―――それは冬。
かつん、かつん、かつん、と硬い足音が回廊に響いた。
薄暗い獣脂蝋燭にともされた灯りが、ぼんやりと壁を照らし出した。荒く削りだされた灰色の石。その上を白い毛皮で縁取られた裾がなめらかに滑った。毛並みの深いやわらかな毛皮。それに身を包んでいても、最果てのこの地はあまりに寒い。
やがて、階段は地下へと滑り降りていく。革靴の踵と、木の踵が音を立てた。それは毛皮に身を包んだ華奢な子供と、毛織の厚いマントを羽織った兵士だ。
石造りの牢は寒く、よどんだ空気がそこに篭っていた。およそ高貴な身のものが踏み入るような場所ではない。だが、子供はむしろそれを面白がるような顔をしていた。湖のような、宝石のような、青とも緑ともつかない色の瞳が、薄暗い蝋燭の灯りにきらめく。
牢の奥でうずくまった囚人たち。拷問によって衰弱し、今では死を待つばかりのものたち。彼らの姿を子供は興味深げに眺め、「すごいね」と言った。
「こんなにたくさんの人間が、『森』や『海』と契約しているなんてね」
ふと、子供は手を伸ばす。子羊の革で作られたやわらかい手袋。その指が格子に触れた。間を覗き込む。牢の奥には干からびた死体だけがあった。子供は感心したように首を振った。白い縁取りのフードから髪がこぼれる。柔かく細いその髪は、薄暗い蝋燭の明かりにも、磨きぬいた白金のようにきらめいた。
……そこは、王国の人々に存在を秘された、隠された牢獄。
峻厳な岩山の間に隠されたその城塁には、決して赦されることのない罪、すなわち涜聖の罪を犯したものたちだけが集められている。
人間の身でありながら、人外のものと通じ、その力を用いるという罪を犯したものたち。彼らは公式にはすべて処刑されることとなっている。
だが、現実には、彼らのうち、真実その罪を犯したもの――― 間違いなく人外のものたちのことについて知ったものたちは、この最果ての牢獄城に集められた。呪われた罪人たちを通じ、人間ならば得ることのできるはずのない、人外のものたちの秘儀を得るために。
罪人たちは、持っている知恵を告白することを求められる。そのためにはありとあらゆる手段がゆるされる。なぜなら彼らはもはや人ではない。呪われた存在にして、すでに命の無いもの。すでに処刑された後の死人であるからだ。
やがて子供は、奥まった牢のひとつの前で、足を止めた。
「君は待っていて」
そう言うと、子供は兵士から蝋燭を受け取った。兵士はやや眉を寄せた。「ですが」と難色を示す。けれど。
「大丈夫。危ないことがあったら君を呼ぶから」
フードの奥から、澄んだ声がそう言う。あどけない色を残したその声には、けれど、逆らいがたい何かがあった。兵士は頭を下げ、言われた通りに引き返していった。
その手の灯りが見えなくなったのを確認して、子供は、牢の前にしゃがみこんだ。
「ねえ、聞こえるかい? ……カスパール・イエガー」
牢の中には凍えた闇が凝り、子供の吐き出す息は白く凝った。返事は返ってこない。けれど、闇に眼が慣れてくると、その牢の奥に誰かがうずくまっているということがたしかに分かる。
子供はフードを外した。光のような髪がこぼれおちた。
それは、少年とも少女ともつかない、天使のように愛らしい子供だった。
長い髪は白金。腰に届くほどもあるだろうか。白い額には皮紐がよぎり、その中心に飾られた一粒の真珠飾りがきらめいている。だが、その顔は真珠の色彩よりもなお白く、瞳はなお輝かしい。膚は真珠母、唇は珊瑚。そして、青とも緑ともつかない色の双眸は、さながら二顆の妙なる宝玉だった。声色は硝子の鈴のように澄んでいた。まるで真珠細工のように繊細な姿をした子供。
ふっくらとした唇がほどけ、無垢な笑みを浮かべた。子供は闇の向こうを覗き込む。
「銀剣を裏切った剣士、カスパール・イエガー。君の故郷のことは調べたよ。森に呑まれてしまったあの村のことを」
子供は耳を澄ます。返事は返ってこない。子供は続けた。
「15年前、君の父親は人狼と契約をした。その証は血と骨だったね。すなわち、その人狼の血を引いたものと、その人狼の骨が村にある限り、森に属するものたちは村に危害を及ぼせない。そんな強力な魔法だ」
子供はすこし首をかしげた。長く柔らかなプラチナブロンドが、光がこぼれるようにさらりと流れた。
「これはすこし不思議な話だよね。たとえ人狼といえど、そんな魔力を行使できたという話はほかに聞かない。よっぽど強力な人狼だったのかな? あるいは、もしかしたら、彼らの中にも貴種と呼べるものが存在していたのかもしれない。人狼のお姫様ということだね。……でも、君たちは嘘つきだった。人狼のお姫様には可哀想に」
くすくすと子供は笑う。硝子の鈴を鳴らすような笑い声。
