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 ――-イシュタール家の当主は、その背に、迷宮墳墓の謎を解くための鍵を、刻まれる。
 己の背にある文様など見る事も出来ぬ、と思うのは、古の術に浅いものたちばかりだ。その傷は、ただ背の皮膚をえぐるだけではなく、痛みによって、当主となったものの魂へと、直接に呪を刻む。それによって新しい当主は迷宮墳墓の謎を知る。ただびとならば、一度迷い込めば、飢えと渇きに、あるいは闇に住まう鎮護獣に喰らわれ、二度と帰ることの適わぬ迷宮が、己の庭のごとくに知り尽くしたものへと変化する。たとえマリクが齢10の少年であっても、今や、この広大な迷宮墳墓について、数十年のときを暮らした番人よりなお親しく知るものであることは間違いない。今ならば地図ひとつ無く、鍵ひとつ無くとも、マリクはこの迷宮に迷うことは無い。どのような小さな小路、どのような巧妙な隠し扉であっても、マリクの前には何の障壁としての役目も果たさない。
 きっと、姉さんやリシドは、心配すると思うけど……
 奇妙な出来事のあった、その、翌日だった。
 墓守の住人たちが暮らす場所を抜け、墳墓の奥へ。さらに奥へ。
 片手に燭を持ち、腰にはブロンズ製のナイフを携え、マリクは、墳墓のなかを歩いた。ほんの数ヶ月前には石のアヌビスの目線に怯え、眼に水晶を象嵌したスフィンクス怖さに通れなかった路が、今では何を恐れていたのかも分からない。墳墓の奥は、墓盗人どころか、墓守たちすらも足を踏み入れられぬ迷宮だ。わずかな用心に壁に燭で煤をつけながら、マリクはゆっくりと、いくつもの階段を下っていった。
 ―――ただ、あてどなく彷徨っているのではない。
 昨晩、あの後、マリクは一睡もすることが出来なかった。いったい自分に何が起こってしまったのか。それを悩み、せめて何かのきっかけを得ようと書簡を紐解いているうちに、時計が目覚めを次げる時刻が訪れてしまったのだ。
 無論、いままでも飽きるほどに読まされてきた本などに、あきらかな答えなどがあるわけもない。だが、一つだけ、マリクの心にちいさな棘のようにひっかかった記述があった。それは王の持つ呪具についての記述。三千年の歴史を辿る聖王家に伝わる伝説の呪具、千年錘について。
 現在、千年錘を所持しているのは、仮の王座を囲っている摂政ではない。今だ若く即位には間がある王子、遊戯が手にしているのだ。
 千年錘は、三千年前、覇王を封じた英雄王が所持していた呪具だ。千年錘そのものの持つ魔力については秘されており、墓守の一族であってもその詳細を知ることは無い。ただひとつだけ明らかなことは、英雄王は、己の意志により千年錘のなかへと己の心を封じており、ときにその心は、千年錘の認めた主の身体を借りて、現世へと顕現することがあるということ。
 自分はそのような大仰なものなど持たない――― とマリクは思う。イシュタール一族には千年首飾りという呪具が受け継がれるが、あれは代々の姫に受け継がれるもので、マリクは触れたことすら無い。だが、ひとりの人間の体の中に複数の意志が存在しうるという可能性は、マリクの心にひどく引っかかった。
 もしかしたら、ボクのなかには、ボクじゃない誰かがいるんじゃないのか……?
 あの猛悪な、狂気じみた眼をした存在が、自分であるとはとうてい思えない。己の心に己ならざるものが住む、というのはおよそ現実的な話とは思えなかったが、他にはどのような理屈をつけても、説明ができるとは思えなかった。―――だが、それは、認めるにはあまりに恐ろしい事実でもあった。
 あんな恐ろしいものが、己の中に、いる。
 そう思うだけで、あまりの怖ろしさに、身体が震えだしてしまいそうだった。
