21



 ―――村に帰り着くことのできなかった男は、6人だった。

「あんた、あんたっ!」
「お父さん!」
 悄然とうなだれた男たちが村に帰り、取り戻すことのできた遺骸を教会前の広場に下ろすと、広場は、女たち、子供たちの悲嘆に満たされる。
 狼に食い殺されたフランツの、血まみれの遺骸に取りすがって、フランツの妻が絶叫のように泣き出した。ここまで兄の死骸を背負ってきたブルーノは、兄の血にまみれた顔で、表情もなく地面に座り込んでいた。そして、そんな悲劇はひとつきりではなかった。
「ねえ、あたしのあの人はどうしたんだい? 一緒じゃなかったのかい?」
 ひとりの農婦が、立ち尽くすカスパールの腕にすがりつく。カスパールは答えに詰まった。その男は狼に追われて森の中に入り込んでいったきり行方が知れなかった。その後どうなったのかも分からない。狼に追われるようにして逃げ出してきたのだから、探しにいくことすらできなかったのだ。
 折れた足で仲間に担がれてきた男。血まみれの顔の男。腕を齧られた男。帰ることができた男たちも無事ばかりではなかった。誰もが仲間の血と泥にまみれ、疲れ果てていた。
 なぜこんなことになってしまったのか――― カスパールは、すがりつく女を必死でなだめながら、頭の中でその言葉ばかりがめぐるのを感じる。
 そして、ぼんやりと眼をあけたカスパールは、見た。息子の死体に取りすがって、髪を振り乱して泣いている女。エンマ・ヘイズ。ドロテアとブルーノの母親。
「ちくしょう! あの魔女のせいだよ。みんなあの女のせいだ!!」
 女は吼えるように叫んだ。眼が血走って真っ赤だった。その眼から、泥だらけの頬に、二筋の涙が流れ落ちていた。
「あの魔女の娘がいけないんだよ! ……弟だけじゃない、あたしの子供たちまで!」
 魔女とは誰のことだ? カスパールは疲労で霞がかかった頭の中でぼんやりと思う。あまりにたくさんのことがありすぎた。頭の中で整理しきることができない。
 途中までは上手くいっていた。狼たちを追い詰め、ドロウの村跡の穴へと追い込んで、あとは毒で燻し出すだけだというところまで来ていた。それが覆ったのはあの狼が――― 漆黒の人狼が現れてからだ。
 漆黒の、牛のような体躯。長い尾。そして爛々と燃える黄金の瞳。
 鉄の矢では傷つくことすらなく、人狼を傷つけることができたのは、カスパールの銀の剣、そして、フランツの放った銀の矢のみだった。伝承どおりだった。人狼は狡猾な魔物。狼を操り、銀以外のもので傷つくことがなく、そして、この上もなく恐ろしい。
 これで証明された、とカスパールの中のどこかが苦く笑った。
 カスパールは間違ってはいなかった。人狼はたしかにいたのだ。ドロテアを襲い、フランツや男たちを殺した。
 この手には確かに手ごたえがあった。上手くすれば仕留めることもできていたかもしれなかった。けれども、それがなんの慰めになるだろう? 人狼一匹でこの様だ。そして、この森に住んでいる人狼は、あれ一匹だとは限らない。
 カスパールはそんな苦い後悔を胸に噛みながら、悲哀に沈む村の広場を見回す。……そして、ふいに、奇妙なことに思い当たる。
 なぜ、ここには、無傷のものと、傷ついたものが存在しているのだろう?
 たとえば、赤毛のイェンス。やぶにらみのアドルフ。そして、吠えるように泣いているブルーノ。
 彼らが無事だったのはただの偶然…… そうだろうか?
 イェンスは狼に追われ、森の中へと入っていった。共に逃げ出していったヴァルターは片耳を食いちぎられて血まみれだった。だが、イェンスは無傷だ。木の枝や岩に傷つけられたほかは、疲れ果てている様子はあっても、傷ひとつない。
 狼たちの群れに立ち向かったアドルフ。そして、あの人狼と対峙したブルーノ。彼らも無傷だった。狼たちが、まるで、彼らのことを避けていったかのように。
 なぜだ?
 なぜ、彼らは、無事だった。……殺されたものと、傷ひとつ負うことのなかったもの。二つの差はどこにあるのだ?
 そのとき、ふいに、声が響いた。
「なにをやっている!」
 低く、強い、男の声。カスパールは、村人たちは顔を上げた。そこに立っているのは壮年の男だった。顔を厳しく引き締めて、杖を片手に、村人たちを見下ろしている。
「そこで泣いている場合か! はやく怪我人たちを教会に運び込め! 湯を沸かし、薬湯と包帯を用意するのだ!」
 村長。カスパールの父。
 息子フランツの遺骸に取りすがって泣いていた女…… エンマ・ヘイズが、ふいに顔をあげた。村長を見上げ、睨み付ける。瞬間、強く顎がかみ締められるのをカスパールは見た。
 立ち上がったエンマは、何かを叫ぼうとした。だが、声が出るよりも早く、村長の手がひらめいた。
 大きな音を立てて、エンマの頬を平手で打った。
「なっ……!」
 エンマはよろめき倒れた。呆然と村長を見上げた。村人たちの表情に驚愕と動揺の色が走る。押さえつけるように村長は怒鳴る。
「何をぐずぐずしている! 狼に噛まれた傷から毒が入って死ぬものもいるのだぞ!?」
 その声が、冷水をぶちまけたように、村人たちを正気に返した。
 女たちがおろおろと立ち上がる。何人かがスカートをからげて走り出す。誰かがわれに帰ったように叫び、誰かがそれに答えて怒鳴った。にわかに村の広場が騒がしくなる。
 カスパールは父を見た。
 ―――何かの痛みをこらえるような、何かを必死で耐えるような表情で、硬く唇をかみ締めていた。


