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「おお…… これは……」
 老人は、布にくるまれていた杖を取り上げると、驚いたように紫色の眼を見張り、恐る恐る、金の杖に刻まれた紋を確かめる。石の床に客人を迎える用意を迎え、上座へと迎えられた客人である老人は、黒い天鵞布のたっぷりとしたローブ、内側から引き出したサフラン染めの下衣を身に付け、額には目をかたどったモチーフの宝冠を戴いていた。珍しい外の世界からの客人。人見知りを覚えるのと同時に興味津々といった顔立ちのマリクを、姉のイシズは少しばかり咎めるように軽く睨む。そんな姉弟の姿を見て、「いやいや」と老人は感心したような声を漏らす。
「間違いない。これは失われた千年アイテムの一つ…… 千年杖じゃ」
「千年杖……」
「イシュタールの姫巫女に受け継がれる千年首飾り、我らが王家に伝わる千年錘と同じ、封印の呪具の一つじゃよ。二千年の昔に失われたと聞いておったが、それが、こんなにも若い当主殿によって見出されるとは」
 いやはや、と老人はいかにも感心したように首を振る。そうして、わずかに笑みを浮かべて、マリクを見た。
「たがいなく、マリク殿は優れた術者となられよう。これも千年紀の巡りゆえか…… いやはや、頼もしいというべきか、末恐ろしいと言うべきか」
「ご足労をいただきました価値がございましたでしょうか、双六様」
「おお、もちろんじゃとも! 姫御もよくぞ教えてくださった。これこそ新たな千年紀の顕れ……」
 老人の声には、ただ感心しているというだけ思うには、重すぎる響きがあった。正面からじっと見つめられ、マリクは思わずたじろいだ。イシズは少し苦笑をすると、ぱん、ぱん、と手を叩き、侍女たちを呼ぶ。
「わたくしたちのような若輩者の相手をしてくださるのに、ただ、話しているだけというのも無聊でございましょう」
「おお、すまぬのう。姫御はお若いのに、ずいぶんと丁重なお方じゃ」
「もったいのうございます、双六様」
 奥から侍女たちがあらわれ、冷たい葡萄酒を充たした壷や、魚を揚げて香辛料のたれをかけたものや、潰した豆を丸めて揚げたもの。小麦を薄く延ばして焼いたパンには、豆や玉ねぎ、大蒜などを使って作ったものを乗せる。菓子の類は甘すぎるほどに甘いものばかり。運ばれてくる銀の皿の上には、肉を使った料理だけが無かった。潔斎を求められるイシュタール一族のものたちは、穢れを嫌って、肉を口にすることが無いのだ。
 姉よりも上座、主の席に座りながら、マリクは何を言えばいいのかよく分からない。けれど余り見る事のないいでたちの老人がマリクへと向ける眼は優しかった。まるで孫でも見るように。
 双六、という名の老人。
 ―――彼は、かつてはこの王国の最高司祭の座にあった男だった。
 血筋で言えば、次代の王である遊戯王子の祖父に当たる。その魔力においても、その英知においても知られた賢人で、今もこの国に伝わる魔術の体系について、歴史について、この国で最も造作が深いという。その老人がこの迷宮墳墓にまで足を運んだというのは、それだけ、この杖の持つ意味が大きいということだったのだろうか。いまひとつ納得がいかない気持ちのままで座っているマリクへと、葡萄酒の杯をひとくち舐めた双六が、ふと顔を上げ、優しい口調で話しかける。
「マリク殿。どうなされた」
「あ…… はい」
「この千年杖を見出されたということ、マリク殿がそれだけの力を持つものと定められて生まれたことと他なりませぬ。とても善いことじゃ。自信を持ちなされ。それに、わしはうれしい」
 老人は、ぱちりと片目をつぶってみせる。マリクはきょとんとした。
「うれしい、ですか」
「ええ。千年アイテムに見出されたものがまた一人…… それだけ、今生において、たくさんのものたちが力を持ち、我が王家のものへと力を貸してくれるということ。これほど善い知らせはない」
 なんともいえず複雑な気持ちになり、マリクは、自分の杯に充たされた葡萄酒を見る。まだ子どもで酒が苦手なマリクのために、そこに注がれた葡萄酒は、果汁で甘く薄められている。
「姫御も当主殿もご存知でありましょう。我が王家の今代の王子、我が孫の遊戯は、千年錘に選ばれましてな」
「ええ、聞き及んでございますわ。遊戯殿下は千年に一人の王の資格をお持ちだと」
「さあ、どうじゃろうなあ。あれは確かに力がある。けれど、いささか優しすぎて気の弱いところがありましてな。戦いを嫌うのです」
 マリクは、思わず、眼を瞬いた。戦いを嫌う。―――千年王となるべき定めを負った王子が?
