/6






 ―――ふと、壁の燭が、ゆらりと揺らいだ。
 なんの気配を感じた、というわけでもない。うつぶせに横たわっていた寝台の上で、ちいさく寝ぼけた声を上げる。身体を動かした拍子に背中が鋭く痛んだ。思わず顔をしかめると、眠気もどこかへ行ってしまう。
 眼を開けると、誰も居ない。あたりまえだろう。自分の寝室にいるのだから。
 だが、マリクは、ふいに、舌の裏がざらつくような違和感を感じた。
 誰も居ない――― 誰も?
「リシド?」
 声に出して、呼びかけてみた。
 いかな忠実な従者のリシドであっても、いつもいつも、側にいるというわけではない。返事が無いのも当たり前だ。だが、ふいに、背筋が冷たくなる。何かがおかしい。……何かが。
 マリクはそっと寝台から滑り降りた。なめした革のサンダルを履き、ベットの横においてあったブロンズのナイフを腰に帯びる。燭を手に廊下に出ると、そっと、呼びかけた。
「リシド、リシド…… 誰か。誰かいないのか?」
 声が、がらんとした廊下に響く。おかしい。違和感は、今度こそ本当の警告となって、冷水をかけたように背筋を冷たくする。
 おかしい。誰も居ないなんて、ありえない。
 墓守の一族たちは、深い迷宮墳墓の中でも比較的浅い場所に集まって暮らしている。水や油を分け合うためでもあるし、外からの侵入者に備え、さらに、迷宮墳墓に住まう精霊獣たちから己自身を守るためでもある。だから、どのような時間であっても、誰一人としていないことなどありえないのだ。
 マリクは不安から早足になり、しまいには、小走りに走り出す。大声で名を呼んだ。昔馴染みの一族たちの名前、そして、忠実な従者の名、姉の名を。
「リシド…… 姉さん! どこにいるの!?」
 そのときだった。
 ふいに、どさりと、何かの倒れる音が聞こえた。
「!?」
 思わず、そちらのほうへと駆け寄る。そうして戸代わりにつるされた布を跳ね除けたとき――― マリクは、信じられないものを見た。
 病的なまでにやせ細った、象牙色の蓬髪の男の後姿が、そこにあった。
 つんと鼻をつく、饐えた臭い。それは人間の体臭と、焚き染められた芥子の臭いが交じり合った臭いだ。立ち尽くすマリクの前で、男はゆっくりと振り返った。マリクはそこに暗く底光りをする眼を見た。そして、その手に握られた、鈍く光を放つ、金の杖も。
 父、だった。
「……ちち、うえ」
「そこにいたのか、マリク」
 父の声は、しわがれて、低かった。その影がほのぐらい燭に揺らめいている。……違う。揺らめいているのではない。
 影が、意思を持ったように、動いている。
 マリクがそれを悟り、ひゅっ、と息を吸った瞬間、父の唇が、裂けるように笑みを浮かべた。
「―――《アピポスの黒蛇》よ!」
 鋭く命じると同時に、影から、鞭の様に、黒いものが奔った。
 それが精霊である、とマリクが悟るよりも先に、影は、マリクの身体へと絡みつく。逃れようとした瞬間、足を取られた。太股に絡みつかれ、締め付けられる。骨も砕かんばかりの痛み。マリクは絶叫した。
 音を立てて地面へと引きずり倒される息子を、父は、濁った眼で無感情に見つめる。ゆっくりと歩み寄ってくると、淡い亜麻色の髪を無造作に掴み、ぐい、と顔を上げさせた。