 "あれ"は、マリクを殺そうとしていた。
 身体が一つである以上、"あれ"も、物理的な方法で、マリクの命を奪うことなどできまい。だが、マリクの心を破壊し、それによって、身体を奪い取ることはできるのではないだろうか。
 心を破壊する―――
 どのように? どうやって?
 考えるも恐ろしい話だった。そしてマリクは、己の心のもろさを知っていた。父の狂気に脅かされ、魂が押しつぶされ、滅びそうになる恐怖を、この身体へと刻み付けられたばかりだったのだから。
 そして、もう一つ考えようがあるとしたら、それは、"あれ"が、マリク自身の身体を傷つけるのではなく、マリクの愛する人々を傷つけることによって、魂を痛めつけようとするのではないか、というさらに恐ろしい可能性だった。
 姉や、リシド……
 自分自身よりも、もしかしたら、大切かもしれない人たち。彼らを己の手で傷つけるということなど、想像も出来ない。したくない。そのような恐ろしいことをするくらいなら、死んだほうがましだった。
 けれど、死ねない。
 死ぬ、という、もっとも安易な逃げ道は、もう、無い。
 もしも心が先に死に――― "あれ"に身体を奪われてしまえば――― 考えたくも無い!
 ぱしゃん、と足が水を踏みつけた。
 マリクは頭の中でループのように輪を描いていた思考から、我へと帰る。
「……水?」
 驚き、足を引く。目の前を見る。そして驚いた。そこに広がっていたのは、広大な、地下の湖だった。
 広い―――
 光苔でもはえているのか、うすぼんやりとした光があり、まったくの暗闇ではなかった。水面下で何かが光っている。魚だろうか。驚くほど深い。そして、信じがたいほどに、澄み切っている。
 ……こんなところに、これほどの水が?
 迷宮墳墓のある地は、そもそも、乾いた砂に覆われている。水の乏しさは迷宮墳墓の住人たちの頭を日々悩ませる問題で、その地下にこれほど豊富な水があろうとは思ったことも無かった。どこから流れてくるものなのか。水はまるで水晶のように透き通っていて、そして、足の指が凍ってしまいそうなほどに、冷たい。
 こんな場所が、迷宮墳墓の中にあったなんて。
 ――-ふと思いついて、マリクは、燭の火を、吹き消した。
 それから眼を閉じ、しばらく、数を数える。リシドに教えてもらった方法だ。暗い場所に眼を慣らすためのやりかた。
 ……やがて眼を開けると、眼前には、想像を絶する光景が広がっていた。
 それは、水底に沈んだ、壮麗きわまる都。
 円柱やアーチが優雅な調和を作り出し、神殿めいた建物を、あるいは、宮殿めいた建物たちを、つなぐ。翼をもった獣たち、人ならぬ姿の乙女たち。白い石で作られた獣たちの瞳には貴石がはめ込まれ、さながら意志もつものたちであるかのような錯覚すら感じさせる。幾重にも重なり合い摩天楼を為す建物たち。弧を描いた橋と橋とがお互いをつなぎ合わせ、白い石の梁が、柱頭が、優雅な唐草模様のモチーフを描く。
 息すら止まった。
 なんなのか、この都は。
 地下湖ははるか彼方まで続いていた。その深みはどれほどのものか図りようが無かった。呆然とたちつくすマリクの足を清澄な水が洗う。あまりに清すぎ、あまりに冷たすぎるせいなのだろうか。水底には魚影すら見えない。
 ―――否。
「……え?」
 ふいに、水底で、何かが、光った。
 チカリ、と。
 光を反射しているのではない。光源など無い。ならば、あれは己が力で光を放つものだ。なんだろう。夜光の石だろうか。それとも?
 マリクはしばし、ためらった。光が見えたのは一瞬だった。今はもう何も見えない。見間違いかもしれない。ただの錯覚かもしれない。けれど。
 ―――けれど、その光をみた瞬間、思ったことがあったのだ。

