/3



 かつん、かつん、かつんと、足が石段に音を立てる。
 ほのぐらい燭が石段を照らし出す――― 砂色の石を切り出した深い階段。それは闇の底へと繋がっている。この墓穴でもさらに深い場所。地の底へと、一人の少女が石段を下る。イシュタール一族の姉姫イシズは、片手に油燭を手に、ただ人ならば禁足の場所であるところへと、下っていく。
 そうして、やがて、目の前に現れたのは。
 ……鋼鉄の格子がはめられた檻の向こう、亜麻の衣を来た男が一人、木の椅子へと腰掛け、水煙管を咥えていた。
 こちらを見上げる眼は、どろりと赤く濁っている。明らかに正気の人間の目ではなかった。頬がこけ、髭も髪も真っ白になった様は、ほとんど100の老人のようだ。痛ましさを感じる。本来ならば、まだ壮年にも足らぬはずの父なのに。
「お父様……」
「……お前は ……誰だ」
「わたくしです。イシズです」
 ―――イシュタール一族の先の当主。そして、イシズとマリクの、父である男。
 男は磨り減った銀の吸い口を離すと、かすれた咳を漏らした。甘悪い臭いがこちらにまで感じられて、イシズは思わず顔をこわばらせる。男はぜいぜいと咽を鳴らすように笑った。
「どうした、何のようだ。偉大なる墓守一族の姫巫女が、私のような薬漬けの男に、なんの用がある」
「……」
 彼は――― 先のイシュタール家の主である父は、イシズが物心が付いた頃にはもう、この地下牢へと、幽閉されていた。阿片をあてがわれ、日がな一日、魔睡のまどろみに溺れている。哀れな阿片中毒者の男。それが彼女ら姉弟の父だった。
 どのような理由があるのかは知らない。狂人であり、墓守の一族、ひいては国そのものに災いをもたらすゆえに、幽閉されているのだと聞いていた。イシズにとっては父という名を持ち、己が一族の当主という名を持っていても、ほとんど顔を合わすことも無いような男だ。弟が幼くしてイシュタール一族の当主を継ぎ、その座を半ば無理やりに退かされたのなら、なおさらのこと。
 だが、今日ばかりは、どうしても聞かなければならないことがあったのだ。
「お父様、どうしても伺いたいことがあって、参りました」
「ほう……?」
「マリクのことについてです」
 男の赤く濁った目が、瞬間、底光りしたようだった。
 男は水煙草の吸い口を置く。ゆっくりと膝の上に手を組んだ。そうして、奇妙に歪な笑みを浮かべながら、「あれが、どうしたというのだね」という。
「儀式から…… あの子がイシュタール一族を継いでから…… あの子の様子がおかしいのです」
「さしずめ、儀式の恐怖に負けたのだろう。いかにも臆病な、意志の弱そうな子どもだったからな」
 嘲るような口調で言う。その様に、イシズは思わず、カッと頭に血が上るのを感じた。反射的に怒鳴り返しそうになる。
 あの子に無駄な苦しみを与えたのは、あなたの意志ではないか、と―――
 そもそも、マリクが受けた『儀式』は、何もかもがおかしいことずくめだった。あまりに秘められたことであり、当主から当主へと受け継がれる儀礼であるゆえに口出しもままならなかったが、父のやりようはただ惨いという以上に悪意と残忍さに満ちていた。
 通常ならば眠りを誘う草をつかって痛みを薄れさせ、短く、速やかに終わらせるべきだった儀式が、わざわざ意識を明瞭にと保たせたまま、ことさらに痛みと恐怖を増すようなやりかたで行われたのは何故だったのか。柔和だが活発だった弟が、闇に怯え、悪夢に悲鳴を上げて目覚めるほどの心の傷を負わされる必要がどこにあったのか。すべてがこの父の悪意の結実であったとしか思えない。
 だが、そう責めたところで、この父は何一つとして答えまい。心を焼く怒りを必死で抑えながら、イシズは、問いかける。
「マリクは、床から立てるようになってより、まるで何かを探すように、地下の迷宮を彷徨っています…… 時に別人のように恐ろしい目つきをしているところを見たというものもおりますわ。あの子はいったい、どうしてしまったというのです。お父様は、あの子に、いったい何をなさったのです」
「……」
 男は、赤く濁った目で、イシズを見た。やがて、ふん、と莫迦にしたように鼻を鳴らす。
「おまえ、幾つだ」
「……14、です……」
「ふん。それにしては、ずいぶんと膨れた乳をしている。淫乱そうな体だ。さしずめ弟に惚れでもしたか? まあ、望めば果たせぬことでもあるまい。イシュタールの女には、父や兄にでも平気で足を開くような女も、いくらでもいる」
「……!!」
 あまりの侮辱。頭に血が上って、目の前が瞬間、白くなるのを感じる。イシズはとっさに叫びそうになった。だが。
「もっともあれは狂い損なったようだ。誘おうが答えはしないだろうがな」
 呟くような、男の言葉に、はっとする。
「……それは、どういう……」
 男は、暗い眼をしたまま、爪を噛み始める。ぎざぎざに噛み千切られた爪。神経質に咬めば、唇に薄赤く血が滲んだ。
「狂わせてやろうと思ったものの…… あの餓鬼が。しぶとく正気を残しおって。あれだけ痛めつけてやれば、並みの人間ならば、心が砕けてしまうというのに……」
 イシズは、声を、失った。
 男は笑う。底光りする濁った眼。そこには狂気よりも恐ろしいものがあった。それは、まぎれもない、"悪意"だった。
「そうだ、私はあれを、狂気に追いやってやろうとおもったのだよ」
 男は口を開き、声も無く哂った。薬の性で歯が抜け落ち、肉色の歯肉がむき出しになっている。
「長々と痛めつけ、絶望を囁き、憎しみをあおり…… 死ぬより惨い苦痛の中、死人のまま生きるよりは死んでしまえと囁いてやった。だが、あいつは狂わなかった。あの忌々しい従者風情、それに、お前のせいでな」
 イシズは思わず口を覆った。サンダルのかかとが無意識に後ずさる。じゃり、と音を立てた。
「もっとも、種を植え付けることくらいには成功したようだがな…… さあ、いつ、どのようにしてあの種が育っていくのか……」
 こんな地下深くに閉じ込められて、あとはそれだけが楽しみだよと、男は濁った目を光らせる。。イシズは呆然とした。思わず、呟かずには、居られなかった。
「なぜ、そんな、酷いことを……」
「知れたこと」
 男は歯の無い口で笑う。
「他になんの楽しみがある。このような墓穴の底に死んだまま生かされて、他の誰かの苦痛のほかに、どのような楽しみがあるというのだ?」
 貧血の目眩にもにたひらめきの中に、イシズは、幻視をおぼえる。
 息も絶え絶えになって寝台のうえで苦しんでいる弟。まだ幼い面差しの上にべったりと張り付いた絶望。火のように熱を持った背中と、止まらない血の腐る悪臭。あまりに惨い苦痛。

