2.


 いったい、やがて、誰が聞きつけたものでしょうか。
 山のお堂に祭られている魚藍観音を信心すれば、海難に会うことがない、嵐で船が沈むことも、凪に迷った船の船乗りがひからびて死ぬこともない、という話が広がったのは。
 人々は皆、いつしか、山のお堂の観音様を、たいそう信心するようになっておりました。そうして、そのご利益があるのは、観音様だけではない。そこのお堂に紅い絵の入った蝋燭をあげ、その燃えさしをもっていれば、決して海で難儀をすることはないと、そんなことを皆が信じるようになったのです。
 蝋燭やの老夫婦が売る、人魚の子が絵を描いた蝋燭は、飛ぶように売れました。
 伴侶が異国へと旅立つという、商売のために遠くへと海を渡るという、人買いが娘を海の向こうへ連れて行くという。
 紅いろうそくをあがなう人々の思いはさまざまでありましたが、その心がなんであれ、人々は皆紅い絵のあるろうそくを求め、山の上のお堂へと納めるようになりました。他のろうそくではご利益が薄いというので、人魚の子が絵を描いたろうそくは、それこそ飛ぶように売れました。
 老夫婦はおかげで、次第に豊かになりました――― けれど人前に出ることもなく、ひとり、いじらしくろうそくに絵を描いていた人魚の子を知るものは、ほとんど居もしなかったのです。
 そうして、船主の少年その人は、数少ないそのようなものたちのひとりでありました。
 いままで暇な時分には、老夫婦の眼を盗んで逢瀬をすることもたやすい。けれども、このように名声が高くなってしまっては、それも無理な話でありました。おりおりに疲れた手を休めた人魚の子が、疲れた眼をこすっていても、こわばった指の痛みに顔を曇らせていても、少年に出来ることはほとんどなかったのです。それでも少年は、幾度も幾度も、人魚の子に言ってございました。
「なあ、この家を出て、オレの家に来いよ。そうしたら、お前に楽をさせてやれるよ。三食ちゃんと食べさせてやれるし、そんな硬くて冷たい土間に、わらを敷いて寝たりなんてしなくてもよくなる」
 けれど、そのたび、人魚の子の答えはいつも同じであったのです。
「でもさ、そういうことになったって、白いお飯が三食食べられるのも、綿の寝床でねむれるのも、おれ一人だけだろう? じいちゃんとばあちゃんを置いていけないよ」
 優しい子だ…… と少年は思いました。けれど、それはおそらく、少年が思っているような優しさとは、まったく別の種類のものだったのです。
 
 夜中になるたび、山の魚藍観音のお堂には、誰かがささげたろうそくが、きっと焔をゆらしておりました。港に住まうものたちは、いつしか、その灯りをたよりに船を動かすようになりました。その灯をみれば、もう、船が難破することはない。沈むこともなければ、船乗りたちの無用な争いで誰かが水雑炊を使わされることもない。
 皆は、山のお堂への信心を欠かさなくなりました。お堂には灯が絶えることもなく、誰かが切ったみずみずしい花も、お供えの干し魚やあわびが尽きることもない。
 けれど、誰も人魚の子についてを知りませんでした。
 おそらく、知りたいとも思わなかったのでしょう。
 
