10.
―――そして一刻。
授業も何も、もはや無かろう。信と耕太郎、そして猛の三人は、猛の家の居間に、三人揃って座らされている。
血まみれになってしまったセーラーを脱いで、猛は今は、Tシャツにハーフパンツ、そして、ニットの帽子といういでたちだ。私服でもどうやら帽子は必須らしい。それはともかく。
「とにかく、一日皆さん、ご苦労様でしたのう。うちのが迷惑をおかけして、すいませんですじゃ」
私服の猛が茶を配る。丁寧なことに、お茶請けには美味しそうな黄身しぐれが用意してあった。しかし手を付ける気にはどうしてもなれない。猛がお盆をおいて席に着いたのをみて、やっと、信が話を切り出した。
「で…… 結局のところ、どういうことなんですか?」
朝起きたら猛が女になっていた。
それを追いかけてきた溟牙も、気付いたら女になっていた。
……むちゃくちゃである。
「んー、それがのぉー、これがひとつの行き違いっつーか……」
これをみなされ、といって、重次郎は、ちいさな桐の箱を出した。
表書きには、読みにくい字体で、『鳳蓮丹』と書かれている。中を見るとからっぽだが、かすかに、何かいい匂いがした。
「ほうれんたん……?」
「なんじゃそりゃ」
「まあ、一言で言うと、性転換の薬じゃ。男を女に変えるのが『鳳蓮丹』で、女を男に変えるのが『龍蓮丹』と申す」
古代中国なぞで、政争などによく用いられた薬での、と重次郎は言った。
「といわれても、もっぱら使われていたのは『龍蓮丹』のほうでの。つまり側室なぞが女子を産んだとき、それを男子に返るために作り出された仙薬がコレじゃ。中途半端な性転換手術なんぞとちがって、これで変身すればばっちり男、子どもも作れるという完璧な代物でのー」
で、と重次郎は言う。
「その研究の副産物としてできたのが、こっちの『鳳蓮丹』での。こっちは男を女にかえる。とはいえ、あんまり用途が無い薬だったから、もう、何百年も忘れ去られとったんじゃ」
「それが、今回の結婚騒ぎになって、引っ張り出されてきたということですか……?」
地獄の底から響くような声で信が言うと、重次郎は、「ほっほっほ」と笑った。
「いやあー、もう古い薬じゃし、みんな忘れとるとおもっとったのよー。したらばなんとか溟牙殿には女子になっていただいて、そんで、猛の嫁御になってもらえば完璧ーとかおもっとったんじゃが……」
……しかし、双方女の夫婦というのは、双方男の夫婦と同じくらい、意味が無い。
「まさか先方もこれを知っとったとは。いやあ、偶然とは恐ろしいもんじゃー」
「いつ飲ませたんっすかあ?」
「昨日の晩。たぶん、しばらく効果が出なかったのは、やっぱり古かったからだったんじゃろうなぁ。それが猛の生気を吸ったことで体が活性化されて、いきなり効果が出た、ってところなんじゃろう」
バン、と信は両手で卓を叩いた。湯飲みが跳ねた。
「偶然ですまさないでくださいよッッ!!」
すくみ上がった重次郎へとつかつかと近づき、襟首を掴む信。がっくんがっくんと重次郎を揺さぶり始める。
「解毒法は!? どうやれば鳴神くんはもとの男に戻れるんですか!!」
「い…… いやあ、『龍蓮丹』と違って『鳳蓮丹』は使われたことが滅多にないから、解毒法とかそーゆーのも無くって…… はっはっは」
「はっはっは、じゃないでしょうが! これは鳴神くんの人生に関わる問題なんですよッ!?」
一人、ていねいにお茶を注いでいた猛は、ふと、こそこそと部屋を出て行こうとしている耕太郎に気付く。「どうした」と声をかけられた耕太郎は、びくっとそのまま停止した。
「い、いやあ、溟牙サンの病状はどうかなぁー心配だなぁーと思いましてェー? はは……」
猛は無表情のまま、ちいさく首をかしげた。
「寝ているだけだと思うが、危ないぞ。俺も行こうか」
「へ、へっへ! エンリョには及びませんで。うへ、うへへへへへ」
「構っちゃダメだよ鳴神くん」
冷たい信の声が、びしりとツッコミに入る。
「安藤くん、あの人を覗いたりしたら、あとでキュウリの干物になるまでエネルギーを吸われるよ!?」
「い、いやあー、美女に殺されるなら本望……」
「ほんとに?」
「ごめんなサイ、うそデス」
信は、重次郎の襟首を離さないまま、深い深いため息をついた。
あのあと、失神したままの溟牙は、この家に運び込まれて奥の座敷で寝ている。傍らを見ると、可憐極まりない少女の姿になってしまった猛は、きょとんとした顔でこちらを見ている。
筋肉隆々たるマッチョメン二人で子作り…… と聞いたときには、脳みそが耳から零れ落ちるかと思ったが。
美女と美少女の新婚夫婦で子作りというのは、問題が解決したどころか、ある意味では、さらに問題が増えてしまったといってもいいのではないだろうか。
『ああ、この家って、結局どうなっちゃうんだろう……』
「蓮室」
「は、はいッ!?」
声をかけられ、びくんと振り返ると、そこには、黒目がちな眼を瞬きながら、小首をかしげてこちらをのぞきこんでくる、小柄な美少女がいる。
「黄身しぐれは苦手か? からいものがいいのなら、草加せんべいもあるぞ」
「い、いや、ぜんぜん嫌いじゃないから!!」
あわてて件の菓子を口に詰め込むと、くすりと猛は笑った。愛らしいこと極まりない。不覚にも信は胸がキュンとするのを感じた。
「もう一杯、茶を入れよう」
「う、うん……」
ごくん、とむりやりに菓子を飲み下しながら、信は煩悶し出す。しはじめると止まらない。
『ちょっと待てぼく、あれは鳴神くんだ、あの『帝国軍人』の鳴神くんなんだ……!!』
しかし、肝心の『本人』が、となりで可愛らしくお茶を入れているのだから、仕方が無い。
あちらでは重次郎と耕太郎が、溟牙の寝ている部屋をのぞく算段を立てているし、猛は丁寧な手つきでお茶を入れ、それを、「はい」などと両手で差し出してくれる。
「あ、ありがとう」
「うむ」
無表情なのか、それとも、ただ、ぽーっとした感じの顔なのか……
可愛い、とにかく、可愛い。
日本人らしい奥二重も、肌が信じられないくらい綺麗なのも、お茶を差し出してくれる手が子どものように小さいのも、すべてが可愛くって仕方が無い。
嗚呼、相手は男、しかもあの筋骨隆々たる『鳴神猛』のはずなのに!
顔ではひきつった笑顔を浮かべながらも、信は内心で、おおいに頭を抱える。
『大丈夫か、ぼく!?』
……蓮室信の煩悶の日々は、こうして始まったのであった。
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