22



 朝焼けが空をばら色にそめるころ、老神父はひとり驢馬に乗り、村はずれの丘を登った。
 教会は今では怪我をした人々のために明け渡され、老神父の居場所はそこにはない。素朴な丸硝子のステンドグラス、質朴な木のベンチ、緑青をふいた銅の鐘。だが、彼が人生の長くを過ごしたその場所も、今では彼を安らがせてくれる場所ではなくなっていた。あそこは神に祈るための場所ではない。
 丘を登ると、そこには丈長く草々のなびく原野が広がり、野生のヒースやローズマリーの潅木だけが茂っている。村はずれと村の外とを隔てるものは一本の糸杉の木。村境を守る死者の木のみだ。
 空は水色と白、黄金とばら色が混じりあい、今日はすばらしい晴天がひろがるということを示していた。けれども、神父はその朝焼けを振り返ることすらなく、やせた体で驢馬を急がせた。
 もう、この村にはいられない。秘密は彼には重すぎた。老神父は自分は善良のほかにとりえのない人間だということを自覚していた。だが、今ではその善良さすら自分を責める。
 石の転がった道を、急ぎ足で登り――― 村境の糸杉まで、あとほんのすこしというところで。
 ふいに。
「……ひっ!」
 手綱を強く引かれた驢馬が、抗議するようにいなないた。老神父は凍りついた。
 村はずれの糸杉の向こう、丘のむこうに広がる原野が一望される。……その原野に、黒い影が、点在している。
 オオオン、と声が響いた。
 それは、狼だった。
 灰色の背、毛皮を持った狼たちが、高く伸びた草の間から、村の方角を見ていた。
 若い狼たちだった。灰色狼たち。ゆれるヒースの影に見え隠れしながら、じっと、村のほうを見つめていたのが…… 老神父に気づいた。
 老神父はあやうく声を上げかけた。そのときだった。
「お静かに、神父様」
 ふいに、声が、した。
 老神父は凍りついた。糸杉の陰から、ゆっくりと誰かが現れる。若木のようにまっすぐなたたずまい。暗い茶色の髪を背中でひとつに束ねた…… 痩身の若者……
「か」
 老神父はおののいた。
「カスパール」
 カスパールは青灰色の眼で老神父を見た。そして、村境の向こうを見る。ヒースの間にたたずむ狼たちを。
「怖がらなくてもいい」
 カスパールはしずかに言った。
「じきに、去ります」
 老神父はやせた胸をあえがせた。驢馬は不安げにカスパールのほうを見ていた。そしてしばらくの時間が沈黙の中に過ぎた。
 狼たちの一匹が、ふいに、動いた。
 きびすを返した一匹がゆっくりと歩き始めると、ほかの狼たちもそれに続いた。5・6匹はいるだろうか。彼らはヒースの藪の間をとおりすぎて、ゆっくりと歩いていく。やがて、その灰色の背中は、遠く暗い森の影のほうへと去っていった。
 老神父は、地面にへたへたと座り込んだ。
「ああ…… 神よ」
 呆然とつぶやき、十字を切る。そんな神父のかたわらにやってきて、カスパールがたすけ起こしてくれた。
「大丈夫ですか、神父様」
「カスパール、なぜここに?」
 カスパールはかすかに苦く笑った。
「考え事をしていたんです」
 村境は、村から歩いて数十分ほども離れているだろう。
 人気が少なく、土がやせていて作物も育たないから、ほとんど村人たちが近づかない場所だ。なぜそこにカスパールが? もしや村を出ようとしていたのか、という思いがひやりと背中に触れた。だが、それにしては馬も荷もない。
「神父様はなぜここに?」
「わたしは……」
 カスパールはしずかに言った。
「あなたは、村をお棄てになるおつもりだったのですか」
 神父は、はじかれたように振り返り、カスパールの顔をまじまじと見つめた。
 ほんの幼い子供の頃からしっていたはずの顔だ。幼い頃のカスパールは、顔立ちはまるで少女のように愛らしく、心持も優しすぎて臆病な子だった。だが、今はどうだろう。顔立ちだけは端正なまま育ったカスパールの面差しには、大理石のように侵しがたい硬いものが浮かんでいる。
「む、村を棄てるなど、そんな、おそろしい」
「では、なぜ荷をまとめていらっしゃるのです? こんな人目につかない時間に、村を出ようなどされるのです。それに」
 今村を出るのは危険です、とカスパールはつぶやいた。
「村の周りを、狼たちがうろついているんだ」
「……!」
「村中を歩き回って確かめました。家畜たちは怯えているし、村境のすぐそばにまで狼の足跡が残っていた。さいわい人狼はいなかったらしいが……」
 神よ、と神父はふたたび十字を切った。手は震えていた。
「なぜ、なぜこんなことに」
 ―――村人たちが何人も狼の犠牲になった。
 いや、村の中に人狼が現れ、ドロテアが襲われた時点で、すでに分かっていたはずだ。契約はすでに15年を経過し、鍵のひとつである『血』は村から失われた。もはや契約は風前の灯に等しい。彼らを見くびり、さげすんだ人間たちを、森の住人たちはけして許しはしないだろう。
「俺は村を出るつもりです」
 カスパールはしずかに言った。
「これだけ狼が増えてしまったら、もはや村だけの力では対処しきれない。騎士団に助けを求め、討伐隊を派遣してもらわなければ」
「いけない!」
 老神父は、悲鳴を上げた。
 それは、もっとも恐れていた事態。老神父はカスパールの服のすそにすがりつく。
「大丈夫です。この村は安全だ。狼たちは村境を越えない。だから、どうか、騎士団へ訴えることだけは……」
「父も、あなたも」
 カスパールは苦々しくつぶやいた。
「意味が分からない。なぜ村が安全だと断言できるんです? ……見てください!」
 カスパールは、糸杉の幹を指した。老神父は一瞬息を止めた。そこには、狼の爪あとが、生々しく刻まれている。
「彼らはいまにも境界を侵犯しようとしているんだ。それに、ドロテアは村の中で人狼に襲われた……」
「あれはただの事故です! 二度とあんなことは起こらないはずだ!」
「なぜ断言できるのです?」
 たっぷりと間を持たせて、カスパールは、言った。