 なぜなら――― なぜなら。


 そうしてやがて春が過ぎ、秋が過ぎ、浜辺の浜茄子が、真っ赤な実をつける季節となりました。
 はまなすの実は、おどろくほど美味しいってわけじゃない――― と、その日、少年は思っておりました。
 けれどはまなすの真っ赤な実を食べると、よくよく目に効くといわれている。証拠に見張り台に上る船乗りたちは、みんな、よろこんで浜茄子の真っ赤な実を食べる。だから、人魚の子にもいいだろうと思ったのです。そうでなくとも真っ赤な実は珊瑚の珠に負けないくらいきれいだ。まるで暮れて行く太陽のように真っ赤できれいだ。
 いつものように裏に回り、格子の窓から呼びかけると、文机にむかっていた人魚の子が眼を上げました。そうしてひどくうれしそうな顔をして、「ひさしぶり」と言いました。
「今日も絵を描く仕事なんだ……」
「じいちゃんが言ってた。もうじき鯨を狩る季節になるから、海で死ぬ人が増えるって。だからたくさん書いておいたほうがいいんだって」
 休まずに動かす手が痛そうで、少年は、少し顔をしかめました。
 手に持つ筆は、馬の毛をあつめた竹の筆。皿に溶かした丹土と臙脂。人魚の子は一本一本のろうそくに、心を込めて、海の生き物を書きました。貝や蟹のようなどこででも見かけるもの、もっと深いところでなければ見られないような奇怪な姿のもの。
 どうしてか人魚の子にそういったものが描けたのは、とても不思議なことでした。この子は海を見たことがない。山のお堂へ登る階段に棄てられて以来、一度も海を見ないのです。
「……なあ、ちょっと休みにしたら?」
 なんだかたまらない気持ちになって、少年は、そう言っていました。
「海を見せに行ってやるから…… きれいだぜ。浜茄子に真っ赤な実がたくさんついていて」
「ほんと!?」
 人魚の子は一瞬顔を上げかけて――― けれど、それはすぐに曇ってしまう。側にはまだたくさん、無地のろうそくがあったのです。
「うん、ごめん。今度行く」
 人魚の子はそれに気づき、そうしてそう思われたことにも気づいて、ちょっと無理をした風に笑いました。
「大丈夫、海は逃げないって。全部やったらちゃんと行く。連れてってくれるよな?」
 人魚は歩けない。足のかわりになるものが、ひらひらときれいなひれとうろこばかりだからです。少年は、「うん」と頷きました。―――他に、方便がなかったのです。手渡した浜茄子の真っ赤な実が文机に置かれている紅さが、なぜだかひどく目に付きました。
 冬になれば、海は荒く、怖くなる。人々はそれだけおおげさに騒ぎまわり、はしゃぎまわるようになる。それはどこでも同じことで、この港とて例外ではないのでした。悄然として町に戻った少年を迎えたのは、大きな船から、どこだかから運ばれてきた檻が下ろされている光景でした。
「さあさ、見ておいで、聞いておいで! 見るは極楽見られるは因果、一目で寿命が千年延びる、はたしてこいつは極楽境ってやつだぁ!」
 派手な呼び声をしている男を見ていると、なるほど、鉄の檻の中に入っているのはおそろしい大蛇や、虎斑の入った山猫、それにどこから来たのか見当もつかない、体中に縞のある白馬であったりしたのです。人がごったがえしてがやがや、わいわい。けれど、その中のひとつをみて、少年は、ぞっとするのを感じました。
 ……そこにいるのは、人間だったのです。
 真っ白な髪と真白な膚、ひとみの色は煙色。元は真白だったんだろう着物が薄汚れておりましたが、それでも、その子どもが白子であるということは一目でわかりました。彼は… おそらくは少年だったのでしょう… 悲しそうな、醒めたような眼で、人々を見回しておりました。
「北の海から来た真白な人間だよ! 見てご覧この髪この膚この目の色! 珍しいだろう!」
 がなりたてる客引きの男が、ふいに、少年のほうを振り返りました。そうして笑う、なんとも嫌な感じの笑い方でした。
「でも、中身まで真白かどうかは、お客様が自分でお確かめだ。下の毛も白いのか、アソコの中も白いのか、どうだい、確かめたくはないかい、お坊ちゃん?」
「……!!」
 少年は、たまらないような気がして、逃げ出しました。


