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「起きるんだよ、『あかずきん』!!」
叫び声と同時に、ばしゃん、とつめたい水がぶちまけられる。その瞬間夢から覚めて、少女は一瞬、自分がどこにいるのかが分からなかった。
湿った藁。冷たい石の壁。こもった臭い。ここは。
「あ……」
「いつまで寝ているつもりだい、この怠け者。とっくのとうに、お天道様が上っているっていうのにさ」
いまだ何が起こったのかつかめず、呆然としている少女の上に、何かが投げつけられる。手桶。ガラン、という音が響き、少女は身をすくませた。
身をすくませながら見上げると、一人の女が、逆光を背に浴びて立っていた。硬くひっつめた茶色い髪。やせた頬。女は、呆然としている少女を見下ろすと、ふん、とひとつ鼻を鳴らした。
「ようやく目が覚めたみたいだね」
「……お、おはようございます、おばさま」
かすれた声でつぶやくと、いまさらのように、刺すような冷たさが身にしみた。びっしょりと濡れたスカートをかき寄せると、少女は立ち上がる。身体に張り付いていた藁がぽろぽろとはがれおちた。
「さっさと水を汲んで、薪を割るんだ。それと、豚の餌を運ぶんだよ! お前が怠けていたおかげで豚たちが腹を減らしているじゃないか」
「はい……」
「餌は抜きだよ。お前が怠けていたから悪いんだ。お前みたいな役立たずに餌を食わせておく余裕なんて、うちには無いんだからね」
はい、と少女が答えると、女はもうひとつ鼻を鳴らした。ようやく気が済んだのか、きびすを返す。木靴がコトコトと音を立て、女は馬小屋から出て行った。
しばし、呆然としていた少女だったが、やがて、寒さに耐えかねて、ぶるりと身体を奮わせる。それでようやく眼が覚めた。
丸い石を積み上げた馬小屋だった。積み上げられた藁の向こうには、馬房が並び、3匹の馬が、おっとりとした眼で少女を見ている。のろのろと動き出した少女は、顔にへばりついた泥を取ろうと、馬たちの水桶へと手を差し入れ、水を掬った。顔を洗った。
息をついて、見下ろすと、そこに写っているのは、まだせいぜいが13か14やその程度の、やせた少女の白い顔だ。
邪魔にならないようにざっくりと切られたざんばらの髪。漆黒の髪。それを包んでいるのは垢じみた古い頭巾。そして、顎の細いちいさな顔。痩せこけた顔のなかで、不釣合いなほどに大きな眼。
―――金色のかかった、不思議な茶色の瞳。
少女は、『黒い森』の傍らにある村のなかの一つ、とある農場の馬小屋に暮らしていた。
家の主人は少女の係累であったらしい。少女の父は、農場の持ち主の妻の弟であったらしい。少女は詳しくは知らなかった。ただ分かるのは、寝泊りする場所は馬小屋の片隅で、食べるものは農場から出る残飯の類。そして、日々、馬たちや豚たちのために水を汲み、餌を運び、藁を入れ替えること、ほかにもさまざまなことが自分の仕事であるということだけだった。
名前は無い。生まれたときには名前があったのかもしれないが、今ではそれを呼ぶ人もいない。代わりに農場の人々は、少女のことを、『あかずきん』と呼ぶ。
外に出ると、湿った服に風が沁みた。もう四月、けれど風は冷たい。今年の春はとても遅い。柳や樫の若葉も、奇妙に白っぽい若葉をつけるばかりだ。
少女があかぎれの出来た手に手桶を提げて歩いていくと、石造りの屋敷の傍らで、ひとりの娘とすれ違う。明るい茶色の髪を肩に下ろし、刺繍のエプロンをつけた娘だ。娘は少女の姿を見ると、「あら」と言って顔をしかめた。きれいな緑色の目。
「おはよう」
「お…… おはよう、ドロテア」
「『あかずきん』ったら、びしょぬれじゃない。どうしたの?」
ドロテアは、きれいな眉をしかめて少女を見る。少女は返事も出来ず、もじもじとつま先を寄せてうつむいた。くん、と鼻を動かすと、ドロテアはさらに顔をしかめる。
