序章



「明けておくれ…… 開けておくれ!」
 どんどんどん、と扉をたたく音が響く。幼女はきょとんと目を見開いて、母の肩越しに扉を見つめる。吹き荒れる嵐の夜へと続く、古ぼけた木の扉を。
 村はずれの粗末な家だった。吹き荒れる嵐にゆすられて、ぎしぎしと音が響き、今にも崩れてしまいそうだ。閉じた窓の向こうの、夜色の嵐。いまにも消えてしまいそうな獣脂蝋燭の明かりだけがぼんやりと夜を照らし、テーブルの下にうずくまった母子を照らし出す。己の娘を硬く抱きしめ、震えている娘――― 母と呼ぶのが哀れなほど、幼く、あどけない娘を。
「娘や、帰って来るんだよ。今ならまだ間に合うよ。いっしょに帰ろう…… 帰ろう!」
 声は哀切な響きを帯びて、高くなっては、また、低くなった。嵐のわめき声と混ざり合い、渦を巻いて響く。娘は、耳をふさぐ代わりに、ただ、幼女を抱きしめて、泣き出しそうにつぶやいていた。つぶやきつづけていた。
「ごめんなさい…… ごめんなさい。ゆるして。おねがい、ゆるして」
「娘や、娘や!」
 幼女はきょとんと目を開き、母の肩…… つややかなブルネットの流れ落ちる肩越しに、扉のほうを見つめる。
 あれは誰だろう。こんな嵐の夜に。いったいどうしたというのだろう。なぜ母を呼んでいるのだろう。
 なぜ母は、返事をしないのだろう。
「おかぁ……さん?」
 おずおずと問いかける幼女を、娘は、ただ、ぎゅっと抱きしめた。押さえつけるように。
「返事をしちゃ、だめ」
 低い、けれど鋭い声。幼女は丸く目を見開く。
「お願い。お母さんと、約束をして」
「なぁに?」
「あなたは、決して……」
 幼女は、母の泣き出しそうな表情を、そして、そっと動く唇を、見つめていた。
「―――……」
 その母の言葉は、嵐の吼え猛る声にかき消されて、消されてしまう。
 けれど、幼女は覚えていた。その後の母の表情を。限りないほどに悲しい笑みも、うつくしい金色の瞳からこぼれおちた、一筋の涙も。

「……ねえ、わすれないで。お母さんとの約束よ」
「うん……」


 それはもう、10年も前の記憶だ。




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