 同じような驚きを、イシズも感じているのだろう。美しいアーモンドアイズを困惑したようにまたたく。双六は困り笑いで頬を掻く。
「お二方も、当然、知って御座ろう。我らが王家を継ぐものは、常に千年錘に試されることとなって御座る。じゃが、この数百年というもの、千年錘に選ばれた王はおらなんだ」
 千年錘――― 千年パズル。
 そのピースをくみ上げ、完全な形を作ることができたものにしか従うことが無いという、伝説の千年アイテムの一つ。太陽王アテムの持ち物であったとされ、また、今もその王の魂を宿すという。だがパズルを解くことは非常に難しいことであり、王家に受け継がれてはいても、主となることができる王は決して多くは無い。そうして、次代の王である遊戯王子が8歳にして千年パズルを解いたとき、この国のものだけではなく、多くの人々が、新たなる英雄王の誕生かと、驚き、また、大いに感嘆したはずだったのだが。
「遊戯殿下は、今は、若くして、素晴らしい力を持つ決闘者にお育ちだと聞き及んでございますが……」
「たしかに、あれは決闘の才覚に置いても、力に置いても、傑物といっていいほどのものをもっておりますじゃ。ですが気が優しすぎるせいで今ひとつその力を生かしきれなんだ。……今、学びの家としている決闘者の学園においては、海馬家の公子であられる瀬人殿に気押され気味での、なかには、あれは気が優しすぎ、千年錘の持ち主としての任、神の一角にあるオシリスの力を受け継ぐにはふさわしくないのではないかなどと言うものまでいる始末」
 マリクもイシズも、困惑の眼を見合わせる。遊戯王子はこの国の跡継ぎである方、これほどにあけすけな物言いをすることが出来るのも、双六が彼の直接の祖父であるという理由があるからだろう。さもなくば不敬罪とも取られかねない言葉だった。
 潰した豆を皮で包んで揚げたものを、美味そうに食べている双六を、マリクは、なんともいえない気持ちで見る。手元の料理に手をつける気になれなかった。―――思い切って、マリクは、問いかける。
「……遊戯殿下は、太陽王の声を聞かれると、聞きました」
 双六は口を動かすのを止める。必死の眼をして自分のほうを見るマリクに眼をまたたく。
 マリクは膝の上で、ぎゅっと手を握り締めた。焼け爛れた手が鈍く痛む。
「太陽王は、三千年の争いを生きる英雄だと聞いています。……遊戯殿下は、そのような偉大な方が、恐ろしくは無いのでしょうか?」
「マリク」
 イシズが、咎めるような声を出す。けれどマリクは、一度口に出してしまった言葉を止められなくなる。声が自然と早口になっていく。
「遊戯殿下がそのようにお気の弱い方だったのでしたら、太陽王はご不満に思われないのでしょうか? ……力にふさわしくない心を持つ身体ならば、いっそ、自分が奪って使ってしまえと思わないのでしょうか。己の持つ力にふさわしくない弱い心を持つ人間は、力に押しつぶされてはしまわないのでしょうか……っ」
「マリク!」
 イシズが鋭く名を呼ぶ。はっとマリクは我に返る。振り返ると、姉が、きつい眼でマリクを睨みつける。だが、「いや」と双六が、イシズが開きかけた口を制した。
「マリク殿の気鬱も最も。……マリク殿、そなたは、己が千年杖の力に呑まれぬか、そう、思って御座るのでしょう」
「あ…… ぼ、ボクは、なんて不敬なことを……」
 うろたえ、声を震わせるマリクに、けれど、双六の声は優しかった。
「いや、構いませぬ。なにせ、マリク殿はあれとたった一つしか変わらぬのですからな。その不安、その心細さも、最もというもの」
