、どうなった?」
 言われた優は、口いっぱいに正露丸でも詰め込まれたような顔になる。
「お前、サイアク! ノビの癖に生意気だぞっ!?」
「あはは」
 優は、以前、出来杉占いの『小吉』のその日、一万円を拾ったことがあるのだ。もっとも、それもすぐに母親に見つかって没収されてしまったから手元にはない。おそらくそれが『小吉』の『小』の由来なんだろう。だから優は半分出来杉の『占い』を信じている。……自分はどうだろう? ふと、ノビはそう思う。
 そのとき、ふと、つんつん、と服のすそを引っ張られた。
「ねー、授業、始まっちゃうよ」
 振り返ると、しず香だった。指差す先は教室のドアだ。
「あー」
「どうすんの、出来杉くん」
 にやにやと笑いながらこっちを見ている。何を期待しているのかは明らかだ。しず香は自分が授業に遅刻するようなことは絶対にしない。……はあ、とノビはため息をついた。
「しかたないなー」
「うふふー、ノビくんって優しくていい子。愛してるわよ」
「ありがと、しず香ちゃん」
 まるで母のスナックで働いているホステスのようなことを言われても、ちっとも嬉しくない。しかたなくノビは立ち上がった。窓ガラスが子どもたちの体温で少し曇っている。
「屋上じゃない? あそこ、『電波』がよく届くらしいから」
「今度は『大吉』の電波受信させてこい! 一億万円くらい拾えるくらいの!」
「はは……」
 拳を突き出してくる優に、ノビは苦笑するしかない。まあ、とにかく始業式の一日目くらい、授業を受けさせてやったほうがいいだろう。
 廊下に出ると、寒気が身に沁みた。春らしくも無い陽気だ。肌が粟立つ。ノビはぶるっと身を震わせた。
「ううっ、寒……」
 なんでこんな寒いのに外なんか行くのかなあ出来杉くん…… そんな風に思いながら、階段を上った。


 基本的には、屋上は、行ってはいけないことになっているはずの場所だ。いつも鍵だってかかっている。
 けれど、出来杉を探すと、いつだって屋上にいる。鍵はきちんとかけてある。そのはずなのに、だ。
 案の定、屋上へと続く踊り場へ行くと、南京錠が床に落ちていた。
『……どうやって開けてるんだろう?』
 現場を見ない限り謎だ。『電波占い』に続く、出来杉、第二の謎。とにかくも重たい金属のドアを開けると、びゅう、と寒風が吹き込んでくる。
「うう……」
 寒いのは苦手だ。なのに、なんでこんなところに来なきゃいけないんだろう。
 キミのせいだよ。
「出来杉くん?」
 緑色のフェンスのそばに立ち、出来杉は、透き通るような笑みを浮かべていた。
 自分で自分を抱くようにしながら、側まで歩いていく。傍らで見上げる出来杉はノビよりもいくぶん背が高い。髪は細くて、日に透かすとほとんど青に近い。膚は真冬のすりガラスの色だ。
「ねえ、授業が始まるから教室に戻らない?」
「……昔、原初の霧のなかで、宿命(フェイト)と運命(チャンス)が賽を振った。けれど、勝ったのはどちらであるか、誰も知らない」
「え?」
「どちらが勝ったのかは、誰も知らない」
 あっけにとられて見上げるノビの前で、出来杉は、なんともいえない不思議な表情を浮かべていた。笑っているようにも、泣いているようにも見える。それすらも透徹した目。透き通って意思のない目。
「時間というものは果たして存在しているんだろうか?」
「え、ええっと……」
「過去・現在・未来という流れは果たして現実なのか? 人間という生き物のなかでテロメアの消耗していく順番に『瞬間』を『記憶』という形でファイリングしたもの、それが時間に過ぎないんじゃないか?」
 相変わらず絶好調で電波を受信してるなあ、とノビは呆然とするしかない。
 とうとうと喋り続ける声はガラスの鈴のように透き通って綺麗だが、言っている内容はとにかく支離滅裂としかいいようがない。しばらくして気を取り直すと、ノビは、ガリガリと後頭部を掻いた。
 ―――出来杉が『電波』を受信し始めたら、基本的には、もう、ほうっておくしかない。
 いくら止めても無駄だ。スピーカーのプラグを抜いても、音楽そのものがストップするわけではないように、かりに口を塞いだって、『電波』は受信され続ける。そういうからには付き合うしかあるまい。ノビは五年生最初のホームルームをあきらめた。
「出来杉くんは時間は実在すると思うの?」
「不在のライターの証明。過去から現在へと移行し続けるライターは果たして存在するのか?」
「ううん…… ぼくにはよく分からないけど…… でも、確かに今日の前は『昨日』だったよね? だったら、時間は存在するんじゃないの?」
 その台詞の、どこがフックになったのか。
 出来杉が、とうとつに、振り返った。
 まじまじとノビを見下ろす。その目。透き通った目が――― 滅多にないことに――― ノビに、たしかに焦点を合わせていた。
 ガラス玉のような色の目。ノビは、背筋がわずかにぞくりとするのを感じる。
「物語の登場人物は、物語の外には出られない」
 風が吹いた。冷たい風。出来杉の、薄い色の前髪を吹き散らす。細く白い手がそれを押さえた。
「では、物語の登場人物には意思はないのか? 彼らがいかに力強く、また、意思に満ちているように見えても、彼らは運命の奴隷に過ぎないのか? だとしたら、ぼくたちもまた、運命の奴隷に過ぎないんじゃないのか?」
「……」
 怖いような目だ、と、ノビは思った。出来杉はつぶやいた。
「ほんとうは、今日は雪が降るはずだったんだ」
 ふいに、寒気を覚える。ノビは自分の身体を抱きしめた。
「ね、ねえ、出来杉くん…… 何がいいたいの……?」
 出来杉は、しばし、ノビを見下ろしていた。―――ふと、二人の間を、ふい、と桜の花びらが舞った。
 出来杉は目をそらす。その視線の先には、桜の老木があった。

「『So it goes.』」

 薄い色の唇が呟く。どこかで、聞いたことがあるような台詞。
「え……?」
 どういう意味なの。そう、聞き返そうとした。けれど。
 その瞬間だった。



 轟、と地面が揺れた。




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