第二話

メイドさん、参る!



 1.

 ―――そのとき、教室には、尋常ではない緊張感が漂っていた。
 私立鶴岡学園高等部、一年弐組。時間ならば五時間目。今日もあとは次の授業だけで終わり、最後の時間ともなれば、いいかげんみんなダレてくる。そうでなくとも眠たくて気候のいい5月なのだ。みんながみんな、すでに半分睡眠状態で、睡眠学習にふけっている、という状況とてめずらしくはありまい。
 だが、教室には、まるで一本の細い糸がピンと張られたような、凄まじい緊張感が漂っているのである。
 男子校である。雑多な人種の集まる場所だ。小柄な、まだ子ども子どもした男子もいる。派手なニキビを咲かせた青少年もいれば、大柄でかなり年かさにみえる生徒もいる。つるつるしたきれいな頬の紅顔の美少年もいれば、すでにすね毛のむさくるしい『漢』もいる。
 しかし、皆の心は、視線の先は、ひとつだった。

 ……場違い極まりない、ひとりの少女へ、注目していた。

 窓際の席で、無造作にするりと臙脂色のスカーフをほどく。それは、セーラー服に不釣合いな学生帽をかぶった、幼げな面差しの、可憐な美少女だ。
 上履きを脱ぐ。小さな足。すらりと伸びた細い足は、ただ細い、というだけではなく、ふくらはぎの丸みや膝の小ささもあいまって、小鹿のように可憐な印象を与える。彼女は無造作にちかくのバックの中から体操着を出してくる。上半身、ふつうの上着だ。これはいい。だが、次の衣服が現れた瞬間、周囲に衝撃が走った。
 それは、臙脂色の…… 少し野暮ったい縫製の、短い、丸い印象の履き物だった。
 もっと端的に言うのなら、『ブルマ』であった。
 少女は無造作にセーラーの上着に手をかける。脱ぎはなつ。おおっ、という感嘆の声が誰からともなく漏れた。彼女が上着の下に着ていたのは、キャミソールであった。水色と白のしましまに、ごく控えめに、ふち飾りのレース。胸のふくらみはほんのささやかなものだが、ほっそりとした腰、ひらたい腹、そして、かぼそい肩が丸見えになった。鎖骨のささやかなくぼみが、また、なんともいえず扇情的であった。
 誰かがごくんと息を飲んだ。彼女はもそもそと上着を着る。胸には大きく、『鳴神』と書いた布が縫い付けられ、その横には『1の2』と書き添えてあった。
 すぐに帽子を手に取り、きゅっ、と頭にかぶる。これもまた古式ゆかしい『赤白帽』であった。
 期待はいやましに高まる。
 そしてとうとう、彼女はスカートのホックに手をかけ―――