 ……短く言葉を切る。双六の次の言葉には、かすかな苦さが滲んでいた。
「確かに、もうじきに、三度目の千年紀が訪れる。たしかに、分からぬわけではない。マリク殿の不安も、あれに対する評価も」
 千年紀。
 ―――それは、覇王を封じる封印がゆるまると予言される、千年ごとの周期を意味する。
 この前の千年紀には、覇王の力を取り戻さんと求めた邪悪な意志によって災厄がもたらされ、死者が蘇って夜に彷徨い、屍竜の復活によっていくつもの国が滅ぼされたと歴史に伝えられる。
 そうして、その前の千年紀に起こったことは、歴史の闇へと葬り去られ、その仔細は知られることが無い。ただ太陽が消え、月は蝕に食われ、無数の星が落ちて海が沸き、世界が暗闇に包まれたとだけ伝えられる。千年紀の節目には、それだけの災厄が起こりうる。
 だが、その千年紀のごとに、英雄が現れて災厄を封じた。覇王の復活が為されることはなく、千年アイテムに選ばれた英雄たちの手によって、世界の破滅は未然に防がれた。この前の千年紀には、千年錘を携えた英雄王、巨神兵を従えた強大な魔道士などが立ったといわれる。真紅の眼を持つ龍を従えた勇者、運命の名を持つ英霊に選ばれた騎士。この世界には、今でも、千年前の勇者たちの子孫が、決闘者として生きている。今だまだ若くとも、巨神兵のみならず青い眼を持つ白い龍の敬慕と愛を得た生まれながらの決闘者である海馬瀬人や、悪魔にも似た姿を持つ苛烈な英霊の一群を、幼くして思うがままに従えるエド・フェニックスなど。
「……遊戯殿下は、もしも災厄が起こるのなら、この国を守って戦われることとなる……」
「あれに本当にその力があるのか、憂えるものもたしかにおる…… 中には半ば公然と口にするものすら居る始末。遊戯が王になり、千年錘を受け継ぐというのは、決してこの国へと良い結果をもたらさぬのではないかと」
 マリクは、思わず、黙り込んだ。
 握り締めた自分の手を見おろす。火傷をおって白い布に覆われた手。
 ―――この迷宮墳墓を出ることの出来ないマリクは、当然のように、遊戯王子の姿を見たことなど、無い。
 ただ噂にきく限りだと、千年錘に選ばれ、太陽王の魂を宿したということが信じられないくらい、優しく、無垢な様子の、年よりも幼い印象の少年だと聞く。人を傷つけることを嫌う優しさを、いっそ怯懦だ、という影口を叩くものすらいる。どのような子なんだろうか、とマリクは思った。その子は、怖くないのだろうか。その背に負わされる定めの重さが。
 けれど。
 双六は、「けれど、ワシは心配しておらんのですじゃ」と言った。
 マリクははっと顔を上げる。双六は福福しい丸顔に、笑顔を浮かべていた。
「あれは優しい。けれど、優しさとは強さでもある。太陽王もそれを認めて御座る。そうして王は、まるで兄のようにあれを導き諭してくださる。そうして言われますのじゃ。……あれの優しさは、きっと、本当の意味での力となるのだろう、と」
 双六は、噛み締めるように、言った。
「そうして、あれは、そうならねばならんのじゃ。……強くなければならぬ。それが、王権に座すものの定めなのですから」
 マリクは己の膝の上に置いた手に、視線を落とした。
 力。
 ―――本当の意味での、力。
 けれど、なぜ、《力》が必要なのだろう。優しく無垢な王子が、その優しさを、《力》へと変えねばならぬという。
 ただ優しいだけでは駄目なのだろうか。無垢なままではいけないのだろうか。