 ねえさん…… どうしてボクたち、こんな眼にあわないといけないの……

 イシズは、思わず、手にした燭を、投げつけていた。格子に砕けた燭が、焔を飛び散らせる。
「―――外道!」
 鋭い叫びが、暗い石牢に、響いた。
 涙の浮いた目で睨みつけるイシズを、男は、わずかに驚きの浮かんだ眼で見た。わずかな悲しみがそこに揺らめくように見えたのは一瞬、すぐに、そこには嘲笑の色が戻ってくる。
「外道にならずに生きられるものか」
 男は、咳き込む。痰の絡んだかすれた声で、呟いた。
「……このような墓穴の底、死にながら生きていて…… 外道にならずに、生きられるものか……」
 イシズの心が、麻のように乱れる。哀しみと怒りと、絶望と憎悪が交じり合い、訳が分からなくなる。
 ―――墓守の一族の姫巫女といえど、彼女は、まだ14歳の少女だったのだから。
 後ずさるように退いた足が、そのままぱっときびすを返し、彼女は石段へと駆けて行く。後には砕けたランプだけが残される。暗い石段を、逃げるように駆け上っていくイシズの背中に突き刺さったのは、ただ、狂気じみた笑い声だった。
 









 ボクは何かを忘れているんじゃないだろうか―――?
 暗い地下の墳墓には、朝も、夜も無い。だが、人々は時計の告げる時のままに、目覚めの刻、眠りの刻を過ごす。マリクは自分にあてがわれた部屋の寝台の上、うつぶせに寝そべったまま、ぼんやりと思った。今日の昼、浴室で体験したことが記憶の中にこびりついていた。
 あれはなんだったのだろう。自分を内側から突き動かした奇妙な衝動。それと、自分の身体を射抜いた凍てつくほどに冷たい視線。あれは誰? 誰がボクに話しかけ、ボクを見たの……?
 手を見る。手は焼け爛れて布に巻かれ、指も満足に動かない。痛みを恐れる自分がどうしてあんなことができたんだろう。痛いことは嫌いなはずなのに。燃える燭をためらいもなく掴んだ自分。あの手を動かしていたのは、間違いなく、自分であって自分ではない誰かだった。