 そうして家に戻った少年は、すこしばかり、熱を出しました。
 葛湯だ、薬だ、と騒ぐ家人をほうっておいて、少年はひとりで部屋に戻りました。そうして夜具にしっかり包まっても、眠られません。訪れる悪い夢は、きまって同じ内容でした。
 それはあの人魚の子が、柔和しい少年が、鉄の檻に入っている夢でした。
 きらきらした桜色や鴇色のうろこが、やわらかいひれが、すべてむき出しに一目にさらされておりました。痩せた肩や腕の辺りも。そうして、人魚の子が悄然とうつむいていると、あの呼び込みの小男が、縄を引っ張ってむりやりに顔を上げさせて、金切り声で叫ぶのです。
《さあさあ、見てご覧。世にも珍しい人魚だよ。歌は極上お肉は珍味、見て触って寿命が100年、犯して喰らってさらに1000年延びるってぇ寸法だ。どうだい、どうだい、そちらのお兄いさんも、そちらの旦那も!》
 人魚の子はこちらを見るのです。そうして、真珠みたいな涙をひとつぶ、頬から流す。
《……人間の世界は、やさしくてにぎやかで、しあわせなところじゃなかったのか?》
 そうして少年は、寝汗にまみれ、悲鳴を上げて眼を覚ますのです。
 少年に母御はありませんでしたが、面倒を見てくれる子守女はおりました。女は決して少年に親しかったわけではありませんが、それでも、陰日なたなく親切に立ち働いてくれてはおりました。だから、少年がその話を聞いたのは、やっぱりその子守女が、わざわざ干した貝を入れて作ってくれたかゆを持ってきてくれたときのことでした。
「まあ坊ちゃま、ご存知ですか。今、めずらしい旅芸人がやってきているんですよ」
「めずらしいって、檻に入れたいろんな動物を見せてくれるやつか?」
「ええ、ええ、そうですもの」
 女はほうじ茶を作ってくれるつもりか、火鉢で番茶を焙りながら、言いました。
「けだものなんぞは一度見たらもう退屈だと思うのですけれども、あの芸人はちょっとばかり変わっておりましてねえ。実は物売りじゃあないかと旦那様が」
「……」
 たしかに、虎の爪だとか、鹿の腺だとかは、薬として高く売れる。このあたりだとあまり聞かないが、中には人の肝を干したものを、労咳の妙薬と信じるものもいる。武将の娘の中には、若い娘の血を絞って膚の若さを保ったというものすらいるという。
「でも、あの芸人は、次に船が出るときには、また町を出て行くつもりだとか。みやこへ行って一山を当てるつもりだとかそういう話も聞きますけれどねえ」
「一山当てるあてがあるってわけか」
 女は、手を止めました。
 吹き零れそうな鉄瓶を火から話し、そこに茶色く炒られた茶を入れる。香ばしい匂いが立ち込める。
「―――なんでも、あたしのせがれが聴いた話なんですけれども」
 女は、ためらいと好奇心の交じり合った声で、なんとも複雑そうに言いました。
「この街のどこぞに、人魚を飼っている家があるというんだっていうんですよ」
「……!?」
 ああいやだ、おっかない、と女は言いながら、熱い鉄瓶の中身をきゅうすにうつしました。
「人魚がいると不吉なことが起こるって。なんにもない凪で船が沈んだり、船乗りが身投げをしたりするのは、みいんな人魚のせいだっていうじゃないですか。おっかない話ですよねえ」
 そんなわけがない。
 少年が初めに思ったのは、そんなことでした。
 あの人魚の子は、健気な少年は、いちどだってそんな悪さはしていない。それどころか、あれが心を込めて絵を描いたろうそくを、みんなが勿体無がっているくらいじゃあないか。
「でも、見世物にするくらいだったら、こちらの功徳になるっていうんですよ。あたしも一度は見てみたいですねえ、人魚とやらを」
 面白い話ですよねえ、と女は言いました。もう、言葉は少年の耳には入っておりませんでした。



