/赤いろうそくと人魚




1.


 昔むかし、北の国のさむくて石ころだらけの浜辺に、ふるいふるい港町がありました。
 港には、もっと西のおおきな都からも、また、遠くの北国に住んだ文身の美しい人々からも、さまざまなものが運ばれておりました。ぶちのはいった滑らかな海豹の毛皮や、目にも綾な模様の絹織物、びいどろのうつわや朱塗りに螺鈿の嫁入り箪笥、たくさんの立派な宝物がはこばれてきては、また、港からはるばると山を越えてゆきました。塩や味噌、醤油や酒。港をおさめる人々はにぎやかで明るく、けっしておおきくはないその港町であっても、季節季節のいろどりのあざやかさは、深い山の奥の奥、また、荒くて冷たい波をはるばると越えてきた人々には、まるで天竺の都もかくやと思えるほどに、にぎやかでたのしい港でございました。
 けれど、北の海はつめたく、さみしくて、夏になっても水は温まず、鉛色の波が石ころだらけの浜辺に打ち付けるばかり。冬にもなれば波が白いうさぎのように遠くを跳ねて、びょおびょおと吹く風はまっしろな泡の花を運んでくる。遠くに鯨が真っ黒な背を見せて通り過ぎ、雲は空を千切れ飛ぶ。
 北の国のにぎやかな港町は、また、さむくてきびしい海に開かれた、さみしい港でありました。


 そうして、その港町には、ひとりのふうがわりな少年が暮らしておりました。
 母親が遠くから買われてきた異人の娘だったという少年は、すきとおるような緑の髪、緑のひとみ、それに、潮に洗われた貝殻のように真っ白な膚という、ふしぎな姿をしておりました。
 算盤での勘定も、文字の読み書きも、商いの一から十までをも、きょうだいたちの誰よりもたくみにこなす少年は、けれど、やっぱり少しばかり人と違う自分についてを、やっぱりいぶかしんでおりました。どうして俺はこんな髪をしているんだろう。どうして俺はこんなに膚が白いのだろう。港の船主である少年の父親は、奇妙だけれどうつくしい姿をした、そして、頭がよくて闊達なこの少年を、愛してはいましたが、やっぱりすこしばかりもてあましてもおりました。
 だから、とおいとおい国から船のはこばれてくるその港で、けれど少年は絹織物よりも珊瑚や金銀の宝物よりも、いつも、とおくの海ばかりをながめておりました。鉛色の波が彼方までざわめくこの海の、そのはるか彼方に、俺のほんとうのふるさとがあるんじゃないかしら… そんな風に少年は思っていたのでした。