 マリクはぼんやりと、彼に会いたいと思った。優しく無垢だという遊戯王子に会い、己の定めをどう思うのかと問うてみたいと思った。
 だが、マリクは生涯この迷宮墳墓からは出られぬ定め。
 そうして、表の王は、この迷宮墳墓の闇の穢れを怖れるゆえに――― マリクが遊戯王子と出会うことは、決して、無い。
 黙りこむ幼い弟をどう思ったのだろう。イシズが、心配そうな視線を向けているということに、マリクは、気付かなかった。






「……双六様!」
 深い迷宮墳墓を出でて、空の下へ。
 ノド、と呼ばれる荒れ果てた地で、迷宮墳墓の入り口は、王家のものであっても極めつけの人々にしか知らされる秘密とされている。だから、イシズが双六を追って地上に上がっても、そこには地位高い賢人を迎えるのにふさわしいだけの兵の姿は無い。ただ、墓守の一族のなかでも猛者とされるものが一人、馬の口を引き、高貴な老人を送るべく待っていた。
 すでに馬にまたがろうとしていた双六は、息をあげて駆け寄ってくる幼い姫巫女に、目を瞬く。頭から黒い布を被り、金の鎖を咽元に止めたイシズは、すこしばかり息を荒げながら、双六の馬の足元に立ち止まる。
「どうなすった、イシズ殿」
「伺いたいお話があるのです」
 双六は、かるく眉を寄せた。
 迷宮墳墓に、王家のものが留まることは出来ない。たずねることは許されても、一夜を過ごすなどもってのほか。迷宮墳墓は今だ古の力強い穢れた地なのだ。どうしても話したいことがあるといっても、すでに見上げる空はうす蒼く暮れ、遠くに星が輝き始めている。双六はやさしくたずねる。
「イシズ殿、ワシにはまだ時間がある。今日は街へと戻り、明日、またたずねてくるのでは駄目かのう」
「いいえ。……いいえ」
 イシズは首を横に振った。口元を隠すマントの下で、猫のような美しい目が、思いつめたような色に輝いていた。
「ここでは駄目なのです。誰の耳があるとも知れません」
「……」
「どうか……」
 懇願する姫巫女に、馬の口を持った従者が、困惑の色を浮かべる。若いけれど聡明なイシズは、くだらないことにこのような我侭めいた行動を取るような娘ではない。双六はしばらく考え込んでいたが、やがて、明るい声で、「良かろう」と言う。
「ならば乗りなされ」
「よろしいのですか?」
「このような老骨でもよければの、美しい姫巫女殿と夜っぴいて話が出来るとは、とんだもうけものじゃ」
 ははは、と笑う双六の声には、ほがらかな響きがあった。イシズは安堵したようにため息をつく。そうして従者へと言いつけた。
「ならば、お前は帰りなさい」
「ですが、イシズ様……」
「路ならば、わたくしが分かります。それに、双六殿の身をお守りできる程度の心得はあるわ」
 事実、イシズは若くして、すでに墓守の一族でも指折りの力を持つ《決闘者》だ。従者の男はしばらくためらっていたが、やがて、「では……」としずかに礼をとり、おとなしく、入り組んだ岩に隠された迷宮墳墓へと、戻っていく。
「ならば行きましょうぞ、イシズ殿」
「はい」
 イシズは身軽に馬の鞍へと飛び乗った。はっ、という短い掛け声と共に手綱を鳴らすと、銀ぶちの毛並みをもつ砂漠馬が、身軽に走り出す。荒れ果てた荒野に、軽快なトロットで走り出した。
 ―――迷宮墳墓のあるノドの地は、王国の中でも最も荒れ果てた、最果ての地。
 かつてそこに覇王の居城があったということが忌まれ、今でもその地に住まうものは少ない。これから二人が赴こうという街も、古い古い寺院が巡礼たちを待つだけの、ごく、小さな場所だ。闇がゆっくりと降りてくる大地は白く乾き、風に削られた岩々が多くの奇怪な影を見せる。夜になれば魔物たちもうろつこうという場所だ。およそ、人が好んで足を運ぼうという場所ではない。