「鳴神くんッ!!」

 その瞬間、バァン、と教室のドアが開け放たれる音が、緊張の糸をぶちきった。
「む?」
 少女は無表情に振り返る。教室の後ろのドア。そこには、一人の小柄な少年が、ぜーはーと息を乱しながら、立っていた。
「どうした、蓮室。はやく着替えねば授業に遅れてしまうぞ」
 可憐な声が、なんともいえず古風…… というよりも、時代遅れな口調で言う。スカートに手はかけたまま。少年はギロリと教室内を見回すと、そのまま、つかつかと少女に歩み寄り、両肩にぽんと手を置いた。
「む?」
「……鳴神くん、着替えるんだったら、保健室をつかえって、先生が」
「何故だ?」
「いいから!!」
 教室のそこここから、無意識の落胆の響きが漏れた。
 少年、蓮室信は、ギロリとクラス内を睨みつける。眼が血走っていた。髪は乱れていた。どう考えても尋常ではなかった。それが、まるでからくり人形の首だけがくるりと回るような不気味なスムーズさで振り返り、にっこりと笑うと…… 眼は笑っていなかった…… 少女の肩をぽんぽんと叩き、まだ机の上においてあったブルマをむりやり押し付ける。
「鳴神くん、さっさと保健室! じゃないと授業に遅刻するからッ!!」
「……うむ?」
 なにがなんだか分からない、といった様子で、大きな目をぱちくりと瞬く。
 真っ黒な、まるで、黒砂糖のように甘い眼だった。黒目がちで、どこかうるんだ感じで、それでいて、本人は自分の魅力にまるで無自覚なのだった。それは、『媚び』というものを一切含まない、いわば、パーフェクトな『ロリっ子』だった。
 男の保護本能と、狼の本能を同時に直撃する恐怖のまなざしだった。横から見ていた誰かが、ふいに、ガコンと派手な音を立てて転倒した。
「お、おい、近藤、近藤―――ッ!!」
「誰か! ロリ成分を中和しないと近藤が危ないっ! 誰かもってくるんだ! 大人のセクシーの補充をおおおおッ!!」
 鼻血を出し、妙に幸せそうな顔で昏倒している近藤某。その周囲にあつまって大騒ぎをする同志たち。なんということはない。ただのスケベ連合である。
 そちらを心配そうに見て、あわよくば声までかけてしまいそうな少女を、信は笑顔で青筋を立てたまま、無理やり教室から押し出した。ピシャンとドアを閉める。
 その瞬間、非難の声が、いっせいに集中した。
「なんてことをしてくれるんだ、蓮室ぉぉっ!!」
「ブルマだぞブルマ! ありえないだろういまどきッ! 生ロリータブルマ着替えを見物できる機会を、お前は、お前は……!!」
「オレたちがどれだけの思いでこの時間を待ち続けたかわからないのか!?」
 ドアを背にうつむいている信に、駆け寄ってきた一人の赤い髪の少年が、涙ながらに力説する。安藤・M・耕太郎。『涙ながら』は修辞表現かと思いきや、彼は、ほんとうに滂沱のごとく涙を流しているのだった。
「お前は見なかったのか蓮室…… あのバンビのごとくすらっとした細い足を…… 『無い』ということが限りない想像力の広がりと未来への可能性を秘めたあの胸を…… まるで小動物のように無邪気で可憐なあの瞳を……!!」
「……れよ」
 暗くうつむいた信、ぼそりと何かをつぶやく。しかし、耕太郎は気付かない。拳を握り締めて力説し続ける。
「しかもアレにプラスして、『ブルマ』だぞ!? 現在日本レッドデータブックに『絶滅危惧AI類』が報告されているッ! いわば生の『ブルマ』は絶滅したも同然…… それを現実に目撃するといういわば野生のニホンカワウソの可憐な姿を清流に見るがごとくの奇跡をお前はおぐぶぐわぁッ!?」
 言葉途中で、耕太郎は、まるで格闘マンガのごとくに身体をきりもみ回転させながら吹っ飛んでいく。後ろからそうだそうだとはやし立てていた少年たちも思わず黙る。そこにいたのはショタショタした少年ではなく…… 『鬼』であった。 
 信の目が、据わっていた。
 耕太郎を一撃の下に殴りとばした信は、さらにすかさず座り込むと、倒れた耕太郎の襟首を両手で掴んだ。そして、がっくんがっくんと前後に揺さぶり始める。
「冷静になれって言ってるんだよっ! アレが誰だかわかってるのかよっ、安藤くん!?」
 あれ。
 あの、可憐な少女である。