 そうしてこれは、いつものように、少年が海をながめている日のことでした。
 夏の終わるころあいのことで、海はそろそろ波高くなり、人は実ったばかりの稲やら、ふとった牛やら馬やらを、銀やら絹やらと取り替えることに夢中です。それでも少年は、やっぱり海を見ておりました。石ころだらけの浜辺に立つと、冷たくて苦い風が緑の髪に吹きつけて、そろそろ、秋が近いと知れました。
 少年が浜辺に立っていると、荷運び人足の子どもたちが通りすがって、いつものように石を投げ、はやし立てます。
「船主の坊は人魚の子!」
「緑のおめめの船主の坊は、人魚の子! 人魚の子! いつまで海をみてござる!」
 いつものことなので気にすることではありませんが、それでも少年はすこしばかり腹を立てました。「うるさいぞ、おまえら!」と怒鳴りつけると、子どもたちはわっと散っていきました。
 絹のきものをきた少年と比べて、逃げていった子どもたちの麻のころもは貧しくて、いかにも、彼らと自分の違いが身にしみました。絹のふとんにくるまっていても、朝晩のお膳に白いお飯が食べられても、自分といっしょに海を見ている人はいない、いっしょに笑ったり泣いたりしてくれる人はいない、そんな風におもうといかにも気がくさくさして、ふさいだ気持ちになりました。
 人魚の子、人魚の子。……人魚がほんとうにいるのなら、魚の尻尾の人魚なら、俺を仲間にしてくれるんだろうか。
 けれども少年は、どんなに膚が白くても、眼や髪の色がちがっても、たしかに人でありました。苦い海にはいったら、とたんにおぼれてしまうでしょう。いつもなら眺めていてなつかしい海も、今日ばかりはなんだかよそよそしい。少年は海から背を向けて、とぼとぼと歩き出しました。
 秋には、山がうつくしく金や紅にさきほこります。竜胆やおみなえしが花を咲かせ、山の枝にはめくらぶどうが実をつけるころあいです。港をすこしはなれた山あいには、細くて長い石段があり、そうして、魚藍観音をまつった小さなお堂がありました。けれども、港の皆はお寺にまつられた金毘羅様を信心しているものですから、わざわざ山のお堂に登るものはめったにおりません。石段にはふかく落ち葉がつもり、ふかふかとやわらかな感じが足裏につたわります。枝をはしっていく栗鼠の子や、遠くで妻を呼ぶ鹿の声。
 とぼとぼとあてもなく歩いてきて、山のお堂までやってきた少年は、けれどふと、不思議なことを思い出しました。
 ―――誰もが忘れていたはずの魚藍観音のお堂を、信心しているものがいる。
 魚藍観音のお堂を信心すると――― どうなるというのでしょうか。少年の父親や兄たちは、ただの迷信だとおもっているようです。ですが、海にいくものたちはみんな、信心を大切にするものです。そうして同じくらい、迷信を信じやすくもあるのです。
 見ればたしかに、石段には誰かの草履が踏んだ後がのこっておりました。誰かがお堂にゆくのかしら。そう思って見上げていると、知った顔の女がちょうど石段をおりて参りました。そうして、少年を見つけて、「船主の坊ちゃま」と不思議そうな顔をします。
「どうなすったのです、こんなところで」
「いや、ええと、そっちこそ何やってたんだ?」
「ろうそくをあげてきたんです。あすこの、魚藍観音のお堂に」
 話を聞くと、女は、船乗りの妻でありました。そうして女は言うのです。
 石段の上にある、弁天様のお堂にろうそくをあげると、船が嵐にあわなくなる… と。
「あそこの魚藍観音には、そんなにご利益があったのか?」
「ご存知ありませんか、坊ちゃま。そのろうそくは、ただのろうそくではないんでございますよ。なんでも、人魚の子が絵を描いたろうそくだというのです」
「にんぎょ、の、子?」
 そこに、といって女が指差す先には、小さな小さな、草生したあばら屋がありました。それでも人が暮らしているのか、煮炊きの煙がほそく上がっておりました。少年はようやく思い出しました。あそこには、燃え残ったろうそくや、こぼれた蝋をかいあつめてあきなっている、まずしい老夫婦がくらしているのです。
「くずのような蝋をあつめて、ほそいろうそくを作っているんでございますが、そこに赤く絵がかかれているのでございますよ。魚だとか貝だとか」
「それを、人魚の子が書いているんだって?」
「実際に見たことはございませんけれど……」
 ちいさく頭を下げて、女は、落ち葉のつもった路を帰っていきました。
 少年は、しばらく、ぼんやりとたったままあばら家のほうを見下ろしました。
 ほんとうに人魚がいるのかしら。
 そんなものが、ほんとうにいるというのかしら。
 ―――だとしたら、深い海の底、竜宮城に遊んでくらしている、という風に言われる人魚が、どうして陸の上にいるというのかしら?