「して、何を案じておられるのじゃ、イシズ殿」
 手綱を操り、馬を走らせるイシズに、双六がのんびりと問いかけた。
 美しい顔をなかば黒い頭巾で隠したイシズは、しばらく、言葉に迷うように黙り込んでいた。けれど、やがて。
「―――双六様、これは、決まっていたことだったのでしょうか?」
 双六は眼を見開く。イシズの声は硬かった。
「マリクが…… 弟が千年杖を、二千年の時を経て、見出したということが、です」
「……なぜそう思われる」
 双六の声には、感情の色が見えなかった。振り返れぬのがもどかしい。イシズはわずかに馬の足をゆるめる。
「双六様は、わたくしの使者の話を聞き、すぐにこの地へと足を運んでくださいました。お若い遊戯王子のいらっしゃる王都から、この、最果てのノドの地へと」
 ―――双六は、王子である遊戯にとって、親にも似た存在だ。
 まだ若く迷いがちな王子を諭し導き、あるいはいつくしむのが彼の今の仕事。簡単に捨て置いていいようなものではない。まして、双六はイシズが使者をおくって、ほんの数日でこのノドにまでやってきた。おそらくはやるべきだったろう幾つもの仕事を投げ出してまで。
 たかが杖がひとつ見つかった、というだけで。
「双六様はご存知だったのではないでしょうか、弟が千年杖を見出すということを。あれがイシュタールの紋を受け継いだとき、何かを見つけると……」
 違うでしょうか、と問いかけるイシズに、双六はしばし、沈黙した。
 馬の足はしだいにゆるくなり、今や、ほとんど歩くのと同じほどになる。闇に強い砂漠馬であっても、荒地の夜はおそろしいのだろうか。馬は不安げに鼻を鳴らす。頭上には、砂漠という地のほかでは見られようはずも無いほどの多くの星が、静かにきらめき始めていた。
「……先の巫女姫殿は、たしか、イシズ殿の母君で御座ったか」
「え…… は、はい」
 イシズがまだ子どものときに、儚くなってしまった母。父にとっては年上の従姉妹にあたった母。血族を重んじ、より濃い血、それのもたらす強い魔力を求めるイシュタール家の慣わしでは珍しい話ではない。もっとも、千年首飾りの主であり、力ある女預言者であった母は、その生活の多くを王都で過ごしており、イシズにとってはその記憶も希薄だ。ただ、冷酷なほどに一族の定めに忠実であり、また、恐ろしく強い力を持った預言者であったと聞いてはいる。
 双六は、イシズの表情を見て、ため息をついた。深い深いため息。
「イシズ殿の聡明なことよ。先の巫女姫殿に勝るとも劣らん」
「では……」
「その通り。これは、先の巫女姫殿によって予言されておったことじゃ」

 ―――次のイシュタール家の当主、幼いマリクは、イシュタールの紋を受け継いだとき、失われた千年杖を見出し、その主となる。

 息を飲むイシズに、双六は、なんと言ったらよいのか分からないという様子で、しずかに首を横に振った。
「巫女姫殿の仰せが外れたことは一度も無かった。巫女姫殿は未来視の力をお持ちで御座ったからの。遊戯が千年錘の主となることも、瀬人殿が神の兵のみならず白い龍をも従える決闘者となることも、巫女姫殿はすべて見通しておった。ほかにも巫女姫殿は多くのことを予言されておったよ。……同じ魔術師として、恐ろしいほどじゃった」
「……」
 ほとんど記憶にも残っていない母。その姿を、イシズは、複雑な思いと共に思い出す。
