2:子どもの物語


 ―――ばたばたという足音が階段を駆け下っていくのを、十代は、人形のように床に倒れたまま、呆然と聞いていた。
《十代…… 十代。大丈夫?》
 耳元に、哀しそうな声がする。見えない腕がそっと差し伸べられて体を抱く。十代は、のろのろと、起き上がった。
「大丈夫…… ちょっとびっくりしただけ」
 見えない腕は、抱きしめてくれても、十代を助け起こすだけの力を持っていない。十代は自分の力で起き上がり、再びベットへと這い上がった。肘の辺りがじんじんと傷んだ。パジャマの袖をめくってみると、すりむけて、血がにじんでいた。
 力いっぱい突き飛ばされたからかなあ。十代はぼんやりと思う。
 もしも卵だったら、あれで、割れてしまったよね……
「おかあさん、怖い顔してたね……」
 十代は、母の顔を思い出す。自分が問いをなげかけたとき、その面差しを凍りつかせた、恐怖と絶望の色を。
 あれは、あきらかに、人間ではないものを見る目だった。異界の住人、化け物、怪物をみるような目だった、と十代は思う。あれが母親から向けられたものだと思うと心のどこかが鈍く痛んだが、けれど、改めて驚きはしなかった。あんな目を見るのは初めてのことじゃなかったから。
 ひとりぼっちの広いベットは、まるで、砂でも撒いたみたいだ。ざらざらと冷たく感じられる毛布の間に、十代は、もぐりこむ。
 傍らに気配を感じた――― 傍らだけではない。部屋中に、気配があった。たくさんの《友だち》、目には見えない仲間たち。十代の誰よりも大切な、友達たちの気配だった。
 その中でも一番大切な人が、そっとベットの傍らに腰掛ける。ほの白い月の光に照らされて、その優美な姿が、うすく浮かび上がっていた。大きな翼と左右非対称の体のライン。碧と橙、ふた色の瞳。
《十代、哀しいのかい》
「よく、わかんない……」
 十代は、ぽつんとつぶやく。
「でも、おかあさん、本当にぼくのこと、生まれてこないことにしたかったんだね」
 
 ―――十代にとって、生まれたときから、この世界は、どことはなしに異質な場所だった。

 物心がついたころには、もう、十代の目には、たくさんの《友だち》の姿が見えていた。彼らは身体の無い子どもたち、魂を持たない気配たち、誰にも見えない命たちだった。
 彼らは十代が自分たちの姿を見てくれることを喜び、いつも競うようにして、十代のところへとやってきた。彼らの心の動きは人間の知っている常識とはあきらかに異質で、ときには怖い思いをさせられたり、乱暴なことをしてくる者たちもいたけれど、彼らがみんな十代のことを愛しているということは、いつだって、十分すぎるくらいに良く分かることだった。十代は、だから人間の言葉をおぼえるよりも先に彼らの言葉をおぼえ、人間の友だちができるよりも先に、彼らみんなの友人となった。十代は姿の無いものたちにとって、まるで、みんなの子どものような存在だったから。
 けれど、両親も、ほかの周りの人間たちも、一度だって、それを理解しなかった。
 見えないものたちを愛するのと同じくらい、十代は、家族たち、人間の友人たちのことも、愛していた。分け隔てをすること自体が思いつかないことだった。だから十代は、何度だってよびかけた。何度も、何度も。

 ねえ、みんながここにいるよ。
 みんながね、こんなことを言ってるよ。
 みんながね……

 ―――けれど、その言葉は、一度だって理解されることが無かった。
 この世に生まれて6年の歳月で、十代は、ぼんやりと理解をしていた。二つの世界は、本来、そもそも交わることがないものなのだと。その二つに同時に生きている十代は、どちらの世界においてもかたわ者だった。人間として生ききることもできず、かといって、見えないものたちの世界に身を投じることもできない。
 けれど、こういう風に生まれたことを、悔いたことは無い。なぜなら、こういう風に生まれなければ、そもそも十代は、こんなにたくさんの友を得ることなんて、できなかったのだから。
 十代に見つけることもできる、見えないものたちと他の人々を結んでくれる言葉もあった。それがゲームだった。さいころの出目や、タロットの図柄。そして、デュエル。そんなさまざまなものたちに紛れ込ませて、十代はこっそりと、彼らと人間との間の橋渡しをした。見えないものたちも、人間たちも、十分にゲームを楽しんでくれた。誰も気づかなくても、十代だけは、そうやってふたつの世界の住人たちが時間を共にできるということを知ることができて、幸せだったのだ。
 ……けれど時に、十代は、自分で自分に定めたルールを、やむをえず破らなければならないことも、あった。
 時に見えないものたちは、十代へと助けを求めたのだ。自分のお気に入りの子どもが押入れの中に閉じ込められて死のうとしていると、居場所と決めた大切な主人の下から盗まれてしまったと、あるいは幼いころから心ひそかに愛してきた人が不実な恋に泣かされていると、彼らは十代へと訴えた。十代はその全てを大人たちへと伝えた。
 見えないものたちにできないことをすること、それが、十代にしかできない、大切な《友だち》たちにしてやれることだったからだ。
 けれど、それは、いけないことだったのだろうか?
「ユベル、言ったよね。『オロス』って、生まれる前に殺しちゃうことだって……」
《そうだね……》
 十代は、ベットの上に座り、膝を抱える。十代が想像したのは、ひとつの卵だった。