 信は青筋を立てて、ギリギリと耕太郎の衿を締める。耕太郎の顔が赤くなり、黄色くなる。
「分かる!? 鳴神猛16歳身長186cm体重81kg!! 入学時の身体測定だと握力背筋力腹筋すべて学年一位! それどころか校内でも屈指!!」
 耕太郎の顔が青くなってきた。
「その通称は『帝国軍人』! 夜な夜な鶴岡町に出没しては悪を成敗する謎の正義の仕置き人! つまりどこからどうみても鳴神くんは『男』なの! というよりも、『漢』なんだよ!!」
 耕太郎がぶくぶくとカニのように泡を吹き始める。しかし、信は気付かない。興奮のままにギリギリと首を絞め続ける。
「それにブルマを着せてナマ着替えをみて喜んでるなんて自分がどうかしてると思わないの!? あれは鳴神くんなんだよ!! 鳴神くんがブルマを履いてるところを想像してみなよっ!!」
 ……通称、『帝国軍人』で通る、『刀に生きる漢』のブルマ姿。
 みんな、それをとっさに想像した。
「そ、そうだよな…… あれは鳴神なんだよな……」
「いくら可愛くたって、ちっちゃくたって、元々がアレじゃあなぁ……」
「鳴神がブルマって、かなりヤバいよな。ってゆーか、視覚の暴力だよな……」
「太股とかも、筋肉がくっきり浮いてるだろうし」
 口々に言い合うクラスメイト。信はやっと安堵し、手を離す。耕太郎は死体のように倒れて後頭部を床にぶつけたが、まあ、いいとしておこう。
「よかった、みんな目が醒めて……」
 信は安堵し、ため息をついた。
 涙をぬぐい、立ち上がる。目が醒めたような顔で、お互いに目線を見合しあっているクラスメイトたちに、やっと安堵した。よかった、これでみんなちゃんとノーマルに戻った。
 だが。
「おい、蓮室?」
 その瞬間、がらりとクラスの後ろの戸が開いた。
 そこには…… 鳴神猛がいた。
 臙脂色のブルマから、すらりと伸びた、小鹿のような足。
「おおおおおッおおおッ!!!」
 倒れていたはずの耕太郎が、まるでゾンビのごとく起き上がった。鼻息が荒い。赤くなり黄色くなり青くなっていた顔色が、一気に、また赤く戻った。
「ブルマじゃー!! ナマのブルマじゃあああ!! ロリブルマ降臨じゃあああ!!」
「……たしかに、ブルマだが」
 猛は耕太郎の反応に、あきらかに面食らっていた。困惑の表情で自分のいでたちを見下ろす。ちょっと眉が寄る。黒目がちの眼が、どことなく困ったように、上目遣いで教室を見回した。本人が自覚していなくても、身長が150にもとどかない今の猛は、他の男子の前だと必然的に『上目遣い』にならざるをえないのだ。
「これのほかに服が無いのだから仕方あるまい。おい皆、早くしないと授業が始まってしまうぞ」
 それだけ言うと、猛は傘を持った。もうおなじみの例のカエルのついた傘だ。なぜ体育の授業にまで傘を携帯するのかは謎だった。
「先に行っているぞ」
 そういうと猛はくるりときびすを返し、教室を出て行った。
 皆の目に、臙脂色のブルマに包まれた、きゅっとあがった小さなお尻を、ばっちりと見せておいて。
「ロ、ロリっ子ブルマ様ぁぁぁ!! お待ちをー!!」
 絶叫するなり、いつのまにやら起き上がっていた耕太郎が、全力で走って教室を出て行く。何を釣られたのか、他の数人の男子もまるでケダモノのような雄たけびを上げながらあとに続いた。事実、授業がはじまるまであと少し。このままだと遅刻する、と他の男子たちも慌てて教室を出て行く。
 そして、荒れ果てた教室にぽつりと残されたのは、信一人。
 呆然と立ち尽くす信。そして、つぶやく。

「ど、どうしよう……」

 一週間も、たっていない。
 『帝国軍人』鳴神猛が、『無表情系ロリっ子』鳴神猛になってしまってから、まだ一週間もたっていないのだ。
 にもかかわらず、すでに、このどうしようもない惨状である。
 ―――早く手を打たないと、とんでもないことになる。
 立ち尽くす信のこめかみを、冷たい汗が伝う。その背中に次の時限のはじまりを告げるチャイムが、からーんころーんと呑気に響いた。




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