 少年は、それからしばらく、女に聞いた『人魚の子』の話が、頭をはなれませんでした。
 鉛色のつめたい波の底には、たのしい海の都があって、そこには人魚がくらしていて、乙姫様につかえて楽しく暮らしているという。人魚は藻草のような髪をして、水の深みのような眼をして、膚はまっしろな色をしているのに、腰から下は金銀のうろこに覆われたお魚になっているのだという。
 まさか、自分がほんとうに人魚の子どもだとは、少年も信じたことはありませんでした。
 けれど、ほんとうに人魚がいるというのなら、一度でいいから会ってみたい。どんな姿かたちをしているのかを見てみたい。
 そう思いつめて、ある日、少年はろうそく売りの老夫婦が働きに出るころを見計らって、こっそりとあばら家を覗きにいったのです。
 板葺きの屋根に石をのせたあばら家は、すげのしげったどぶ川のそばに、ひっそりと立っておりました。
 かごが表に干されていて、土間には水の洩りそうな水がめが置かれていて、少年は、やっぱり全部が自分の思い違いかと思いました。だあれもいないように思えたのです。蝋を溶かす匂いがしました。どぶ川には竹を編んだものがしかけられていましたが、中を覗いてみても、一匹のうなぎもかかってはおりませんでした。
 咲き残った石竹がいちりんだけ、きれいな朱鷺色の花を咲かせていました。少年はがっかりしてしまい、やっぱりもどろうかと思いました。けれどそのとき、がたんと、音がしたのです。
「!? 誰だ?」
 ちいさな手が、びっくりしたように家の中にひっこむのが見えました。人がいたんじゃないか! 少年は、あわてて駆けもどり、家の中をのぞきこみました。
 ―――灰色の木の格子窓の向こうから、ほんの少しだけ、潮の匂いがしました。
 中にいる誰かは、筵をかぶっていましたが、着物のはしが見えました。麻のかすりの着物のすそと、それと、
 ……もみじのようにきれいな赤色の、薄くかさなった魚の尾。
 おもわず少年が息を呑むと、尻尾はすぐにむしろの中に引っ込みました。目がなれてくるまで、家の中は見えませんでした。けれど、次第に中が見えてくると、土間に蝋をとかすための窯が置かれている様と、ほんのちいさな板敷きの間が、見えてきます。
 おそらくは丹でも朱でもなく、丹土の赤をいれたちいさなかわらけ。ちらばっている筆と、ほそいろうそく。そこには魚や貝の絵が描きかけてありました。そうして、ながいながい時間がたって、筵のはしが、そろりとちいさくめくられました。真っ白もかぼそくもなく、水仕事で荒れた、ちいさな手でした。
「……だれ?」
 きれいなとび色の、むしろの下から少年を見ました。おおきな目には、不安と好奇心が、いっぱいに充ちておりました。