 まだ、ひよこになって生まれる前の卵。それが母の手の中にある。中にはひよこではなく、自分自身が入っている。
 母が持った卵に、お医者さんが、聴診器を当てる。そうして難しい顔をして首を横に振った。母は悲しそうな顔をして、近くの窓を開け、卵を外へと放り出す。
 飛んで言った卵は、地面にぶつかって、くしゃりと割れる。黄身と白身がつぶれてまざる。

 ―――そうして十代は、生まれてこない。

 両親が喧嘩をしていると知ったとき、その内容を聞いてきてくれたのは、見えない友だちの一人だった。彼はもとより親切のつもりだったのだろう。見えないものたちは、たいてい、嘘というものを知らない。彼らは嘘というものをそもそも理解しないのだ。彼らの言葉はすべてが真実。どんなに残酷なことであっても、哀しいことであっても、それを言葉で偽って隠すということを、知らないのだ。
 半ば見えないものの世界に生きている十代にも、半分くらい、それは当てはまることだった。十代は、嘘という言葉の意味を、あまりよく理解しなかった。
 十代の世界において、物事は、言葉で偽って変化させることができるようには、できていない。
「おかあさん、ぼくのこと、殺したかったのかな」
 ぼんやりと十代はつぶやいた。
「悪い子は、いらなかったんだよね……」
 ちいさくうずくまる十代を、黒い翼がそっと抱いた。しなやかな腕が身体を抱く。その優雅さはまるで少女のようであり、優しさは…… この場合においてはひどく皮肉な意味で…… 母のようだった。
《十代、君は、あの女がいらないの?》
「あの女って、おかあさん?」
《そう》
 十代は目を上げる。そこには、慈愛に満ちた、ふた色の眼がある。
《僕は世界で一番十代が大事だ。だから、十代を哀しませる人間なんて、いつだって消してあげる》
「……」
 十代は黙り込んだ。
 母が自分のことがいらないのだったら、自分も母のことがいらなくてもいいのだろうか。
 その公式はシンプルで、どこにも揺るぎがない。自分を殺そうとした人間ならば殺してもかまわない。それは、間違いでは無い気がした。
 けれど。
「……おかあさんは、きっとぼくのこと、アイしてるよ」
 ぽつりと十代はつぶやく。美しい精霊は、少しばかり、不思議そうな顔をする。
《どうして? 殺そうとしたのに?》
「殺そうとしたかもしれないけど、でも、ぼくは生きてるもの。本当にはおかあさんは、ぼくのこと、殺さなかった」
 十代は、母のことが好きだった。アイしていた。
 それがまるで見当違いな方法だとしても、母は、見えるものしかない人間の世界で、精一杯に十代が上手くやっていけるように、頑張ってくれていた。十代から見えない友だちを奪おうとするのも、見えない友だちの忠告に従おうとするのを邪魔するのも、それが十代をアイする故だということは、分かっていた。
 母は痛んでいる。十代のことで、痛んでいる。それはきっとアイしているからなのだろう。十代のように、二つの世界に引き裂かれて生まれてきた子どもにとって、アイされるということは、痛む以外の何者でもないだと、十代はひっそりと思った。
「ぼく、おかあさんのこと、アイしてる」
 ―――言葉に出してつぶやくと、その言葉は、まるで剃刀の刃を呑むように、痛いものだったけれど。
「アイしてるから…… 痛くてもいいんだ」
《……》
 黒翼の精霊は、唇をつぐんだ。代わりに腕を伸ばし、いとしい幼子を、ぎゅっと抱きしめる。
《僕も愛してるよ、十代》
「ユベル……」
《世界で一番、愛してる。十代には僕がいる。大丈夫、僕はきっと永遠に、君の事を愛してる。守ってあげる……》
 十代の表情が、ふいに、くしゃりとゆがんだ。
 唇がゆがみ、眼から、大粒の涙がこぼれる。それを押し付けるようにして、十代は、ぎゅっとユベルの胸へとすがりつく。本当は見えない胸、触れられない腕だったけれど、それでも十代は、ユベルに、すがりたかった。
「ぎゅっとして、ユベル」
《うん》
「ぎゅうってして。はなさないで。ぼくのこと、抱きしめて」
《うん、うん》
 アイしてるよね、と十代の声が、泣き出しそうにつぶやく。
「ユベルはぼくのこと、アイしてるよね。ずうっとそばにいてくれるよね?」
《愛してるよ。そばにいる。君は永遠に僕のものだよ。愛しい十代……》
 声を殺して十代は泣く。涙にぬぐわれたように、瞳の黄金は消えている。ユベルはぎゅっと十代を抱きしめ、己の翼で包み込む。それでもユベルは誰にも見えない。闇にひっそりとたたずみ、彼らを見守る《友だち》たちも。ほんとうは部屋には十代ひとりきり、他には誰もいない。


 月の差し込むひとりぼっちの部屋で、小さな十代は、ひとり、声を殺して泣き続けた。
 




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十代の両親ってどんな人だったんだろうなあ、と思った結果。
見えないものが見えてしまい、かつ、十代のためならなんでもやっちゃうユベルがいるって、周りからみたらホラー以外の何者でもなかったんじゃあ… と思います。
きっと、十代のご両親も、息子のためをいちばんに考える、ごく普通の、よい親御さんだったのだろうなあと。でも、《アイ》が必ずしも人を救わないというのは、三期GXを見ての通り。
たぶんほんとうは、ものすごくありふれたこっけいな悲劇のお話。



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