 長くつややかな黒髪、磨いた琥珀のような肌。そして、猫のような美しい眼は、イシズが母から受け継いだものだと皆が言う。イシズは母に生き写しなのだ。千年首飾りの力を自在に操り、未来を視た、予言の巫女姫と。
 イシズはしばらく黙り込み、そして、苦しい声で、問いかけた。
「……ならば、母は、なんと言っていたのですか」
 千年杖の力を得た弟が、どのような定めを辿るのか―――
 双六には言ってはいない。だが、イシズは薄々、悟り始めていた。弟はイシュタールの紋を手に入れたから、少しづつ、おかしくなりはじめていると。
 己の中に巣食ったものを隠そうとしても、天涯ただ二人の姉弟として生きてきたのだ。隠しおおせるものではない。だが、イシズにも、それを直接に問いかけるということばかりはあまりに憚られた。弟の中に宿ったもの。それが、あまりに恐ろしい闇のようなものだと、薄々と悟っていたからだ。
 誰にも秘密にすることで、やっと、マリク自身が抱え込むことの出来ている闇。
 千年杖というあまりに強大な力を得た弟が、さらに己の闇を持って、どのようにして生きていくのか。ましてこの世界は三度目の千年紀を迎えつつある。災厄と闇の時代に、あの優しい弟が、どのような定めを負うというのか。
「双六様、教えてください。マリクは、これから、どうなってしまうのです?」
 必死に問いかけるイシズに、しかし、双六は答えなかった。しばし黙り込み、やがて、苦く呟く。
「……すまぬ。けれど、それは分からんのじゃ」
「わから、ない?」
 眼を見開くイシズに、双六は、空を見上げる。無数の星が銀砂を撒いたように散った空を。
「巫女姫殿は、11年前、遊戯が生まれたときに、ワシに言われた…… 王子の未来が見えぬと。王子が齢11を数えるときより先のあたりより、未来が深い霧に隠れ、見えなくなってしまっていると」
「……!?」
 そのような話など、聞いたことも無かった。
 振り返った双六は、少しばかり、苦い表情を浮かべていた。噛み締めるように呟く。
「巫女姫殿の予言は、たしかに、あれが11になるまで、すべてが的中してきた。あれが千年錘を解き、太陽王を盟友として得ることも、黒い魔術師を己の守護精霊として得ることも…… 瀬人殿だけではない。ほんの一年ほど前、地方の小さな町に、真紅の眼を持つ黒い龍の忠誠をうけた少年が見つかった。千年の昔、神代の勇者が従えたという力ある精霊よ。それもまた、巫女姫殿が予言されたとおりじゃ」
「……」
「だが、予言はそこまで…… それより先に起こりうることを、巫女姫殿は、見出すことが出来なんだ」
 おそらくは千年紀ゆえ、と双六は呟いた。
「―――千年紀には、古の覇王が蘇る。その強大な魔力に阻まれ、未来が隠れているのだろうと、巫女姫殿はおおせじゃった」
「……では」
「何も分からん。巫女姫殿は己の力の限界をひどく悔いて御座った。覇王がふたたびこの地へと表れぬかもしれぬ、それすら分からぬ己の身について。マリク殿についても…… 知っているのは、齢10にして当主の座を継いだとき、マリク殿が千年杖を得るという、そこまでだけなのじゃよ」
 イシズは、黙り込んだ。
 では、母は――― マリクがその心に飼った深い闇についても、その闇がマリクの足を惑い入らせるかもしれない路についても、何一つとして知らなかったというのか。
「巫女姫殿は…… このように言うことを許されよ、イシズ殿。巫女姫殿は、イシュタールの定めを守るということにおいては、恐ろしいほどに苛烈な方じゃった」