 それが、少年と人魚の出会いでありました。








 長い長いこと時間をかけて、人魚の子の警戒の気持ちをとかせた少年は、なんとか人魚の子に顔を見せてもらうことができました。人魚の子は、男の子でありました。栗色の髪ととび色の目。そうして、麻の着物を着せられた人魚の子は、両腕で這って表まで出てくると、濡れ縁のあたりにすわりました。男の子らしくなく裾の長い着物の裾から、真っ赤な尻尾が覗いておりました。
 人魚は、金や銀のような、うつくしいうろこを持っている……
 けれど、茶色い髪の人魚の子は、まるでもみじのように真っ赤な尻尾と、真っ赤な鱗をしておりました。きらきらひかる鱗は朱色と桜色のふたいろをしていて、ごくごくたまにしか捕まらない、竜宮からのお使いのような桜鯛に似ておりました。
「おまえ、どうしてここに来たんだ?」
 人魚の子は、うたぐりぶかく聞きました。
「どうしてって… オレは港の船主の息子だけど。お前が絵を描いたろうそくを弁天様のお堂にあげると嵐にあわないっていう話を聞いて、不思議に思ってここにきたんだ」
 半分は嘘の話で、少年はみやぶられないかとひやひやしましたが、素直な性格らしい人魚の子は、「ふうん」と納得をしたような顔をしました。
「そうなんだ、そんな話、ちょっと聞いた気もするけど…」
「お前こそ、なんでこんな場所に? 人魚は海の底に住んでるんじゃないのか?」
「わかんない。おれ、拾われたんだ。15年前に、あそこの石段に棄てられていたんだって」
 人魚の子の指差す先は、木の葉に埋もれたお堂の石段でありました。おどろく少年に、人魚の子は、ちょっと困ったように笑いながら、言いました。
「そこをひろってくれたのがじいちゃんとばあちゃんで、それからずっと、おれ、二人の子ども代わりに育ててもらってたんだ」
「そう、なのか……」
「でも、じいちゃんとばあちゃんは、お前が外を歩くと危ないよっていうし、だいたいおれ、歩けないしね」
 人魚の子が尾をうごかすと、真っ赤な鱗とひらひらした尻尾が、きらきらと光りました。
「だから、暇つぶしにろうそくに絵をかかせてもらっていたんだけど、そうかあ、あれをあげるといいことがあるのかあ……」
 なんだかしみじみとうれしそうに言う人魚の子に、少年は、なんだか胸のどこかがぎゅっと握り締められたような気持ちになりました。
「お前… どんな絵を描いてるんだ」
「見るか?」
 手を伸ばしてみせてくれたのは、たきつけにするような木の板でありました。おそらく、紙を買ったりするほどお金がないのでしょう。そこに描いてあるのは、不思議なすがたの魚や貝や、見たこともないような生き物ばかり。おどろいて「こんなの、どこで見たんだ」と聞くと、「どこだろう?」と人魚の子は首をかしげます。
「ううん、なんか、昔から知ってる。大昔に見たのかもな」
「海の底? 竜宮城とか?」
「ええ?」
 人魚の子は、くすくすと可笑しそうに笑いました。
「そんなの、見たことねえ」
「お前、海の底から来たんじゃねえの」
「海は、見たことない」
「え?」
 人魚の子は、ちょっとさみしそうに笑って、尾をゆらしました。先の薄いひれがひらひらとぼたんの花びらのような、かさなりあってきれいな尻尾でありました。
「ほら、これじゃあるけないだろ。ここからほとんど表に出たことないんだ。でも、じいちゃんとばあちゃんがいろいろ魚を買ったりしたら、見せてくれる。あと想像かなあ。ひとりでいるとき、いろいろ考えて、書いてるんだ。こんなものやあんなもの、きっとどこかにあるんじゃないかなって」
 でもやっぱりおれって海から来たみたいだなあ、と人魚の子はうれしそうに笑いました。
「おれが絵を描いたろうそくをお堂にあげたら船が無事になるって、それって、おれのこと、海に住んでる誰かが歓迎してくれてるってことだよな。うれしいなあ。やっぱり、おれって、海の底からきたのかもな」
 ぎゅうと、また胸が痛くなるのを、少年は感じました。
 ―――この人魚の子は、おれよりも、ひとりぼっちだ。
 ひとりでは出歩くこともできない、さみしい山あいのあばら家で、いつもひとりで絵を描いて暮らしている、こんなひとりぼっちの人魚の子に、いったい何を求めていたのだろう。
 そんな風に思って、少年は急にはずかしくなりました。じぶんがまるでわがままで、子どもで、いっぱいのものをもっているのに、たりない、たりないとわめいていたみたいに思えたのです。けれど真っ赤になっている少年を見て、人魚の子には、そんなことは分からなかったようでした。急に心配そうな顔になって、少年のひたいに手を当てて、「どうしたんだよ?」と首をかしげます。
「ああ…… いや、なんでもない」
「ふうん。……あのさ、おまえ、よくこのあたりに来るの?」
「へ?」
 あのさ、と人魚の子がいいました。尻尾の先がぴたんぴたんと縁側を叩きました。
「もしも来るんだったら、その、……また会いにきてくれないか?」
 お前と話してるとたのしいからさ、と人魚の子がいいました。そうして、はにかんだように笑いました。
「おれな、じいちゃんとばあちゃん以外の誰かと話したのって、ほんとうに、ひさしぶりなんだ。だからさ、お前、おれの友だちになってくれないかな」
「いいのか?」
「いいのかって、いいよ。当たり前じゃんか」
 少年に、人魚の子は、早口にいいました。尻尾がぴたんとまた地面を叩きました。
「じゃあ、おれたち、今日から友だち! それでいいよな?」
 強引に手をぎゅっと握られて、少年は、とまどいました。けれど、人魚の子がうれしそうに笑っているのをみると、ためらう気持ちだとか、おどろく気持ちだとかが、とけ去るように消えていきました。
「―――うん、分かった」
 じゃあ、友だちだな、と少年が笑うと、人魚の子も笑いました。それは、少年がいちどもみたことのないくらい、うれしそうな、そして、あどけない笑顔でありました。








