《4》





 我に仕えよ。
 我を求めよ。
 我を崇めよ。

 ……我を愛せよ。


「……っ、はッ!」
 脳髄が腫れあがるような頭痛の中で、ふいの覚醒を迎え、体が、痙攣するように弓なりに反る。
「―――! ―――ッ!!」
 がくがくと体が震え、もつれる舌が唇から突き出された。音を立てて歯がぶつかりあう。つと、口の中に何かが強引にねじ込まれた。顎をひらかされる。だらだらと唾液が流れる。必死の力で体を押さえつけられた。だが、全身の骨をきしませる衝動、己を構成する繊維すら断ち切りそうな勢いで痙攣する筋肉を、まともな人間の筋力で押さえつけられるはずがない。
 閃光。
 頭の裏を貫く激痛。再び、体が、びくん、びくん、と反った。食いしばった何かが鈍い音を立てた。しばし間があって押し殺したような悲鳴が傍らから聞こえてくる。
「ッ、がっ、……あぐッ―――!!」
 欲しい。
 《あの方》が、欲しい。
 喰らわれるものとしての本能が、被虐の悦びが、血管をめぐる甘く熱いものを沸騰させ、体を熱く苛む。
 どうか。どうか痛みを。どうか牙を。この肉を食み、この痛みを啜るお方の、凶暴なる抱擁を。
 そんなものは違う、そんなもの望んでいない、と、頭の中にほんのわずかに残った理性が、か細く、軋むような悲鳴をあげていた。その声は小さくとも無視できぬ強さで膿み爛れた精神にしがみつく。違う。逃げ出さなければいけない。ここから。外の世界へ。逃げよう、って言ってくれた人が居た。外の世界へ。もう一度太陽の下へ。外へ。外の世界へ。人間として。
 ……もう一度、人間として、生きられる場所へ。


 ただならぬ騒ぎを聞きつけて、ティーダは、うたたねを仕掛けていたソファの上から飛び起きた。隣の部屋だ! 獣の絶叫のような鈍い声。激しい音。布が裂ける音が響き、音を立てて生木が裂かれる。だが、廊下へ飛び出した瞬間、ティーダが鉢合わせしたのは、色石の耳飾をしたバッツで。彼はドアを蹴り飛ばすような勢いで、フリオニールと、そして、《もう一人》のいる部屋へと跳びこんだ。
「フリオニールっ!」
「て、ティーダ……ッ」
 とたん、目に飛び込んできたのは、点滴が倒れ、拘束着が引き裂かれ、そして、白いシーツに点々と赤い血が散った部屋の惨状だった。フリオニールはベットの上の青年を必死で押さえつけようとしていた。だが、今にも折れそうなほど衰弱しきったはずの彼は、普通の成人以上の体力のあるはずのフリオニールを今にも振りほどこうとしている。その動きを押さえつけているものはたったひとつ。ぎりぎりと噛みあわされ唾液の泡を咬んだその口のなかに、舌を咬まないようにだろう、強引につっこまれたフリオニールの指だけだった。
 ティーダは思わずその場に立ち竦んだ。一瞬、何がおこっているのか分からない。だがバッツの動きは数倍も早かった。青年へと飛びつき、その腕を掴む。指が、音を立てて腕に食い込んだ。拘束着を引きちぎった腕をいともたやすく逆手にねじりあげる。生きながら焼かれる獣のような絶叫。
 苦痛の絶叫に顎が開く。フリオニールは咬まれていた手をようやく引き抜いた。とたん、鋭い声で叫ぶ。
「ティーダっ、鎮静剤! そこの箱!!」
「は、はいッス!」
 サイドボードに銀色のケースが置かれている…… ようやく体が動く。とっさに掴み取って、蓋をこじあけながら、フリオニールに手渡す。皮膚がちぎれてだらだらと血を流す指に顔をゆがめながらも、フリオニールはアンプルの中身を手早く注射器に吸い込んだ。青年はなおも暴れるが、バッツの腕はぴくりとも動かない。フリオニールは泣き出しそうな顔をする。
「ごめん、クラウド」
「―――!!」
 首に、注射器を、突き立てる。
 バッツが、青年の頭を、枕の上におさえつけていてくれた。注射器の中の透明な液体が、ゆっくりと、青年の首へと送り込まれる。しばらく時間がたった。荒かった息がおだやかになりはじめる。呼吸がゆるやかになり、体が弛緩する。
 やがて、薄く青年の目が開いた。ネオンのような、異様で鮮やかなきらめきが、伏せられた睫毛の間で、淡くきらめいた。
「クラウド、大丈夫。もう大丈夫だから」
 バッツはもう、手を離しても平気と判断したらしい。逆手に腕をねじり、頭を枕におしつけていた手を離す。フリオニールは、今にも泣き出しそうな声で、クラウド、クラウド、と何度も名前を呼びかける。