 冷たい、と。

 凍てつくような、突き刺さるような、あの、光。
 さながら氷剣が胸を貫くようなあの輝きを、どこかで見た事があった。たしかにマリクはあの彩を知っていた。魂の奥底を貫き通すような、あの鋭さ―――
 だが、あの光は、マリクを救った。
 己の意志が、何かに呑まれそうになったとき、あの光にすがり、マリクは己を取り戻した。……そのことを思い出したとき、脳裏を掠めたのは、まるで場違いとしかいいようがない記憶の欠片だった。

 ……ぼくは、あれがほしいよ。

「……ッ」
 きっ、とマリクは唇を噛み締めた。
 一度水からあがり、サンダルを脱ぎ捨てる。亜麻の服を脱ぎ、足や手に飾った金の飾りを外した。背にあててあった包帯も思い切って解く。背中が引きつるように痛んだが、構っている場合ではなかった。
 無論、水に入ったことなど一度も無い。浴槽につかるのがせいぜいで、泳ぐ、というほどの水を見た事がそもそも無かった。それよりも先に、これほど冷たい水に入ったら、身体が凍えて心臓が止まってしまうかもしれない。それらすべてをわきまえて、無謀だということは百も承知だった。それでもなお、あの光には、何か、マリクを突き動かすものがあったのだ。
 あれがほしい。
 ―――己の魂を、つなぎとめてくれる、あの光が。
 邪魔になりそうな衣服の類を脱ぎ捨てると、マリクは大きく息を吸い――― 一思いに、水に、吸い込んだ。
 全身を、百万の氷の針が、貫いた。
《……!!!》
 氷の中へ閉じ込められたように、身体がこわばり、動かせなくなる。
 だが、背中の傷を刺す凄まじい痛みが、意識が暗転するのを救ってくれる。手足を動かす。身体が沈む。透き通りすぎた水は、まるで、中空へ浮いているかのような錯覚をもたらす。突然、高い空へと放り出されたような恐怖。
 それでも―――
 この程度なら、まだ、死なない。
 マリクは硬く歯を食いしばった。唇の間から銀の泡がこぼれた。腕で水を強く掻く。身体がゆっくりと沈んでいく。あの光へと近づく。
 そして、やがて。

 マリクは、光の源を、掴んだ。

 その瞬間、視界が、フラッシュした。
 あまりに圧倒的な光。白。何も見えない。まぶしさが眼球を針のように貫いていく。激痛。あまりの痛みに指一本動かせない。
 けれどマリクは眼を閉じなかった。
 視た。

 ―――ひとりの、少年、を。

「……っ、がはっ!!」
 どのようにして水からあがってきたのか、ほとんど、自分でも分からなかった。
 気が付くと、近くの水面に露頭した、柱頭の一つにしがみついていた。なんとか身体が水の外に出ている。マリクは咳き込み、全身を波打たせながら、大量の水を吐いた。身体が冷たい。手足には殆ど感触が無かった。
 だが、その手は、何かを硬く握り締めている。マリクは半ば意識を手放しかけたまま、己の手にしたものを見る。
 それは、杖のようなものだった。
 黄金だろうか…… 先端の部分には、眼のようなモチーフが刻まれている。魔よけの紋であるウジャトだった。震える手で杖を握り、ふと、マリクはその杖の先端の部分が外れるということに気が付く。二つに分かれた杖の中には鋭い刃があった。仕込み杖なのだ。マリクはぼんやりとそれを見つめる。
 強い魔力を感じた。ただの杖では無いだろう。なんらかの呪具には違いなかった。だが、己が求めていたあの強い光を、魂の底を貫き通すような鋭さを、感じない。
 自分の探していたものは、こんなものだったのだろうか?
 困惑するマリクは、けれど、瞬間、脳裏をよぎった少年の姿を思い出す。
 見慣れぬ意匠の黒い装束を纏い、栗色の髪と、華奢な手足をしていた少年。けっして年を経た姿ではあるまいに、未熟さ、青さなどは微塵も感じられない。一種威厳にも似たものを纏った、見たことも無い、不思議な少年。
 奇妙な眼をしていた。
 欝金のような、眼。
「誰だ…… あれ……?」
 マリクは、大理石の柱頭にすがったまま、ただ呆然と、呟いた。





 

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