 家からほとんど出たことがない、と自分でいった人魚の子は、そういったとおり、ほんとうに物知らずの、何も知らない子でありました。ひとりでは字も読めなければ、算盤なども見たこともないし、それどころか、どぶ川を下った港に何があるのかすらも知りませんでした。
 けれど代わりにゆびさきがとても器用で、藤のつたや細く削った竹を編んでかごをつくったり、また、すすきを編んでふくろうを作ったり、笹の葉で船を作ったりすることが、誰よりも上手でありました。
 それでも、ほとんど何も知らない人魚の子は、少年がいろいろな見聞についてを話してやると、眼をかがやかせて、ときどきは声まで上げて、身を乗り出してよろこびました。きれいな尻尾をびたびたと振っていることもよくありました。少年は、家にある珍しいものや、お膳に出されるおいしい食べ物を持ち出して、人魚の子へともってきてやりました。長崎からはこばれてくるちいさなこんぺいとうや、いろいろなめずらしい形をした有平糖の菓子、また、港に門付けの飴細工職人がきたときは、龍のかたちをした飴などを作ってもらって、人魚の子への土産にしてやりました。人魚の子は眼を丸くして、それから、声を上げてよろこびました。
 けれど、人魚の子がいちばん喜んだことは、少年が、人魚の子を表に連れ出してやったことでした。
「見ろよ! あそこなんかいる! なんか枝の上飛び回ってる!!」
「あれは栗鼠だぜー? そんな珍しくもないぜ」
「あ、飛んだ! 枝から飛んだ!」
「ちょっ、落ち着け! 落とすだろ!!」
 少年は人魚の子を腕にだきかかえて、人の少ないそこいらを、よく、歩き回ってやりました。とくに魚藍観音のお堂のあたりは人魚の子のお気に入りで、少年は、秋がだんだんに深まって行くころあいを、よく、人魚の子を抱きかかえて、石段を上り下りしてやりました。
 人魚はもとから小柄なのか、それとも、貧しい暮らしで満足にものを食べていないからなのか、身体は軽くて、少年の腕でもかんたんに抱きかかえることができました。そうやって横に抱いた人魚の子をかかえて、少年は、いつも魚藍観音のお堂のある、山のいただきまで登りました。そうして竹の水筒にいれてきた白湯などを飲みながら、そこらから摘んできた山ぶどうの実を食べたり、すいばのすっぱい茎をかじったりしました。そうして二人で見下ろす海は、やっぱり鉛色の波を水平線のむこうにまで立てていて、無数の白い波頭が、白い兎のようにとびかっておりました。
 腐りかけたお堂の裏にすわって、少年も、人魚の子も、遠くの海をながめて、いろいろなことを話しておりました。天子さまのおわす都のこと、いくさのこと、遠い北の国に住んでいる文身をした人々のことや、もっと遠くからやってくる紅毛碧眼の異人たちのこと。
「オレさ、目の色も膚の色も、ふつうと違うだろ」
 あるとき、少年は、人魚の子にそう言いました。
「顔とかみたことないんだけどさ、これっておふくろ譲りなんだってさ。オレのおふくろは青い眼に白い膚の異人で、だからオレもこういう目とか膚に生まれついたらしい」
「そうなのか…… 珍しいの?」
「そりゃ、お前にはわかんないかあ」
 めちゃくちゃめずらしいよ、と苦笑しながら、少年は人魚の子の頭を撫でてやりました。
「異人さんの国って、どんなところなんだろう」
 人魚の子は、首をかしげます。
「お前みたいなのがいっぱいいるのかな。髪がそんなでさ、目がそんなで…」
「どうなんだろうなぁ。想像もつかないや」
「どんなところかな? あったかいのかな、寒いのかな。遠い場所だと言葉もちがうっていうけど、みんな、どんな風にしゃべったりするんだろう」
「ううんと、オレが知ってるそっちの言葉って、ひとつだけだけどなあ」
「知ってるのか!?」
 眼をきらきらさせながら身を乗り出す人魚の子の手の下で、けれど、みしり、という妙な音が響きました。
「っ」
「わっ!?」
 腐った縁が、抜けたのです。
 そのままうっかり体勢を崩した人魚の子は、頭から縁からくずれおちて、したたかに地面で肩を打ちました。少年はあわてて立ち上がり、「大丈夫か!?」と肩を抱き上げてやりました。人魚の子は、照れたように笑いました。
「ちょ、ちょっと興奮しすぎたかな……」
 しっぱいしちまったぜえ、と苦笑するくちびるが切れて、血が、にじんでいました。裾がわれて、桜色や水紅色の鱗が光る尾が、半ば以上までのぞけていました。ひらひらとした尾。削った水晶のようにきらきらと光る鱗に覆われた半身。
 ―――陸の上だと、こいつは、どこへもいけないじゃないか。
 ふいにそんな風な思いが胸を刺して、少年は、ぐっと息を詰まらせました。
 二本の足がある人間だったら、どんなに不器用だって、こんな風にころげおちて、くちびるや肩を打つこともありません。ひとは、歩けるように出来ている。けれど人魚はそうではない。陸に揚げられた魚は、どんなにせいいっぱいに頑張ったところで、自分の力では歩くことすら出来ない。
 少年がうつむくと、透きとおる緑の髪が眼を隠す。人魚の子は眼をまたたきました。「どうしたんだ?」と指で少年のひたいに触れました。
「お前もどっか打っちまった?」
「……ううん」
 少年は、首を横に振りました。
 そのまま、身体を前に出して、人魚の子の肩をぎゅっと抱きしめる。細く痩せた肩でした。そうして、くちびるについてしまった血を舐めました。きょとんとした顔の人魚の子から身を離し、そして、着物の裾をかきあわせて尻尾を隠し、座りなおさせてやりました。
「近くに水が湧いてるとこがある。てぬぐい、濡らしてきてやるから」
「あ、うん! ありがとな」
 人魚の子は、すぐに、笑いました。うれしそうな笑顔でした。そうではなく、ほとんど、嬉しそうな顔をしないことのほうが、少ないような子であったのですが。
 まだ実をつけない南天の木の陰で、岩の割れ目に水が沸いている。そのはずだったのですが、行ってみると水は枯れていて、濁った泥に落ち葉が落ちておりました。少年は立ち尽くしました。どうすればいいのか、分からなかったのです。
 くちびるに指で触れると、舐めた人魚の子の血の味が、くちびるの味が、思い出されました。人魚の子の血は、やはり、苦い潮の味でありました。あんなに屈託のない、明るい子どもであったとて、やはり人魚は人魚であったのです。ぽろりと涙がこぼれました。