 ティーダは、ただただ、呆然としていることしか出来なかった。部屋の中をゆっくりと見回す。
 頑丈な布でつくられた拘束着。金属製のパーツ。そのどれもが内側から裂けて、ベットの上に散乱している。ためしに指先で布のきれはしをひろいあげてみた。引きちぎるどころか、専用の鋏じゃなければ切ることすらできなさそうだった。
 はっと気付いて目を上げる。ティーダのちかくまで戻ってきたバッツは、ぺろりと指を舐め、「うえ」と盛大に顔をしかめた。どうやら薬品の味がしたらしい。足元で倒れた点滴がちいさな水溜りを作っている。
 けれど、そんな惨状の中で。
「……フリオ、ニール?」
 ふいに、弱弱しい声が、聞こえる。
「クラウド!」
 フリオニールが声を上げた。両手で、青年の手を握り締める。よわよわしくその手が答えた。異様でうつくしい瞳が、かすかに、理性の色、そして、疑問の色を浮かべる。
「クラウド、俺が、分かるか?」
「……」
 青年は、黙っていた。けれどやがてか細い声がつぶやく。
「……生きて、いたら…… あいつ……」
 フリオニールは、琥珀の目を、見開く。
「…も、う…大人……」
 ふっ、と青年の体から力が抜けた。フリオニールが握っていた手も、シーツの上に落ちる。
「なつか、し……」
 吐き出す息とほとんど代わらぬような弱弱しい声でつぶやいて、それが、最後だった。青年はふたたび眠りに落ちたようだった。フリオニールは動かなかった。青年の手を両手で握り締めたまま、小さく背中を縮めて、身じろぎもしない。
「フリオ……」
「ごめん、ティーダ」
 声が震えていた。―――今にも泣き出しそうに。
 傍らのバッツは、目を丸く見開いて、青年やフリオニールへ、そして立ち尽くすティーダの間にと、視線を動かしていた。大きな薄茶色の目。薄暗がりの中で瞳孔が大きく広がり、とりわけにあどけない印象をたたえた双眸。
 そしてティーダは降り返る。青年の前にひざまずくようにして、うずくまったままのフリオニールのほうへと。
「二人きりに、してくれないか」
 ―――まるで兄のように思っていた人の背中が、今、まるで寄る辺のない子どものように、見えた。
 






 
 ……時間にして、数時間ほどをさかのぼる。



「どうするんだよ」
 開口一番、ジタンの台詞はソレだった。
「どうしようもない」
 ため息交じり、スコールの答えはこうだった。
「うん、どーしようもない。ノリかかった…… ノリかかった、えーと」
「ヤキソバッスか?」
 バッツとティーダのどうしようもない返事に、弾き返すような勢いで、「乗りかかった船!」とジタンの怒号が降ってくる。二人は並んで肩をすぼめた。
「ヤキソバにノリかけてどうすんだよ! あーもー!」
 頭を掻き毟りながら苦悩するジタンに、しかし、床に正座させられたバッツも、そしてテーブルを挟んで向かい側のティーダも、まったくくじける気配を見せない。それぞれお互いにムキになったような口調で言い返してくる。
「だ、だって、ヤキソバはノリかけたほうが美味いじゃん!」
「それに、今さらオレらのこと仲間はずれにしようったって、遅いッスからね!」
 ジタンは手を止めて、じっとりとした目でスコールのほうをみる。なんで自分が、とでも言いたげな表情で口を開きかけたスコールだったが、思い直したように途中で口をつぐむ。ちいさく首を振って頭を入れ替える。首に架けられた銀の首飾りが音を立てる。
 ミッドタウンのカジノホテル、その、最上階のスイートの一室。
 大理石をつかった豪奢なテーブルを中心に、ローズウッドや黒檀を多用した黒を貴重としたインテリアには、まるで技巧を凝らされたチェス盤の上にいるかのような精緻さに満ちた美しさがある。けれど銀のテーブルセットに美しくそろえられたフルーツも、びっしりと露を纏いつかせたクーラーの中のワインも手をつけられないままに、テーブルを囲む四人の間には、とうてい優雅とは言いがたいギスギスした雰囲気がみなぎっていた。
「まずバッツ」
 スコールが、痛むこめかみを揉み解しながら、問いかける。
「あんた、なんでいきなり一般人に正体をバラしたりした」
「ばっ、ばらそうなんてしてない! こいつが鋭すぎて感づかれたんだよ!」
 あわあわと慌てながら、バッツは、ティーダのほうを指差す。が、そんなことを言われても。
「オレべつに鋭いことなんてなんも言ってない……」