 教会の鐘楼の向こうに、まだら雲に血をにじませるようにして、夕日が沈んでいった。
 そして。

 ……ひとびとの間だと、ひそひそと、不安の声がささやき交わされ始める。
 ドロウの村跡に、人狼があらわれたということ。
 人狼はとほうもなく大きく、矢を射掛けても傷つけることすらかなわなかったということ。あわれなフランツを一噛みで殺し、強弓をたやすく噛み砕いたということ。
 瞳は地獄の熾のように燃え、体は天を覆うほどに大きい。恐ろしい地獄の魔物。人の身にはあまりに恐ろしい、森の闇が化身したような化け物。
 狼たちは、はたして復讐するだろうか? それが人々の不安だった。
 村人たちは何匹かの狼を屠った。仲間を殺した人間たちを、人狼は許すだろうか。復讐に現れるのではないか。そうしたら、どうすればいい。……どうすればいい?
 カスパールは、両手に手桶をかかえて、教会を出た。
 教会のなかでは、集められた男たちが手当てを受けていた。教会前の広場ではさかんに湯が沸かされ、集められた薬草を煎じる臭いが濃い。
 カスパールだけではなく、無事だった男たちは、傷ついたものたちの手当てや弔いに追われていた。
 人狼に殺されたものは、神の御許を迷い出て、亡者としてさまようこととなるという……そんな迷信がある。だから、狼に殺されたものは、狼封じの銀のトルクを嵌めて、棺の上に石を積んで葬らなければいけない。だが、今夜はもう遅すぎた。男たちの遺骸は教会の裏の小屋に安置され、そこで寝ずの番に守られることとなった。
 カスパールは井戸からくみ出した水を大鍋に空けた。石を組んだ炉でさかんに火が燃えている。そのときだった。ふと、話しかけられた。
「カスパール兄ちゃん」
「ハンス?」
 そこにたっていたのは、年のころなら12やそこらの少年だ。赤毛の少年。イェンスの弟だ、と思い出す。
「どうしたんだ、ハンス」
 カスパールはやさしく笑い、少年の頭に手を置いた。少年は瞬間、泣き出しそうな顔をした。
「聞いたんだけど、兄ちゃん、人狼をやっつけたんだって?」
「……」
 カスパールは瞬間、返事に詰まった。
「銀の剣で人狼を切りつけた、だから人狼はあわてて逃げ出したんだって。兄貴から聞いたんだ。ねえ、カスパール兄ちゃんは、王都からきた、立派な狼退治の騎士様なんだろう?」
「それは……」
 ああ、そのとおりだ、という力強い返事を期待しているのだろうと、すぐにカスパールにはわかった。
 少年の目には不安の色がきらめいていた。村の男たちが殺され、今ではいつ狼たちが村を襲撃するかわからない。実際には見ていないものたちのうわさによって、人狼への恐怖は、ほとんど非現実的なレベルにまで膨れ上がっていた。
 ねえ、ねえ、と少年はカスパールの肩をゆさぶった。
「大丈夫だよね? カスパール兄ちゃんがいれば、人狼なんて怖くないよね? 狼がきても、みんな兄ちゃんがやっつけてくれるよね?」
 カスパールはふいに、いくつもの視線が自分を見ているということに気づいた。
 教会の窓から、大鍋の炉辺から、男たちや女たちが自分を見ている。銀剣を携えた若い騎士を。
 銀剣を持つものは、魔物を殺す力を持つ。時には非現実的な英雄詩の主役にすらなることがある。彼らはカスパールに英雄詩の英雄の役を望んでいるというのだろうか?
 そんなことは、まぼろしだ。自分には仲間ひとり、ちいさな少女ひとり守る力すらなかった―――
 カスパールは苦く唇を噛み、どう答えようか迷った。そのときだった。ふいに声がした。
「ああ、カスパールは、きっとこの村を守ってくれる」
 低く穏やかな声。カスパールは驚き、顔を上げる。少年は顔を輝かせる。
「村長様!」
 背後に立っていた男。それは村長――― カスパールの父親。
 少年が駆け寄ると、壮年の男はおだやかな笑みで頭をなでた。カスパールは立ち上がり、なんと言ったらいいのかもわからぬまま、父親のほうを見やる。
「お前も知っているだろう、ハンス。銀剣の勇者の物語を」
「うん!」
「カスパールが持っているのは、たしかにその銀剣なのだよ。……カスパール、抜いてごらん」
 ためらいながら、カスパールは従った。腰に刷いたままだった銀の剣を抜く。
 柄に水晶を飾った銀剣は、燃える炉の炎を照り返して、虹さながらに燦然とかがやいた。
 鏡銀を鍛えた宝剣。資格もたぬものには握られることすら許されない剣。それは、悪魔祓いの銀の剣だ。
「うわぁ……」
 少年は感動したように目を見開いた。ひそやかにカスパールたちのほうをうかがっていた者たちからもかすかに感嘆の声が漏れる。村長は微笑んだ。カスパールは苦い思いで宝剣をふたたび鞘に収めた。
「だから、安心しなさい。村は安泰だ。……ほら、お前はもう母さんたちの手伝いにもどりなさい」
「うん、わかった!」
 少年はうなずいた。そして、くるりときびすを返し…… 最後にカスパールを見た。期待にきらきらと輝く瞳。
「カスパール兄ちゃん、きっとだよ。きっと俺たちを守ってね!」
 そして少年は元のように教会のほうへと駆け出していった。その背中をカスパールは苦い思いで見送った。父を見る。父の横顔からは、真意をうかがうことなどできなかった。
「父さん」
 そして、カスパールは、父に呼びかけた。
「……話があるんだ」
 父は振り返った。静かに答えた。
「ああ」
 まるで何を言われるかを知っているかのような答え。カスパールはふたたび苦いものをかみ締めた。