 ―――オレは、
 いままで、一体何をひがんで、何を考えて、生きてきたというのか。

 少年がこぶしで眼をこすっていると、ふと、かさりと音がしました。
 眼をあげようとして、視界の端に、三つ鱗の地紋の小袖の裾が見えました。ぬめりと光る白絹に、銀色の地紋が浮いていました。足袋も履かない素足が白く、塗りの下駄の鼻緒も白く、その裏は、湿った落ち葉の積もった石段を登ってきたはずなのに、すこしも汚れていない。五本のまろやかな指の先で、爪は、削った青貝をはめたように、青白い真珠色に光っておりました。
「……君は、海の底がどんな場所か、知っているかい」
 ふいに、頭上から、声がしました。あまい掠れを含んだやわらかい声。やわらかでたおやかな、女の声。
「北の海の果ての上は、それはつめたくて、さみしいところ。月が金色に満ちるころには、波間に顔を出してみても、どこまでも鉛色の波がうねっているばかりの、物凄いような、哀しいような、景色ばかりが続いている……」
 少年は、声が出せなくなりました。それどころか、指一本を動かすことすら。
 目の前に見えるのは、足だけでした。魚の腹のように白い足と、玉虫色の塗りの下駄。青貝のような爪をした、
 ……あきらかに、人ではないものの、足。
「それでもね、波の上ならまだましだ。水の下はもっと昏い。どこまでもどこまでも潜っていくと、すぐに光も届かなくなる。潮は苦くて冷たくて、あたりは暗くて、おぼれた女の髪みたいな海藻が森になっているだけ。沈んだ船から金銀のかざりをあつめたっておんなじだ。ぴかぴか光る宝物、水晶や瑠璃の珠をあつめたって、珊瑚や鼈甲の櫛をあつめたって、すこしも僕の身体をあたためてはくれない。さみしくて、話す相手がほしくって、漁師や海女を招いてみても、人間は水にひたすとすぐに死んでしまう……」
 だから、と女の声が、つぶやきました。
「あの子にまでは、そんな思いはしてもらいたくなかった。人の世はにぎやかで楽しくて、そうして、血のあたたかい人間は情に厚くてやさしいというもの。冷たくて暗い海の底で、舌の無い魚だけをあいてに日がな暮らすんじゃなくって、やさしい人間に愛されて、あの子には幸せになってもらいたかった」
 まるで、海の底にいるかのように、手足がつめたく痺れていて、舌すらわずかも動きませんでした。
 視界に手が現れて、ゆっくりと、少年の顎に触れました。まるで、真冬の海のように、冷たい指でした。
「遠い異邦の血を引く子。僕の愛しいあの子に、やさしくしてくれて、ありがとう」
 ―――ありがとうね、とささやく声に、慈愛と哀しみとが、二つながらに滲んでいました。
 そうして、少年は、我に返りました。
 当然のように、そこには誰の姿もありませんでした。無論、三つ鱗の白絹に身を包み、青貝の爪に塗りの下駄を履いた姿など、どこにも見当たらない。
 けれど、先ほどまで枯れていたはずの石の水盤には、透き通る水が滾々と湧き出し、地面をしとどに濡らしておりました。そうしてそれは確かに清水であったのに、そこには濃厚な潮の香りが、苦く強く、漂っておりました。

 
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