「村人たちは人狼を殺し、その死骸を井戸に隠して、人狼の娘を村で育てることにした。なんでそんなことをしたのかな。大方、人狼のお姫様が、村を逃げ出そうとでもしたのかもしれない。彼らは一回交わした約束を決して破れないから、どんなに不利な約束であっても、それには従わざるを得ないからだ。そうして人狼の娘には何も知らせずに人間として暮らしてもらう。そうして彼女が子供を産めば、村はずっと安泰、魔力に守られ続けているはずだった」
でも、と子供は言う。
「子供は人狼の血に目覚めて、両親の復讐をはじめた。ちいさな村はひとたまりもない。ましてや頼みの銀剣の騎士は人狼を手引きする始末だものね。……村の若い英雄がなんとかして人狼を退けたけれど、人狼は森へと逃げ帰り、村は森に呑まれてしまった」
そして子供は短く言葉を切った。しゃがみこむと、膝に頬杖をつく。
「ここまでは君たちの村の神父様が言ってくれた話。聞きだすのには、そんなに手間はかからなかったよ。そして、ここから先は考察になる」
と言う。
「あのね、この話には疑問点があるんだ。どうして人狼のお姫様の娘は、13の年までその血に目覚めなかったのだろう?」
子供は言葉を切った。ながいまつげに縁取られた、宝石のような目を細めた。
暗く凍てついた牢獄にいるにもかかわらず、むしろ楽しげといってもいいような表情だった。
「ほとんど知られていないことだけれど、森のものたちにはひとつの弱点がある。彼らは名前をふたつ持っているんだ。ひとつは通称、周りの人々から呼ばれる名前。もうひとつは真名。誰にも知られることの無い名前」
子供は白い息を吐いた。
「君が人狼を手引きした罪に問われたのは、君が人狼の娘と親しかったからだ。君は人狼の娘を手引きして村に連れ込み、最後には身をていして彼女を森に返しすらした。では、その関係がもっと以前からのものだったと考えたらどうだろう?」
闇の向こうで何かが身じろぎをした。それを見た子供は思う。
……もう少しだ。
「人狼には子供がいない。見たものが無い。でも、それはおかしいよね? 人狼だって生き物だもの。大人がいれば子供もいるはずだ。僕はこう考える。人狼の子供は人前に姿を現さないんだ。なぜ? おそらく、力を持たないからじゃないかな」
きっと君たちの村の娘もそうだったんだね、と子供は言った。
「でも彼女は力を得た。そのきっかけは、もしかしたら『名前』だったんじゃないかしら。誰かが彼女に真名を与えたんだ。それによって彼女は復讐を遂げる力を得た。……それは、誰だったんだと思う?」
子供は手を伸ばす。冷たい格子に手をかけた。
牢の格子は太い木で組まれていた。子羊の革で作られた手袋の指が、そっと、その格子をなぞる。宝石のような碧の瞳が闇の奥を覗き込んだ。まるで見透かすような瞳。
「カスパール・イエガー」
子供はしずかに呼びかけた。銀剣を授けられながら故郷を売った、罪深い剣士の名を。
返事は返らない。闇の向こうは見えない。子供はしばらく牢の中を覗き込んでいた。……やがて、その懐から、重い鋳鉄の鍵を取り出した。
牢の鍵が、きしんだ音を立てた。
子供はゆっくりと牢の入り口を潜る。凍てついた闇。奥から鎖の鳴る音が聞こえた。
「……来る、な」
しわがれた声が警告を発した。だが子供はひるまない。やわらかい微笑みを浮かべ、闇へと手を差し伸べた。
「ねえ、カスパール・イエガー」
やがて、ぼんやりとした灯りの中に、ひとりの青年の姿が浮かび上がる。
眼の落ち窪み、土気色になった顔。もつれた髪。こけた頬に、三本の恐ろしい傷跡が走っていた。
やつれはてた顔に、けれど、青灰色の眼が澄んだ色をしていた。その眼がかすかな驚きを抱いて子供を見上げた。この牢にはまったく似つかわしくない、清らかで美しい子供の姿を。
子供は手を差し出した。
「僕といっしょにおいでよ」
青年は、差し出された手を、信じられないものでも見るように見た。そして子供の顔を見た。宝石の瞳がきらめいていた。
まもりたかったんだよね、と子供はささやいた。
「君は守りたかったんだよね。何もかもを。まだ13歳の人狼の娘も、故郷も、すべてを」
子供は微笑んだ。天使のように。
「僕は君を受け入れるよ。たとえ君が、人間よりも人狼を選んだ、罪深い剣士だとしても」
青年はまじまじと子供を見た。少年とも少女ともつかない、真珠細工のような子供。光を紡いだような髪に、青とも緑ともつかない、宝石のような瞳を持った子供を。
そして、やがて、かすれた声で問いかけた。
「君は、誰だ?」
子供は答えた。
「僕はユーリウス」
そして子供は微笑む。
天使のように、美姫のように、……王のように。
「今日から君は僕と一緒だ。ずっと、ずっと一緒だよ。」
青年は…… カスパールは、しばし、呆然とその微笑を見上げた。
ユーリウスは微笑み待ち続けた。分かっていた。カスパールがその手を取るまでには、さほど時間はかからない。
彼が己のものになるには、さほど時間はかからない。
―――それは、冬。
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