「あいかわらず臭いわね。……また母さんね。そうでしょう?」
はい、と返事をするわけにもいかず、少女はただうつむくしかできない。ドロテアは少女の下げた手桶を見る。
「そうね、今、仕事の途中よね? 先に水を汲んでらっしゃいよ。それが終わったら、私が何か食べるものを探してくるから。たしか、今朝は焦げてしまったパンがいくつかあったはずよ」
「……うん!」
少女はぱっと顔を輝かせる。やさしいドロテア。親切なドロテア。
「豚小屋のそばで待っててね。教会にパンを届けたら、すぐに行くわ」
「はい!」
少女はぴょこんと頭を下げた。ドロテアは少女に向けて少しだけ笑いかける。けれど、頭を撫でてはくれなかった。ずっと風呂に入っていない少女の身体は垢じみていてひどく臭うから。そしてそれは、少女の黒髪も、かぶっている古い頭巾も例外ではないからだ。
「じゃあね、『あかずきん』。また後でね」
それだけ言うと、ドロテアは、少女の傍らを通り過ぎていった。手にした籠から、焼きたてのパンのいい香りを振りまきながら。
少女はしばし、ぼうっとその後姿を見送っていた…… そして、唐突にわれに返ると、あわてて手桶を抱えなおして、井戸のほうへと歩いていった。
豚小屋と馬小屋の水飲み場をいっぱいにするためには、何度も井戸と小屋との間を往復しなければならなかった。それが終わると、今度は餌を運んでこなければいけない。柵を空けて豚たちを外に出し、ちかくの林でどんぐりを食べさせる。
杖を片手に、泥の道を歩いていくと、村人たちと何回もすれ違った。このあたりの民族衣装の刺繍が入ったスカート。けれど、誰も振り返ることはないし、少女のことを見もしない。当たり前だろう。彼女は、『いないこと』になっている人間なのだから。
農耕馬に堆肥の馬車を引かせた男や、鍬を担いで歩いていく親子。ハーブの籠を片手にした女。水がめをかかえた少女。
村には樫の樹と柳が多かった。そよぐ長い枝が水面にゆれて、茶色い水面に何羽もの鵞鳥が泳いでいる。石造りの農家。植えられている花。白い野菊やスミレの花。ちいさな花をつけた梨の樹。
豚たちを放すための林へと下っていく坂道の途中で、少女は、ふと、足を止めた。
眼前に広く広がっているのは、雲が複雑な陰影を描いた青い空。遠く川べりの風車。そして、その向こうに広がる『暗い森』だ。
―――この地は、『暗い森』に覆われている。
村から数マイルほど先で、広がる麦畑がとぎれ、牧場が木々に飲まれている。流れる川すら木々に飲み込まれ、その先は定かではない。高い坂の上から見下ろすと、森は、見渡す限りどこまでも遠くへと広がり、その果てを見ることは出来なかった。少女の見渡す視界の半ばは、ほとんど、黒々として見えるほどの濃い緑に占領されている。
足を踏み入れたことは無論無い。『暗い森』は人間たちにとって奈落、足を踏み入れることの出来ない煉獄に等しい。
木々は複雑に枝を絡ませ、地面に盛り上がった根の間には茨が茂る。濡れ濡れと奇妙な色をした茸や毒花。そして、獣たち。
『暗い森』の中には、千年の時を経た木々すら茂るという。夏には黒いほどの濃い緑に染まり、秋には金や茜、紫の枝葉をきらめかせる美しい樹海だ。だが、そこに足を踏み入れるものはいない。『暗い森』は人間の足を拒む魔物たちの領域だから。人を惑わす妖精や魔物、物を言う獣たちや、魔女たちが住まう場所であると伝えられているから。
『暗い森』は、人間たちにとっては親しい場所である普通の森とはまったく別の存在だ。普通の森のなかには街道が通り、ときには木の実や茸を採るために足を踏み入れることもあるし、木材を得るために樵たちが住まいすらする。だが、『暗い森』は違う。『暗い森』のなかに住むのは、人の律からはみ出てしまった者たち…… 魔女や妖術師たちだけだ。
あんなにきれいな森なのにな、と少女はぼんやりと思った。森から吹いてくるかすかな風が、垢じみた頭巾のリボンをかすかになびかせる。