 こ わ い 。

「……っ、……」
 嗚咽が咽をふるわせる。涙がひとしずく、枕に落ちた。
 暗く深い墓穴の中に、死者として生まれ、死にながら生き続ける。それが己、墓守の一族の長に与えられた定め。
 久しく見る事の無い父の、憎悪に濁った眼も恐ろしかったが、あれが己の行く末だということが、なおさらに恐ろしかった。死にながら生き続けるものの、あれが定めだ。このままならば己もきっと…… 狂う。
《死ね》
《苦しいのなら、死ね》
《貴様のような弱いものなど、死ね》
《苦痛に耐えられぬなら、舌を噛んで、死んでしまえ》
 耳をふさいでも、リピードする声。頭の中で反響する。父の声。マリクの背を楽しげに刻みながら、まるで毒を塗りこめるように、繰り返し、繰り返し、囁かれた声。
「……っく、……ひっく……」
 皮膚を抉り取った傷が痛むのか、それとも、心に刻み付けられた呪詛が痛むのか、今のマリクには、もう、ほとんど分からなかった。
 姉や、リシドの前ではこらえていても、一人になれば、耐えようが無い。引き裂かれるような痛み。体の痛みなのか、それとも心の痛みなのか、もう、分からない。どちらでも同じだった。独りで暗闇にうずくまっていたら、全身がズタズタに引き裂けて、死んでしまいそうだった。
 ―――この傷は、きっと、永遠に癒えない。
 ―――こんな苦痛に耐え続けるくらいだったら。
 ―――いっそ。
 ベットの傍らを見る。そこに、ナイフが転がっている。書簡の蓋を開けるような、ブロンズ製の簡単なナイフだ。震える指がそのナイフを掴んだ。ゆらめく燭にぎらりと刃が光った。手のひらが汗で滑る。息が荒くなる。自分自身の眼がナイフの刃に写っていた。涙を浮かべた淡い紫色の眼。
 ……否。
 そこにうつっているものは、自分の目では、無い。
「!?」
 マリクは、ナイフを、取り落とした。
 かしゃん、と澄んだ音を立てて、石の床にナイフが跳ねた。
 なんだろう――― 今のは。
《おいおい、血のめぐりが悪ィなぁ、てめえはよォ……》
「……!?」
 頭の中に、声が響く。
 だれだ、と叫ぼうとした。
 だが、咽が、動かない。
 自分の手が、自らの意思ではなく、ゆっくりと動く。床に落ちたナイフを拾い上げた。指先で弄ぶ。ぎらりと光を反射したナイフに写った眼を見て、マリクは、息が止まるような思いを覚える。そこに写っている眼。―――とうてい自分のものとは思えない、狂気じみた獰猛さをたたえた、眼。
「死にたい、死にたい、だって? 莫迦らしい。死にたいなら勝手に死ねよ。―――てめェだけでなぁ?」
 ククク、と咽の奥で笑う。その濁った笑い声は自分のものではありえない。誰だこれは。何が起こっている。声も出せぬまま、閉じ込められた心の中で、マリクの意志が絶叫する。恐怖と絶望に満ちた声を、"もうひとり"は、まるで甘い蜜でも舐めるように味わって、その歪んだ笑みを深くする。
「俺が誰だかわからねぇ、って感じだなァ…… まあ、かまやしねぇ。なにも知らないままでいいのさ、お前は」
 何も知らないままで……
「死ねよ。望みどおり」
 すっ、と持ち上がったナイフが、眼に触れた。
 まぶたを閉じることが出来ない。
 淡紫の眼に、ナイフの先端が突きつけられている。自分が嗤っている。自分ではない意志で、自分自身が、嗤う。嗤う。嗤う―――
 余りの恐怖に、魂が、軋むような絶叫をあげた。

 そのとき、だった。

 己のものではない、己の手が、止まった。
 カシャン、と音がした。
「……な」
 うろたえた声。視線を感じる。背中から。誰かが見ている。―――突き刺すように冷たい、凍てついた眼が、見ている。
 "もうひとりの自分"も、それに、気付いた。
 見ている。
 誰かが。
 見て……
「―――ッ!!」
 その瞬間、マリクは、火傷を負ったほうの手のひらに、力いっぱい、己の爪を立てた。
 灼熱するような痛みが走る。その痛みが、瞬間、意識を真っ白にした。
「誰だッ!!」
 叫ぶ。己の身体を、取り戻そうとするように。咽はいうことを聞いてくれた。マリクは立ち上がる。急な動作に背中が痛んだ。火のような痛み。瞬間、明瞭になる意識―――
 振り返ったマリクの前にあったのは、ただの闇だった。燭の光も届かない暗闇。もう、誰も居ない。そこにはなんの気配も無い。
 ただ息を荒くして、マリクは、呆然と闇をみつめる。そこには誰もいない。もはや何の気配も無い。初めからこの部屋には、自分ひとりきりだ。
 そう自覚した瞬間、緊張の糸が切れ、マリクは、ぺたりと床に座り込んだ。
 何が――― 起こっているのだ。
 床に落ちたブロンズのナイフ。その刃は、今はただほのぐらい燭を受けて、ただ、鈍く光を放っているだけだった。




 

back