 四角なかたちをした鉄の檻は、夜になっても、ふきさらしの外に置いてありました。
 少年が家を抜け出したとき、見世物小屋の檻は外におきっぱなしで、まだらの蛇も、山猫も、身体を縮めて眠っておりました。月がおおきな夜で、道に落ちた小石が銀のように光っておりました。
 少年が走ると、草履の裏が音を立てて、ざわざわと枯れ草が風に揺れる音に交じり合いました。あの蝋燭売りの老夫婦の家は、人魚の子の住む家は、街の外れ、観音様のお堂の下にある。あまり通いなれた道だから、月がなくても平気なくらいでした。
 けれど少年がたどりついたとき、そのみすばらしいあばら家には、まだ、灯りが着いたままだったのです。
 酔漢らしい笑い声、がなり声、野卑な大声。それを聞いてすぐに、少年は、それが見世物小屋の小男や荷運び人夫であると気がつきました。
 草陰に隠れた少年に、誰も気づくはずがない。少年は木陰に隠れて裏に回り、人魚の子の寝起きする場所の窓を覗きました。木を組んだ格子窓の向こうで、人魚の子は、おどろいたことにまだ眼を覚ましておりました。その目が真っ赤に腫れておりました。少年の名前をおどろいたように呼んで、それから人魚の子は、「どうしたんだ?」と笑いました。無理をしているような笑い方でした。
「そっから出られるか?」
「出る? ……裏口があるけど」
「そっか。じゃあ、オレがそっちに回るから。お前は寝具のなかに、まだいるようにごまかせるように、何かをつっこんでおけ」
 少年の性急な口調に圧されたのか、人魚の子は、こくりと頷きました。そうして少年は裏口へ回った。―――やがて、腕で這うようにして人魚の子が出てきたとき、少年は、寝具ごと抱えるようにして、人魚の子を抱き上げました。どうしたんだ、なんなんだよ、などと人魚の子は言っていたようでしたけれども、少年は構いませんでした。人魚の子を抱いたままで、月が石くれを銀に変える道を、走りました。
 ススキの茂った原を過ぎ、すでに真夜中で人のない街中を通り、さらに、茨だらけのハマナスが実をつけたあたりを過ぎると、そこはもう、鉛色の冷たい海のほとりだったのです。そこでようやく下ろされて、人魚の子は、息を荒くしている少年を、驚きの目で見つめました。
「いったい、なんなん」
「―――逃げろ!」
 叩きつけるように言われて、人魚の子は、眼を丸くしました。
「お前は見てないと思う。でも、今港に、見世物小屋が来てるんだ」
 少年は、押し殺した声で言いました。さもないと、怒鳴ってしまいそうだったのです。
「あいつらは珍しい生き物を集めている。珍しかったら、人間だって構わないってくらいだ。全身が真白な人間の子どもも、檻に入れられて、見世物にされていた」
 ―――そう、そして、見世物どころか。
「なあ、逃げろ。ここからなら泳げる。お前はどこにでも行けるんだよ。あんな残酷な扱い、される必要なんてないんだ」
 少年は切々と訴えました。けれど、そうやって言われている人魚の子は、とび色の眼をまんまろに見開いて、じいっと少年を見ているばかりでした。
「……頼むから……」
 少年はぽろりとひとつぶ涙を落とし、それにきづいて、慌てて顔を袖でこすろうとしました。
 けれど。
「待って」
 その手をやわらかく圧しとどめたのは、人魚の子でした。
 砂に座った人魚の子が、やわらかく笑って、その腕で座り込んだ少年の肩を抱く。そうして頬の涙をそっと舐めとる。くちびるは乾いた感触がして、けれど、その舌はあたたかく濡れた感触がしました。
 おもわず呆然とする少年に、人魚の子は、笑いました。なんだかひどく哀しそうに。
「売られるとかって…… 知ってたよ、おれ」
「!?」
 人魚の子は淡々と言いました。着物の裾が割れたあたりから、そのうろこが、削った紅水晶のように、きらきらとひかっておりました。
「あの人たちは何回もうちに来たし…… ろうそくを売るのと桁が違うくらいのお金をくれるって言ってたのも確かだ」
 売られるのは本当は嫌だけど、と少年は苦笑しました。
「でも、そばに置いてください、それだけはやめてください、っていっても、じいちゃんもばあちゃんも聞いてくれない。たぶん、よっぽどお金が欲しいんだろうな」
「そん、なの……!!」
「毎日白いお飯を食べたい、羽の布団に包まって眠りたい、漆塗りの柱がある家に住みたい、って言われて、どうしたらいいのかおれには分からないよ」
 でも…… と人魚の子は言いました。
 その声が震えている、と少年は気づきました。人魚の子がうかべていた微笑みが、くしゃりと崩れました。
「でも…… おれは、どこにもいけない」
「なんで……」
「だって、おれは歩けない。ろうそくに絵をかくことは出来ても、他にはなんにもできやしないよ」
 ゆっくりと尾を動かすと、月影にきらきらとはえる様は、まるで蝶々の羽のように美しいものでした。
 けれど、それは、地上にあっては、ただの無用な長物でしかありませんでした。どれだけうつくしい尾ひれを持っていても、宝石のような鱗を持っていても、土の上では、何の役にも立ちはしない。
 だったら、と少年は思いました。
「だったら、海に行けばいいんだよ! お前はもともと海から来たはずだろう……?」
 ためらいを浮かべて、動かない人魚の子に、焦れた少年は、半ば無理やりにその身体を抱き上げました。長い尾ひれを入れれば少年よりも背丈があるはずなのに、その身体は軽い、やせて華奢なせいか、見た目よりもずっと軽く感じられる。
 少年が草履も脱がず、まっすぐに海に入っていくと、水の冷たさが針のように膚を刺しました。丸く大きな月を浮かべて、海はどこまでも鉛色で、うねる波が銀やその他の金物の色に、ものすごいように光っておりました。波打ち際で泡を咬んでいた波が、引き返しては、少年の脚を抱き寄せようとする。腰まで水に使ったあたりで、「ほら」と言って、少年は人魚の子をおろそうとしました。
 きれいな桜色をした、薄い尾ひれ。
 水に入ればどれだけ映えることか。どれだけ自由に泳げることか。まっすぐにこの海へと行き、そうして帰ってこなければいい。そうすれば人魚の子は自由になれる。あんな窮屈な鉄の檻に、けだものの仲間のように入れられなくって済む。
 ―――そう、少年は、思っていたのですが。
「……いや、だ」
 よじれた声が、耳の、すぐ傍で聞こえました。
 少年が腕を放そうとしても、人魚の子は、全身の力で少年の身体にしがみついておりました。いやいやをするように首を振り、二本の腕で少年の体にすがりつく。尾ひれを半ば少年の身体に巻きつけて、ほとんどそれは、水に入ることを怖がっているようですらありました。
 ぽろぽろとこぼれる涙が、少年の頬までも濡らしました。どうして、と少年はつぶやきました。どうして、こんなことに。
「海はきらい。……海は怖いよ」
 人魚の子が喉から押し出す声は、ひどくよじれておりました。
「海の中には、誰もいないんだ。誰かが頭を撫でてくれることも、抱き上げてくれることも、手を握ってくれることも、ぜったいにないんだ」
 海はこわい、とまた人魚の子は言いました。
 その口ぶりが誰かにひどく似ていると、頭のどこかで、ぼんやりと少年は考えました。
「苦くて冷たい水なんてきらいだ。それに、海にいったら、もう誰にも逢えないよ」
 おまえにも、と人魚の子は言いました。
「海の底には、おまえがいないじゃないか。いちばん好きな人といっしょにいられないなんて、そんなとこ、行きたくないよ……」
 行きたくない、と人魚の子はいやいやをするように首を横に振りました。
 抱きしめた身体はあたたかくて、けれどそのくせ、腰から下は人間ではなく、光る鱗を持った魚の尾ひれになっている。少年は腰まで海に浸かったまま、何がなんだかわからなくなりました。泣き出したいような気持ちでした。
 少年がもっと大人だったら、それも力も智慧もある大人だったら、どうしたらいいのか分かったかもしれない。人魚の子の願いをかなえられたかもしれない。けれど二人はただの子どもで、そうして、二人で逃げるということすらできないくらいだったのです。
 ―――ほんとうに少年は、それに人魚の子も、どうしたらいいのか、それすら分からなかったのです。