「だって、だってお前、キンフォークだったなんて一言も言ってなかったじゃんか」
「きんふぉー……?」
「はいはいはいちょっと黙ってろそこのニャンコ頭! 喋るたびに内情全部ダダ漏らしてどうすんだよ!」
 割って入ったジタンに耳をぎゅうとねじられて、「痛てえ!」とバッツは悲鳴を上げる。なんとも締まらないやりとりだ。唖然としてその様子を眺めていたティーダに、すぐに、「次はあんただ」と冷たいこと極まりない声が飛んでくる。
「……あんたって呼ばれる筋合いはねぇッス」
「ふん?」
「オレにはティーダって名前があんだよ!」
 思わずムキになって食って掛かるティーダに、バッツと取っ組み合っていたジタンが手を止め、「同類……」とあきれたような声を漏らす。当然ティーダにはそんなものは何も聞こえていなかったが。
「なら、ティーダ。……率直に言わせてもらう。今すぐこの件から手を引け」
「やだ!」
 ―――さすがのスコールも、この返事には、顔をしかめた。
 健康的に日焼けした顔いっぱいに反抗的な表情を浮かべて、ティーダは、大理石のテーブルの向こうのスコールをにらみつける。
 ティーダの《鋭い勘》は、ここまできて完全に、膚がぴりぴりするくらいの強烈な違和感を伝えてきていた。教会や病院にいたときは人が多すぎてまぎれてしまっていたが、こうやって静かなホテルの一室で向き合えばごまかされようがない。瑠璃色の眼に冷静な表情を浮かべたスコール、蜂蜜色の髪と青緑色の眼をしたジタン、そして、今はジタンに耳を引っ張られて泣きべそでもかきそうな顔になっているバッツ。
 この三人は三人とも、あきらかに、《普通じゃない》。
 ……この独特の《勘の鋭さ》は、父親譲りのものだった。とても認めたくない事実ではあるが、ティーダは体質の一部をまるで生き写しといってもいいほどにはっきりと父のジェクトから受け継いでいる。異様なまでの反射神経のよさもそうなら、この《勘のよさ》もその中の一つだ。そして昔、父親が何かのとき、酔っ払った拍子か何かに言っていたのを聞いた記憶がある。
「あんたたちって、《人間じゃない》んだろ」
 ピリッ、とその場の空気に、緊張がみなぎった。
 正面に座ったスコールの表情が硬くなり、傍らでバッツに馬乗りになっていたジタンが眼をきゅっと細めた。バッツひとりが憮然とした顔で馬乗りにされたままでいる。逃げるもんか。ティーダは拳を硬く握り締める。
「へーえ。人間じゃない。それじゃ、オレたちが何だって言いたいわけ?」
「……別に。化け物だとか悪魔だとか、そういうもんだって言いたいわけじゃない。でも、《人間じゃない》イキモノ。そういうもんがたまに世の中には混じってる。そうッスよね?」
 どうやら、多少予想外の返事だったらしい。ジタンは眼を瞬いた。スコールは硬い表情のままだったが。
「その話、誰から聞いた」
「誰からって…… 知らないよ。昔から知ってたッス」
 父親の古い友人から聞いたのだろうか。叔父のように兄のように慕っている人がいて、その人もまた、少し変わった《気配》の持ち主だった。かといって、彼が誰かに害をなすような悪い人間かと問われたら、ティーダは全身全霊を架けても否定することだろう。人間じゃないからといって、悪い奴ばかりだというものでもない。
「それに、人間にだって悪い奴はいっぱいいるッス。そーゆーのとは全然違う話で、ともかく、あんたたちは《人間じゃない》…… えと」
 そこまでいって、ティーダは、急に口ごもる。
「……でも、悪い《人間じゃない》なのか、良い《人間じゃない》なのかは、まだ分かんないッスけど……」
 ジタンはバッツと顔を見合わせ、バッツはスコールのほうを見て眼を瞬き、スコールはジタンに目配せをする。
「なんつーか、まぁ……」
 やがて、一番に口を開いたのはジタンだった。実に面倒くさそうにガリガリと頭を掻く。下敷きになったままのバッツが眼をまたたく。
「何コレ。大当たり? 超ハズレ? どっち?」
「ハズレって……」
「ここまで《事情》を把握した人間にぶつかるってどういう偶然? どうなってんだよ、これ」
 愚痴をこぼすジタンに、下からバッツが現金なことを言う。
「偶然のせいだったら、おれが悪いんじゃないんじゃない?」
「ニャンコ頭は黙ってろやっ」
 さっきからジタンに馬乗りにされたままで、けれどバッツは文句一つ言う顔ではない。なんか変な関係だよなあ、と頭の端っこでチラリと思う。まともな男子二人というよりも、むしろ、なんていうか……