豚たちに食べさせるどんぐりを集めるのは、じつは、それほど簡単なことではない。樫の林は村の共有地だが、熟したどんぐりのある樹は、先にほかの牧童たちに取られてしまう。未熟などんぐりを落とすと怒られるから、少女は、毎日一生懸命樹に登り、上のほうのどんぐりを叩き落さなければいけない。
遠くから見ても、『暗い森』には、何百年もの樹齢を経たと一目で分かる立派な樫の樹が、枝を伸ばしているのが分かった。あの下にはさぞ太ったどんぐりがたくさん落ちていることだろう。そして、そのどんぐりは無意味に栗鼠や野鼠の餌になる。―――それを豚の餌に出来れば良いのに。
「チビちゃん?」
ふと、後ろから声を掛けられて、少女は思わず飛び上がった。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい!!」
とっさに頭を抱えてうずくまる。誰だろう。叩かれる。そう思って震え出す少女に、「おいおい」とあきれたような声がした。
「俺だよ。そんなに怖がらなくたっていいだろ?」
「え……?」
おそるおそる振り返る。―――そこに立っていたのは、革のブーツを履いた、若い男だ。
こげ茶色の髪と、青灰の瞳。人好きのする日焼けした顔立ち。長身の、年のころなら17・8歳ほどの。
「カスパールさん……」
「ひさしぶり」
青年、カスパールはにこりと笑うと、手を貸して少女を立ち上がらせてくれた。そして、膝についた泥をぱんぱんと払ってくれる。
周りについてきた豚が、カスパールのほうへと鼻をよせて、ぶうぶうと鳴く。少女の身長はせいぜいがカスパールの胸の当たりまでしかない。少女は目を丸くしてカスパールを見上げる。
「あ、あの、いつ帰ってきたんですか?」
「ついさっき。ひさしぶりに休暇がもらえたものだから。……ああ、相変わらずやせてるなあ……」
少し痛ましそうに眼を細めると、カスパールは少女の頭を撫でた。垢じみた頭巾越しの髪を。どうしたらいいのか分からずに、少女はもじもじと視線を落とす。
言われたとおり、すこし眼をやると、載ってきたのだろう荷物を載せた馬が、ちかくの木の下にたたずんでいた。見事な栗毛だ。カスパールの姿を見て、傍らを通る村人たちがびっくりしたような顔をしていく。中にはいかにも話しかけたそうに立ち止まる娘もいるが、近くに少女が入るのを見てためらっている様子だった。無論、カスパールには気づいた様子も無い。
……カスパールは、この村の村長の家の、三番目の息子だった。
幼いころから聡明で、かつ、身体も強かったカスパール。そんなカスパールが、騎士見習いとして王国に使えることになり、村を離れたのは3年前のことだった。それ以来、カスパールはこの村の誇りだ。なにせ、『暗い森』に程近い、こんな辺境の村から、『王国騎士』の候補が選び出されるなど、誰も思わなかったほどの栄誉だったからだ。
「どうしたの? どこに行くんだい」
「その、豚に餌を……」
「そうか、樫の林に行くところだったんだ」
カスパールは周りを見る。少女の手にした杖や、泥だらけの素足。そして、周囲でぶうぶうと鳴声を立てている何匹もの豚。
「ついでだし、俺も行こうか?」
「え、えっ?」
「君だと小さくて大変だろう。今年は実の熟し方が悪い」
少女は、少しハッとして、カスパールの顔を見上げた。わずかに苦しそうな表情。おずおずと、少女は、問いかけた。
「あの、今日村に帰ってきたのって、もしかして……」
「カスパール、カスパール!!」
言いかけた少女の声をさえぎって、誰かの明るい声がした。
二人は眼を上げる。誰かが坂を駆け下ってくる。明るい茶色の巻き毛。刺繍をしたエプロン。カスパールは、驚いたような顔で、「ドロテア」とつぶやいた。
