エピローグ
 



 かつて、まだ少年だった日のカスパールは、夜髪にひとつの秘密を託された。
 それは穏やかな日差しの降り注ぐ午後だった。夜髪は庭で糸をつむぎ、カスパールは傍らに座って赤子をあやしていた。まだたったの2歳の幼子。それでもカスパールにかまってもらえるのがうれしいのか、きゃっきゃっとうれしそうにはしゃぎながら、つくってもらった草の船を水盤に追っていた。
「ねえ、カスパール」
「ん?」
 ふと、からからと糸車の回る音が止まる。カスパールは振り返った。夜髪がこちらを見ていた。穏やかな黄金の目で。
「ひとつ、あなたに、大切なことをお願いしたいの」
「大切なこと?」
 夜髪の願い出に、胸がわずかにどきんとした。どういうことなんだろう。
「それって何? なにか秘密のこと?」
「ええ、そうなの。あんまり大事だから、あなたにしか頼めないこと」
 夜髪は錘を置く。そして、水盤ではしゃいでいる己の娘のほうを見た。
「あの子が13歳になったらね…… 教えてあげてほしいの。あの子に、あの子の名前を」
「名前?」
 カスパールはわずかに眉を寄せた。
 名前なんて、いつでも呼んでいるじゃないか。チビ、と呼んだり、ちっちゃいリスさん、と呼んだりさまざまだけれど。そうカスパールが首をかしげると、「ちがうわ、ほんとの名前」と夜髪は笑った。
「あなた、わたしの本当の名前は知らないでしょう」
「……うん」
「わたしたちはね、本当に大事な人にしか名前を明かさないの。まして、ちいさな子供の時分は、自分で自分の名前を知らないほうが普通だわ。13歳くらいのときに自分の本当の名前を教えてもらって、やっとその子は一人前になるの」
「なんで? 不便じゃない」
 名前が分からないと、なんとも呼びようが無い。そのためにあるのが名前じゃないか、とカスパールは思う。けれど夜髪は少し笑って首を横にふった。
「それは偽物の名前の場合よ。普段使うときはその名前で呼び合ったりするわ。でも、ほんとうの名前はとても特別なの」
 カスパールはしばらく考え込んだ。
 そんな話は聞いたことも無かった。どういう意味なのか分かりかねた。けれども、夜髪の様子はいたく真剣だった。
「普通は、12歳から14歳までくらいのころに、親が見計らって名前を教えるんだけどね……」
「だったら、なんでぼくに?」
「うーん、念のため、かしらね」
 夜髪は少し笑った。なにか寂しそうな笑みだった。
「もしもなにかの理由でわたしたちがいなくなっていたら、13になったあの子に、あの子の名前を教えてあげてほしいの」
「いなくなったらやだよ!」
 カスパールは驚いて声をあげる。けれど、夜髪は穏やかに微笑んでいるだけだった。
「念のため、よ。それに、あなたにはずっとあの子を大切にしてもらいたいから…… まもれるかしら、あの子の秘密の名前」
「うん……」
 カスパールは、少し、考え込んだ。
 チビが13歳になるのは、今からほとんど10年も未来のことだ。そのころ自分がどうしているかなんてカスパールには分かりようが無かった。けれど。
「うん、分かった」
 カスパールは、迷いを振り捨て、うなずいた。
「じゃあ、ぼくがあの子の名前をあずかる。誰にも教えないで大切にして、13歳になったら、あの子に教えてあげるよ」
「ありがとう、カスパール」
 夜髪は微笑んだ。そして、すっとカスパールの耳元に唇を寄せる。カスパールは鼓動が跳ね上がるのを感じる。夜髪の長い黒髪。そこから漂う涼しい香草の香り。
「あのね、あの子の名前はね……」





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