 村長の家は、教会からさほど遠くもない場所に構えられている。今はけが人を収容し、村のものたちの会議のためにもつかわれる場所だ。ヤンネたち兄嫁たちがけが人の手当てや炊き出しのために忙しく走り回っている。そんな中、カスパールを伴って、父は自室へと入った。戸を閉めると静けさが降りた。
 父はランプに火を入れる。ほの明かりが闇に灯った。
「どうした、カスパール」
「……」
 カスパールは、黙ったまま、懐から手を出した。その手に握られていたものは、皮ひもに通した白い牙、牙のお守りだった。
「イェンスとアドルフ、それにブルーノ」
「……」
「これはイェンスから借りてきたものなんだ」
 なぜ狼に襲われたものと、そうでなかったものがいたのか――― カスパールの出した結論が、それだった。
「これは狼の牙ですね、父さん?」
 とがった小さな白い牙。それは、狩に出かけた男たちの幾人かに渡されていたものだった。
 未婚のものより既婚のものへ。末の息子よりも長子へ。三男であるブルーノがそれを持っていたのはただの偶然、何かを思ったフランツが、それをブルーノに手渡していたからだ。
 牙を手渡す相手は、あきらかに選別されていた。それは、この牙が力を発揮する、狼に襲われる場面がたしかにありうると想定していたからだとしか思えない。わかった上でそれを選んだのだ。それはなぜだ?
「この牙は、狼避けの力があるんですか」
「だとしたら、どうする」
 その返事に、ぐっ、とカスパールは息を呑んだ。
「そんな話は、聞いたことがない。教会に仕えている人の子は、そんな魔力を持ったことなんてないはずだ」
「だが事実だ。それに、お前が知る必要もない事実だ」
 父はふいに手を伸ばすと、カスパールの手から狼の牙をひったくる。ふいのことにカスパールは反応できなかった。取り上げた狼の牙を、父は懐にしまいこんだ。
「父さんは人狼が現れるってことを知ってたのか?」
「……」
「狼避けのまじないを渡すなんて…… 狼に襲われるってことを知ってたんだろう? だったら、どうして、狼狩りの許可なんて出したんだ! それに、その牙はいったいなんなんです? 人狼避けのまじないなんて、王都でも聞いたこともない!」
「カスパール」
 父はふいに低く息子を呼ぶ。息子のものと同じ、灰青色の目が、ひた、と息子をにらみつけた。
「私ばかりを非難するが…… だが、お前はいったい何をしていたんだ。狼殺しの騎士」
「それは……」
「お前こそ、人狼が実在すると、知っていたはずだ」
 カスパールはぐっと息を詰まらせた。
「王都で学び、魔物を殺すすべを身につけていたはずだろう。だったら、なぜお前が行ったのに犠牲者が出たのだ?」
 たったひとりで皆を守りきれるものか、とカスパールは叫びそうになった。それに。
「俺は警告した」
「だが、誰も聞かなかったんだろう。なぜだと思う」
「それは」
「お前が無力だからだろう!」
 父の声は、厳しく無常に響いた。カスパールは打たれたように黙り込む。
「誰も守れぬお前の言うことなど誰が聞くものか。だが、私はこの村を守ってきた。銀剣を持たされていても、無力なお前とは違う」