 ……数日後、人魚の子は、けだものをいれるような鉄の檻に入れられて、はるばると遠くへと売られていきました。




 その、夜のことでした。
 蝋燭売りの老爺が店じまいをし、眠ろうとしている時分に、とんとんと戸が叩かれました。なんだろうと思って外に出てみると、そこには、港街の船主の末息子が、思いつめたような顔で立っておりました。
「はい、はい。どうなすったね、坊ちゃま」
「……ろうそく、を」
 ろうそくを下さい、と彼は言いました。
「こんな遅くに。どれだけ危ない航海を控えてらっしゃるんですか、坊ちゃま」
「……ううん」
 少年は特別に何も言いませんでしたが、老爺は、売れるものなら売ってしまいたいと思っていたものだから、最後に人魚の子が色を塗った蝋燭を、箱の中から取り出してきました。その蝋燭はただべた一面に真っ赤に塗られているだけで、何の絵も書かれておりません。それだけの時間を、老夫婦は、売られていく子に与えなかったのでした。
「こんなものでよろしいのなら」
「ああ、分かった」
 これを代わりに、といって少年は、銀のつぶてを置いていきました。ろうそく数本にはあまりに大きい対価に、内心でひどく喜びながら、老爺は、少年にすべてのろうそくを売ってやりました。
 それだけといえば、それだけの話だったのです。
 ―――だからその夜、だれも見たことのないような嵐が起こっても、まだ誰も、紅いろうそくのことなど、考えもしませんでした。
 けれど、その日の嵐は、それこそどれほど長く海に生きていた船乗りであってもみたことがないほどのものでした。すべての船が大きな手のひらに握りつぶされたようにぐしゃぐしゃになり、いやおうがなしに塩辛くて苦い海の底へと引きずりこまれていきました。人魚の子を乗せた見世物小屋の船も、例外ではありませんでした。

