36
 


 ―――ドロテアの記憶は、故郷が滅びる以前で途切れていた。
 裏の井戸で黒い影に襲われ、灼熱するような痛み、そして、沈黙。その後は何一つとして記憶に残っていない。自分は高熱にうなされ錯乱したこともあったらしいが、当時のことは何一つとして記憶に残っていなかった。
 ただ、目を覚ましたら、知らない天井の下にいた。ドロテアが理解できたのは、たったそれだけだった。
 高熱で消耗したせいで、体からはげっそりと肉が削げ、触れて確かめる体は枯れ枝のように痩せていた。その上、自分は、何もかもを失ってしまっていたようだった。
 家族、家、故郷、そして己の片腕。
 実感は無い。母や兄が死んだといわれてもまるで現実のように思えなかった。そもそも、自分が意識を失っている間にいったい何があったのか? ……誰一人としてそれを語ろうとしない。その事実は、ドロテアをひどく不安にさせた。
 ドロテアが横たえられていたのは、他の村人たちも集まってごった返している、狭苦しい古屋の一角だった。
 すすのついた梁。夜になればネズミの足音が聞こえ、土の床は湿っていて冷たい。それでもドロテアはいくらかましな対応を受けているほうだった。新しいわらのベッドが与えられ、包帯は清潔なものに交換され、薬も与えられた。それが兄の功績によるものらしいということはドロテアも知っていた。
 たったひとり残った兄のブルーノは、人狼退治の英雄なのだと。
 それは何かおかしいのではないか、とドロテアでも思った。
 兄はただの村人で、血気にはやって勇敢ではあっても、魔物と戦うような器量など何一つとして持ち合わせていなかった。そんな英雄の名は、そう、銀剣を与えられたカスパールなどにこそふさわしいように思えた。だが、村人たちは誰一人としてカスパールのことを口にしない。そのことはひどく奇妙に思え、その沈黙が、また、ドロテアのこころを不安にさせた。だが、人々の沈黙には問うことを許さない不可解な厳しさがあった。問うことが出来なかった。その沈黙の奇妙な恐ろしさに。
 