 よくなれた動物と、その飼い主みたいだ。
「ちゃんと納得するまで、ぜーったいに、出て行ったりしないッスから」
 ソファの肘を掴んだまま、ティーダは強情に言い張った。子どもじみた対応だというのは承知の上だ。
 さきほど、病院から連れてこられて、あの金色の髪の青年は、このフロアにあるベッドルームのひとつで眠っている。精神病棟の患者に着せるような頑丈な拘束服を着せられて。……フリオニールが見たら貧血を起こしそうな扱いだったが、慣れた手つきで錠を締めていったジタンには、ためらいも迷いも一つもなかった。そこからしてあまりに異常なのだ。何もかもがおかしい。そして、《おかしいもの》を《おかしいもの》のままで放置することなんて、ティーダの性格上、とてもできるものではない。
 それに。
 フリオニールのこともある。
 しばらくの間、黙ってティーダのことを見つめていたスコールだったが、やがて、小さくため息をつくと、ソファから立ち上がる。
 ティーダはぎょっとして、思わず椅子の肘に爪を立てる。そのまま詰め寄られて思わず椅子からずり落ちた。
 なんかコイツ――― ヘンだ。
 単に腹が立つ、気に入らない、というレベルを超えて、ティーダの中の《勘》が痛いほどに警告を発する。ふいに手が頬に触れて、眼を覗き込むようにして顔を近づけられた。ティーダは硬直して動けない。
 瑠璃色の眼だ。
 異様なほどに鮮やかな色彩を湛えた、マドンナブルーの瞳。
 けれど、ティーダは自分の感じていた違和感の本当の正体に気付いて、今度こそ、正真正銘、体がすくみあがるのを感じた。スコールの眼が異様なのは、その色のせいじゃない。鮮やか過ぎる色彩のせいでもない。
 《瞳孔》の形が違う。
 猫のように、縦に裂けて針のよう――― というほどではない。だが、確かに縦に裂け、収縮する菱形の瞳孔を備えた目だった。
 どう見ても、人間だとは、思われない。
「……っ」
 だが。
 奥歯をきつくかみ締めると、ティーダは、眼を見開いてその瞳を睨み返す。負けるもんか。この程度のことで気おされるつもりなんて毛頭なかった。ただの喧嘩でさえ負けるのが嫌いなのに加えて、今は、兄とも慕う大切な友人のこともあるのだから。
「フリオニールは……」
 食いしばった歯の間で唸るようにして、ティーダは、言葉を押し出す。
「昔ッから…… 自分には誰も家族が居ないって…… すごくさびしそうで……」
 ぴくん、と傍らで何かの気配がする。バッツはそろりと眼を上げて、自分の上に乗っかったままだったジタンをみた。いつの間にか動きを止めていた。青緑色の眼がティーダとスコールのやりとりを吸い寄せられるように見つめている。
「それが…… 家族みたいなヒト、見つけることができて、そいつを《関係ない》から手ぇ引けだって!? 冗談じゃねぇよ!」
 真正面から怒鳴りつけられて、スコールは、眼を瞬いた。ほんのわずかだが驚いたような表情がそこに滲んだ。
 ヒュウ、と口笛が聞こえる。ジタンだった。バッツが起き上がると、ころりと背中から転げ、器用にそのまま床に着地する。面白がるような笑みが浮かんでいた。「どうするよ?」と問いかけてくる。
「フツーの人間だったら、《恐慌》起こして記憶ぶっとんでたとこだったのになぁ……」
「き、きょうこう?」
「オレらが一般に知られないとこの理由。まぁそのうち、説明することもあるかもな」
 あっさりとした口調で言って、なんとも居心地の悪そうな表情で身を起こすスコールを見る。
「この先、神羅のほうに調査にいくんだったら、あの金髪つんつん頭の面倒を誰かにみといてもらわないといけないし」
「……」
「情報は出来るだけ欲しいし。どうする、《リーダー》?」
 リーダー、と呼ばれた瞬間、スコールは苦虫を噛み潰したような顔になる。
 バッツは猫のように体を縮め、そして伸ばし、それからようやく二本の足で立ち上がった。罪のない表情で言う。
「ティーダは信頼しちゃってもいいと思うぜ」
 それに、と付け加える。
「ただの人間だからさ。いざとなったら、おれ一人でもなんとかできる」
 ……《なんとかできる》?
 どこか不穏なものを感じて、ティーダは振り返る。スコールが苦い表情をし、ジタンもまた困ったような顔をした。それでもバッツは屈託のない表情でこっちを見ていた。ただ、にこにこと笑っているだけだった。