 それから、奇妙な出来事が、町に続くようになりました。
 山のお堂に、誰も参拝などはしないのに、ろうそくの火が灯るのが、見られるようになったのです。
 その灯を見たものは、かならず、海の災難に遭いました。今までは燃えさしをもっているだけで海難に遭わなかったものが、今ではまったくすべてが逆になり、お堂に灯る灯を見ただけで、きっとその人の乗った船は沈むようになりました。山のお堂はいつしか町の鬼門となっておりました。けれど、それゆえ誰も灯をあげることなどしなくなっても、きっと、夜になれば山のお堂に灯が灯されたのです。
 どれだけ月の明るい晴れた日であっても、山のお堂に灯を見たものがあれば、たちまちものすごい嵐となりました。どんな船でも沈んでしまうほどのひどい嵐でした。そういうときの海はものすごく、黒い波が泡を噛んで荒れ狂い、船の帆をへし折り、舷の材木を全てへし折っても、暗い暗い闇の向こうには、きっと山のお堂の灯がちらついているのでした。中には、草木も眠るほどに夜も更けたころあいに、ちらちらとゆらめく灯が、お堂のある山を登って行くのをみたことがあるというものもおりました。
 誰ともなく、それは人魚のたたりだということになりました。ろうそく売りの老夫婦はそうそうに店をたたみ、どこか遠くへ行ってしまいました。そうしてさらに二年、三年も後には、町そのものが見る影もないほどさびれはて、ついにはなくなってしまいました。
 それでも今も、秋にはハマナスが真っ赤な実をつけます。冬には波間にうちつけた波が白い泡を咬みます。
 そうして月の明るい夜には、ものすごいような波が、うねうねと水平線の彼方まで、鉛色に続いているのです。








「……それで、終わりか?」
「ああ、これで終わり」
 ひどいBadendだな、と男がぼやくと、少年は、ちょっと肩をすくめるようにして笑った。どこかしら幼い風の笑顔だった。
 足を止めた街道の片隅、海を臨む高台の茶屋で、男は片方だけの眼をすがめ、遠くの海を眺める。なるほど確かに北国の海だった。まだ冬というには間があるが、鉛色の波が白く泡を噛み、強い風に木々の葉を毟り取りながら、轟々と海鳴りをとどろかせている。
 男の荷物であるところの薬の包みを面白そうに眺めていた少年に、男はやれやれと肩をすくめた。
「おい、ところで今の話、ちょっと舌ったらずなところがないか?」
「ん?」
「その、人魚に懸想してたお坊ちゃんは、けっきょくどうなったんだ」
 少年はすこし黙る。やや考えるそぶりに首を傾げたりしていたが、やがて、「ひみつ」と言って、ニッと笑った。
「おいおい、そこまで言って《ひみつ》と来るか?」
「いろいろ考えられるだろ。好きなのを選びなよ。後生を嘆いて海に身を投げたとか、町を見捨ててどこぞの廻船問屋で丁稚になったとか」
「夢がないなあ」
「じゃあ、なんだったらいいのさ?」
 男はしばらく考える。そうして、大真面目な口調で言った。
「―――可哀想な人魚を独りぼっちにしないよう、自分も海に入って、人魚になった」
 少年は眼を丸くした。やがて、ぷっ、と吹き出すと、声を上げて笑い出す。
「おっかしいなあ! 薬売りの兄ちゃん、あんた、そういうおとぎ話が好みなのか」
「何事も、最後には救いがあるべきだ。そいつが物語の寸法ってもんさ」
「ふぅん?」
 少年はしばらく眼をまたたいていたが、やがて、笑った。声はやわらかかった。
「―――まあ、あんたみたいなのがいっぱいいたら、この話は、こんなろくでもないオチは付かなかったのかもな」
 言い方がどことなく不可解で、男は眼を瞬く。少年はすぐに別人のように明るい声になって、茶屋の老婆を呼びつける。ぱちんと音を立てて端銭を置いた。男はふたたび海へと眼をやった。
 寒い北の果ての海は、青黒く、また、鉛のような色におおきくうねり、風が轟々と吼えるばかり。呼ばれてきた老婆が「はい、はい、どうしました」と言うのに、男は、「お茶をもうひとつ」と言いつける。
「あれ、お連れ様はどうなすったんですか」
「さあ?」
 男は肩をすくめる。そうして、少年が置いていったもの、端銭だと思っていたものが白い貝殻だったと気づいて、可笑しそうに苦笑した。
 何がほんとうで、何が嘘なのか。
 何百年の時が過ぎても、海はただ轟々と吼え、鉛色の波を、どこまでもうねらせているばかりだ。



 
 
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 小川未明”赤いろうそくと人魚”(1921)より