「『狼避けのまじない』のおかげですか?」

 今度こそ、正真正銘、神父は言葉を失った。
 何度も息を呑み、混乱した頭に言葉を捜す。そして、やっとの思いで言葉をしぼりだした。
「なぜ…… それを……」
「そんなものは、教会の教義の中にはありません。たとえ教会の法術士であっても、十数年も森を防ぎ続けるような術は使えない。もしも存在するとしたら、それは、……異端のなせる業です」
 カスパールはひたと神父を見据えた。瞳は冬の空のような澄んだ青灰色だった。
「こうなれば、教会に異端審問の訴えを……」
「や、やめてくれ!!」
 老神父は絶叫した。
 異端審問。それは、正教の教えに反し、異端のものと契約したものたちを審問する特別な機関だ。
 あまねくこの大陸を覆う正教の教えは、けっして異端に組したものを許さない。ましてや異端の技を十数年も見過ごしてきたとなれば、その罪はいかほどのものか。間違いなく殺されてしまうだろう。それも、やすらかな死など望むべくもない苦痛と拷問の連続の末、神の救いの手が届かない地獄の淵へと投げ捨てられるという恐ろしい最期だ。
 がたがたと震え始める老神父を、カスパールは、しずかに見つめた。
「この村には秘密があるのですね? 狼を避ける、何か、特別な秘密が」
 老神父はがくりと地面にひざをついた。地面に額をこすりつけるようにして、「お願いだ」と懇願する。
「見逃してくれ、カスパール。わたしはお前が生まれたときに洗礼を授けたんだ。お前に文字も教えてやった。どうかそんな無慈悲なことはしないでくれ」
 老神父は涙ながらに懇願した。だが、カスパールは、まるで、大理石の彫像のようにゆるがない。
「秘密とはなんです?」
「おねがいだ……」
「もしも教えてくれるのなら、騎士団への訴えは取り下げます」
 老神父は、弾かれたように顔を上げた。カスパールの表情がわずかに曇っていた。彼は老神父の前にひざまずき、体を起こさせる。
「俺だって、故郷の村を滅ぼすようなまねはしたくありません。あなたや父を訴えるのもいやだ。……ただ、知りたいだけなんです」
 狼を退け続けた『契約』の正体を。
「もしも教えてくれたのなら、あなたをこのまま隣村へお送りします。村の皆や父には、あなたが体を壊して修道会へと世話になりに行ったと説明します。無論、秘密は誰にもけして漏らしません」
「カスパール……」
「教えてください。この村の『契約』には、夜髪さんやヴォルフの死もかかわりあっているのでしょう? 俺はただ……」
 知りたいだけなんです、とカスパールは言った。
 老神父は、しばし、まじまじとその目を見つめ…… やがて、力尽きて、がくりとうなだれた。
「わかりました」
 手を伸ばし、胸の聖印を握り締める。すがるように。
「わたしが知っている限り、すべてをお話しましょう」
「はい」
 カスパールは頷いた。老神父は秘密を暴く罪悪感を必死でこらえながら、自らに言い訳をした。何度も何度も。
 
 ……こうなることは、15年も昔に、すでに定まってしまっていたのだ、と。






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