 そして、打って変わってやさしい調子になると、父は手を伸ばし、カスパールの肩を抱いた。そして、「なあ、カスパール」とやさしげな声を出す。
「この村にはお前が必要なんだ。狼殺しのカスパール」
「……それは」
「もうすぐすべてが終わる。人狼が死んだことを確認さえすればいい。だが、もう狩りにいく必要はないだろうな。誰も村から出さえしなければ、すべてが元通りになって、この村は平和になるんだ。お前も見ただろう。この村には、狼避けの魔法の力があるんだ」
 魔法、とカスパールはつぶやいた。父は微笑んだが、青灰色の目は笑ってはいない。
「お前はまさかふるさとを告発しようなどとは思わないだろう?」
 その言葉にハッとする。カスパールは眼を上げた。
 まさかとは思う。けれども。
「まさか、父さんは、異端の……」
「めったなことを言うものではない!」
 再び父はたたきつけるように言い放った。
「私はずっとこの村を守ってきた。狩人だった若い頃からずっとだ。まだ若造のお前にその苦労が分かるものか。……わかるな、カスパール。私は村の皆が豊かで平和に暮らすことだけが望みなんだ」
「さっきから父さんの言ってることは支離滅裂じゃないか」
「そう思うのか? 可哀想な子だ。私が言いたいことはひとつだけ、お前の力などなくても、この村は変わらないということだけだ」
 カスパールは言葉を詰まらせた。
 父はやさしく微笑んだ。まだ幼い子供のわがままを笑うような表情だった。そして腕を解くと、カスパールの肩をひとつたたいた。
「お前はまだこの村に逗留するといい。人狼から村人たちを守らねばならないし、人狼を狩ったとなればお前の名誉にもなるだろう。すべてが終わったら領主様に報告に行くがいい。それまでここで一緒に村を守るんだ」
「……」
 父はゆっくりと言った。
「それとも、ふるさとの人々を見捨てて、一人で報告に戻るのか? お前が戻ってくる頃には、さらに犠牲者が出ているかもしれないのに?」
 カスパールは口を開きかけ、また閉じた。
 カスパールは何もいえなかった。頭が混乱していたのだ。
 誰も守れなかった自分。死者を悲しむ人々。銀剣の勇者。狼避けのまじない。そして、父の不可解なほどに断定的な態度。
 何かがつながらない。どこかがねじれている。けれど、何が間違っているのかが分からなかった。疲れ果てた頭は、まるで、砂が詰まっているかのように鈍い。
「……俺にどうしろって言うんだ、父さん」
 ひどいためらいを感じながら、カスパールは言葉を搾り出した。父は満足げに笑った。ようやくその言葉を引き出せた、とでも言うように。
「この村を守ればいい」
「いつまで?」
「そう長い間ではないさ。この村は平和で守られている。ずっとそれは変わらんさ」
 父はそう言い切った。……まるで自らそう信じたがっているかのようだ、とカスパールはかすかに思った。
 顔だけは従順に、カスパールはちいさく頷いた。そして同時に思った。

 ……もう、限界だ、と。






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