 そんなある日、カスパールが、ドロテアを訪ねてきた。

 その日は、どうやら晴れていたようだった。
「気分はどうだ? ドロテア」
「カスパール……」
 高い屋根の煙出しから、細い金色の日差しが差し込み、かすかに舞う土ぼこりが金色に光っている。そんな光に照らされて、カスパールはすこし笑って見せた。ひさしぶりに会うカスパールは、ひどく様子が変わっていた。
 何を言ったらいいのかわからないドロテアの傍らで、カスパールはちいさな木の椅子を引き出してきて座った。同じ古屋に集められた人々が遠巻きにこちらを見ていた。カスパールはドロテアの残った片手を握った。
「ひさしぶりだね」
「どうしたの? 今までどこにいってたの?」
「うん…… 領主さまのところでお世話になっていたよ」
 そう言って笑うカスパールの眼は、かつてと同じ、澄んで優しい青灰色だ。けれど、そのどこかに拭い去れない影がある、とドロテアは思った。
 そういうのなら、カスパールの姿もそうだ。
 頬に大きな布が当てられ、左腕は肩から吊るされていた。服の下絡見える肩のあたりにも包帯が巻かれ、消毒の薬草のにおいが鼻に突いた。怪我、それもひどい怪我だ、とドロテアは思った。
「どうしたの、その怪我」
 ドロテアはおそるおそる手を差し伸べた。
「ひどい怪我じゃない。痛そうだわ。しかも顔よ。いったいどうしたの」
 そっと頬に触れる。カスパールの眼の底に、瞬間、痛みのようなものがよぎった。それを打ち消すように笑って見せた。カスパールはドロテアのその手をそっと握った。
「たいした怪我じゃないよ」
「もしかして…… 人狼にやられたの?」
 ドロテアが言うと、カスパールは、瞬間、顔を曇らせた。正解だ、と気づいたドロテアは頬を高潮させる。かぼそかった声が、わずかに大きくなった。
「やっぱりそうなのね。おかしいと思ってたの。だって、お兄ちゃんに人狼狩りが出来るわけないもの。やっぱりカスパールが人狼をやっつけて、みんなを助けてくれたのね。ね、そうでしょ?」
「違うよ」
 ドロテアの声をさえぎるように、カスパールは小さく、けれどはっきりと言った。
「俺は何もできなかった。何もできなかったんだよ」
「そう……?」
 ドロテアはいぶかしげに答える。痛いのをこらえるように微笑むカスパールは、やはり何か嘘をついているように思えた。けれどその『嘘』はドロテアが暴くには恐ろしいもののように思えた。しかたなくドロテアは話題を変えた。
「ねえ、カスパール、うちのあの子をどこかで見なかった?」
「え?」
 思い出す。やせっぽっちの、垢まみれの少女。短く切られた黒髪。金茶色の怯えた瞳。
「馬屋にいたあの子よ。どこにもいないの。やっぱり死んじゃったのかな」
 ドロテアは、かすかにためらった。カスパールの指先をきゅっと握った。ちいさな声で言った。
「私ね、あの子に謝らないといけなかったんだわ。意地悪をしちゃったんだもの」
 カスパールがちいさく息を呑んだ。ドロテアは気づかなかった。ぽつり、ぽつり、と続けた。
「私、あの子がうらやましかったの。だって、カスパールはあの子ばっかり見てたみたいな気がしたんだもの。でも…… 死んじゃうんだったら可哀想だったかもしれないなって」
 ドロテアは、「ねえ」とカスパールを見上げた。
「あの子も狼に食べられちゃったの?」
 カスパールはしばらく黙っていた。その眼はしばらく自分のつま先のあたりをさまよっていた。けれど、やがて、
「そうだよ」
 はっきりと答える。
 カスパールはドロテアの手を握りなおした。そして、真剣な眼でドロテアの眼を見た。ゆっくりと、昔話を語るように、語りだす。
「あの子はね、森へ行ったんだ。自分のおばあさんに会いに行ったんだ」
「おばあさん? そんなの、いたの?」
「ああ。でもね、途中であの子は狼に会ったんだ。そして、狼に食べられてしまった……」
 カスパールは短く沈黙した。そして、「可哀想に」とつぶやく。
「森になんて行かせるべきじゃなかったんだ。あんなちいさな子を。本当は、誰かが守ってやらないといけなかったのに」
 その眼はドロテアを見ていながら、どこか別のところを見ていた。その澄んだ青灰色の眼のうつくしさにドロテアは見惚れた。同時に、心の中で、ちくりと小さな痛みを感じた。
 やはりこの眼は自分を見てはくれない。あの少女だけを見ていた。
 けれど、その眼は、何か守るべきものを見る眼だったのだ。……他の何もかもから守られていたドロテアには、向けられるはずも無い眼だったのだ。
「可哀想ね」
 だからちいさく答えて、ドロテアは、そっとカスパールの手を握った。
「ほんとうに、可哀想に」
 しばらく二人は手を携えていた。けれど、ふいに、誰かがカスパールの肩を、乱暴に小突いた。
「おい、時間だ」
「はい」
 ドロテアはわずかに眼を見開いた。それは領主の兵らしい制服を着た男だった。気づかなかったけれど、何人かが古屋の外で待ち構えていた。古屋の中に残った村人たち、女たちや子供たちが、不安げにその姿を見つめている。
「じゃあ、ドロテア、元気で。どうか君に幸運があるように」
 カスパールは最後にすこしドロテアの手を握ってそう言った。そして、ほんのすこし微笑むと、踵を返した。
 かすかに足を引きずりながら歩いていく。古屋の外、光のさすほうへと。
 ベッドから身を乗り出したドロテアは、痛みに顔をゆがめた。その背中に向かって叫んだ。
「カスパール!」
 彼は振り返った。逆光に澄んだ青灰色の瞳。


 ドロテアが知るのはその後のこととなる。
 カスパールが人狼に組した罪、人の知るべきではない知恵に通じた罪として、騎士団によって拘禁されていたということを。
 彼は人狼退治の英雄ではなく、人狼を手引きした悪魔。忌まれるべき存在と成り果てていたのだということを。


 ドロテアは瞬間息をのんだ。言いかけた。
 あなたが好きだと。
 だが、通じるはずが無い。受け入れられるはずが無い。
 ……かわりに口から出てきたのは、ありきたりで平凡な言葉だった。
「また、会いに来てね?」
 カスパールは答えず、かすかに微笑んだ。そしてすこしだけ手を振った。残された右手を。
 そして、寡黙な兵隊たちに囲まれ、体を揺らしながらゆっくりと歩いていくカスパールの後姿を、ドロテアはいつまでも見つめていた。
 いつまでも、いつまでも。


 そして、その後ドロテアがカスパールの姿を見ることは、二度と無かった。
 もう、二度と。





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