転げるように走ってきたドロテアは、そのまま、飛びつくようにしてカスパールに抱きついた。カスパールはよろめいて倒れそうになる。びっくりした顔のままの彼の顔に、なおもドロテアは、「カスパール、カスパール!!」と歓声を上げた。
「いやだ、ひさしぶりじゃないの! いつの間に帰ってきたの? もう、どうして教えてくれなかったのよ!!」
「ど、ドロテア、重いよ」
頬をこすりつけるような勢いで抱きついてくるドロテアに、カスパールは、やや、圧倒されたような様子で苦笑する。手でやんわりと押しのけられて、ひとまずドロテアは腕を解いた。そんな二人の様子に、少女はそっと身を引いた。
「ずっと会いたかったのに、連絡ひとつくれないんだから。寂しかったのよ、私…… ああ、でも、ちょっとたくましくなったみたい。ね、顔をみせてカスパール。ずいぶん久しぶりなんだもの」
「去年の聖クラリスの日以来だったかな」
ドロテアの言葉に答えずに、カスパールはさりげなく身を引く。ドロテアは一瞬不満そうな顔をしたが、けれど、すぐに満面の笑顔に戻った。
「ね、これから村長様の家に帰るの? 私もちょうど、パンを届けるところだったの。よかったらいっしょに行きましょうよ」
「いや、俺は……」
カスパールは、ちらりと少女を見た。
その視線で初めて少女に気づいたようで、「あら」とドロテアは言う。少し距離を置いて、黙っている少女に、「なんで『あかずきん』がここにいるの?」と言った。
「わ、わたし、豚にどんぐりを……」
「そうなの? さっき、あなたにパンをあげようと思って豚小屋に行ったら、いなかったんだもの。焦げてたパンだったから、もう、捨てちゃったわよ」
ドロテアは口を尖らせるが、少女は何も言わず、あいまいな笑みを浮かべただけだった。仕事がたくさん申し付けられていたのだ。いつくるかわからないドロテアを待っている暇などあるはずが無い。けれど、今でもひどく空腹だったから、パンのことを考えただけで、音を立てて腹が鳴った。
「君、何も食べてないのか?」
カスパールが、少し眉をしかめた。
「今日、この子が寝坊したから、母さんが怒っちゃったのよ」
「……」
あたりまえのように言うドロテアに、カスパールは何かを言いかけ、けれど、口をつぐんだ。代わりに近くに止めてあった馬のほうへと行く。何かを取り出してきた。そして、きょとんとしている少女に、なにかの包みを手渡す。
「君、これ、ただの保存食だけど…… よければ食べて」
手渡されたのは、ちいさな麻の包み。中に入っているのは香草の入った平パンと、硬いチーズだった。少女は思わず顔を輝かせた。
「あ、ありがとうございます!」
「うん。あと、これ……」
少し不満そうに眉をしかめているドロテアには、おそらく、気づいていないのだろう。カスパールは懐に手を入れると何かを取り出す。それは、細い皮ひもの先端に結ばれた銀の鈴だった。チリン、と澄んだ音をさせるのに、少女は思わず目を丸くした。
「『暗い森』のそばを通ったから、お守り代わりにもらってきたんだ。もう必要ないから君にあげる」
「ほ、ほんと……?」
「うん。君は森のそばに行くことが多いからね」
青灰色の眼を細めてにこりと笑うと、カスパールは、少女の手の上に鈴を渡した。
「カスパール、行くんでしょ? 早くしましょうよ。村長様が待ってるわ」
ドロテアが、やや、いらだったような声で言う。名残惜しそうに振り返ると、カスパールは、最後にひとつ、少女の頭をぽんと叩いた。
「じゃあな、チビちゃん」
そうして、カスパールは近くの木の下に立たせていた馬の轡を取る。当然のように手を貸して、ドロテアを馬の上に上らせた。横座りに腰掛けたドロテアは、気取ったしぐさで刺繍のエプロンを直す。そして、ちらりと少女を一瞥する―――
二人がそのまま道を歩いていくのを、少女は、ぼんやりと見送っていた。
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