 イシズは、力なくうなずいた。
「ええ、知っています」
 ……父との婚姻も、さらに、父があのような廃人となって地下牢へと封じられるように仕向けたのも、母であるということを、イシズは薄々と知っていた。
 父がイシュタール家の長として、巫女姫たる母の振る舞いを咎めぬよう、芥子の味に溺れさせ、理性と知性を奪った。初めから墓守として生きることを忌んでいた父に、余計な口出しをされたくなかったのだろう。だが、それはあまりといえば、あまりに惨いやり口だ。
「だが、それほどまでに定めに忠義であられた巫女姫殿が、未来を知ることが出来ぬと悟られたとき、どれほどの衝撃であったことか。だが、巫女姫殿はあくまで忠義じゃった。我ら王族へと身を粉にして仕えてくれた。そなたは母御を誇りに思うてもいいのじゃよ、イシズ殿」
「……」
 イシズは返事が出来なかった。
 ―――その、巫女姫の身を受け継ぐのが、己であると知っていたからこそ。
 未来を知り、時にはそのために己の愛するものまでも犠牲にして、墓守としての定めへと仕えるのがイシュタールの巫女姫の定め。だが、それはあまりに狭量な、あまりに限られた未来だ。そのようになど生きたくない、と身の内のどこかで叫ぶ声をイシズも感じる。
 だが、とイシズは思う。空を見上げた。
 藍色の空には、銀砂を撒いたような無数の星。銀の光がしずかに下り、荒れ果てた地にも、薄く、ヴェールをかぶせるかのように、銀色の露を降らせる。
 それでもイシズは、こうやって迷宮墳墓より外へと出ることすら、できる。結ばれることは出来ずとも、いずれは恋を知ることも出来るだろうし、広い世界を見る事もできるはずだ。
 だが、あの哀れな弟には、それすらも叶わない。
 声をなくし、黙り込むイシズに、しばし、双六もまた、沈黙していた。けれどやがて、静かに、噛み締めるような声が、背中から聞こえる。
「―――本当に、すまぬ」
「……どうなされたのです、双六殿……」
「そなたら墓守の一族の定めについて…… ワシも、僅かながら王家の血の一端を担うものとして、心から詫びたい。我ら表の王家は、そなたら墓守の一族に、あまりに重い定めを、長く、長く、架しつづけて来た」
「……」
 双六の声には、心からの悔いが、滲んでいた。
「このような最果ての地、暗い地下の国へと潜み、生きながら死者として生きる定めの、どれだけ辛く寂しいことよ。どれだけ詫びても足りはせぬ」
「双六様…… そのようなお言葉、もったいのうございます」
「いいや、姫御はまだお若く、本当の意味では分かるまい。だからこそ老骨の言い逃れを聞いてやってほしいのじゃ。そなたら墓守の一族に三千年の枷を架した、我ら、太陽王の末裔の罪深さを」
 イシズは驚くというよりも途方に暮れて、双六が深く頭を下げる様を見る。王の祖父たる高貴な方だ。このように、たかが小娘一人に頭を下げていい相手ではない。なんとかしてイシズは双六の顔をあげさせようとする。
「そのように仰せになってはいけません。双六様、どうか頭を上げてください」
「いや…… いいや。どうぞ詫びさせてくだされ。何の償いにもならなくとも、せめてワシは、謝りたい」
 血の滲むような声に、心からの悔いが、苦く滲んだ。
「そなたら墓守の一族に、昏い定めを追わせた咎を…… せめて、こうやって詫びさせてくだされ……」





 

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