「ひっ……! ち、父上……!?」
「……」
 赤く濁った眼に、感情の色は無い。父は芥子の魔睡に狂っているのか、とマリクは瞬間思った。
 だが。
 次の言葉は、紛れもなく、父自身の深い憎悪によって、放たれた。
「長かった……」
「……!?」
「お前が生まれてから…… 杖を見つけ出すまで、10年…… 長かったぞ、マリク……」
 長い髪を掴んだまま、父は、無造作に歩き出す。頭皮ごと髪を引きちぎられそうな痛みにマリクは悲鳴を上げた。だが、父はそれを歯牙にもかけない。長い幽閉の身にあったとは到底思えないほどの力で、マリクの身体を、引きずっていく。
「やめてっ…… やめて、父上!!」
「煩い!」
 叫ぶなり、父はマリクの腹を、思いきりけりつける。つま先が柔らかい腹に食い込んだ。あまりの痛みに呼吸が止まった。ふたたび、腹に父の足が食い込む。二度、三度。胃液が逆流する。全身を痙攣させながら、身体を折るようにして嘔吐する息子を、父は、なんの感情も無い眼で見た。
「……っ、ぅぐ……っ」
「騒ぎたいなら、騒ぎたいだけ騒ぐがいい…… どちらにしろ、もう、すべて決まってしまっているのだからな……」
 眼には涙が滲み、視界がぼやける。顔が己の吐き出したものと唇を切った血とに汚れた。かすむ視界で見ると、あちこちの小路で、人々が倒れている。折り重なるようにして倒れているのは、すべて、墓守の一族の人々だ。何が起こったというのだ。呆然とするマリクは、倒れ付した一人の少女の足に、小さな傷痕をみつける。蛇に噛まれたような、ぽつりと赤い、二つの傷痕が。
 薄れる意識の中で、必死に父を見上げる。その影からはなおも黒い蛇がのたくっていた。父の精霊…… あれが、おそらく、墓守の一族の皆の意識を奪ったのだ、とマリクは悟る。
 呆然と思う――― なぜ、父は、こんなことをした?
 何故、こんな、惨いことを?
 そのとき、だった。
「マ…… リク、様っ!!」
 背後から、ふいに、声が聞こえた。
 父が足を止める。振り返る。そして見た。一人の青年が、苦しげに肩を上下させながら、壁に身体を持たせかけ、こちらを睨みつけている。
「貴様は…… 確か」
「リシド……っ!!」
 悲鳴を上げるマリクに、リシドは、ぐっと奥歯を噛み締めた。手にはナイフが握られている。だが、身体は毒に侵されているのだろう。よろめくような足取りで、まっすぐに立とうとするリシドを、父は冷たい目で見やる。
「なにをなさるのです…… 長…… マリク様に、なんてことを……!!」
「従者風情が……」
 父の影から、ぞわり、と黒い蛇が這い出してくる。
 リシドは蒼ざめ、身を引く。だがそれ以上は引き下がろうとしない。震える足を叱咤して、ナイフを構える。じりじりと間合いを計るリシドに、父が不満げに鼻を鳴らした。ふいに髪を掴んでいた手が離され、マリクは人形のように床に転がる。
「《アペプの黒蛇》よ!」
「っ、《聖獣セルケト》!!」
 リシドの招びに答えて、瞬間、視界を圧するような光が散る。次の瞬間、廻廊へと立っていたのは、黒く艶めく殻を持った巨大なサソリだった。リシドの魂に宿る精霊。その振り上げた大きな鋏に、黒い蛇が、次々と絡みつく。
「くっ」
 リシドの咽から、苦しげなうめき声が漏れる。サソリの精霊獣の殻が、ぎしぎしと音を立てて軋んだ。
 リシドの僕である聖獣セルケトは、本来ならば、無比の力を持ち合わせた強力な精霊であったはず。だが、今はリシドの身体を蝕む黒蛇の毒が、その力を弱めていた。主の精神力が削げれば、精霊もまた、その力を発揮できなくなる。父は歯のない口を開き、嘲笑った。
「ご苦労なことだ。従者風情とはいえ、このような忌み子のために、命まで賭ねばならんとは」
「マリク様は、我らが墓守の一族の、正当なる長となられる方だ!」
 リシドが己を叱咤するように叫んだ。その瞬間、鞭のようにしなった尾が、蛇の一体の首を貫く。蛇は悲鳴を上げ、砂となって崩れ落ちる。父がその衝撃に呻いた。―――いける! わずかな勝機を得て、リシドが僅かに眼を輝かせる。だが、その刹那。
「ほざけ! ……開け、《盗掘者の報い》!!」
 父が叫んだ瞬間、廻廊の床石が、音を立てて砕ける。
「!!」
 現れたのは、巨大な罠。それが聖獣セルケトの身体を左右から挟みこんだ。強靭なバネがギリギリとサソリを締め付ける。サソリの身体が音を立てて砕けていく。それと同時に、リシドの咽から、凄まじい苦痛の絶叫が迸った。体の表面が陶器が割れるようにひび割れていく。人間の皮膚にはありえない形の崩落。だが、皮膚から吹き出した真紅の血は、紛れもなく真実のものだ。全身を苛む痛みも忘れ、マリクは、悲鳴を上げた。
「リシド! リシド、リシド―――っ!!」
 亜麻の服を赤黒く染めながら、リシドは、がくりと廻廊に膝を突く。サソリの精霊が、白い煙となって消滅する。維持するだけの精神力が既に無いのだ。そして、これ以上精霊を戦わせ続ければリシドの命にもかかわる。
 それでも、眼を上げ、きつくこちらを睨みつけ続けるリシドを、父は、無感情な目で見下ろす。リシドは血を吐くように、かすれた声を、必死に押し出す。
「なぜ、こんなことを…… マリク様は…… あなたの御子であられるのに……!!」
 父の表情が、かすかに、動いた。
「息子、だと?」
 父の目が、マリクを見下ろす――― 
 次の瞬間、地面に転がったマリクの頭を、力任せに踏みつける。
 視界に、星が、散った。
 視界が遠くなり、近くなる。頭の中で金属質の音が響き、痛みがかえって遠くなった。薄れた意識の中で、リシドが何かを大声で叫んでいるのが聞こえる。気持ちが悪くなって、マリクは何かを吐いた。口の中に、血の味と、胃液の味が混ざり合った、苦いものが広がった。

 こんなものが息子なものか…… 
 汚らしい忌み子…… 
 ただの道具…… 
 千年杖を手に入れるための!

 その言葉を聞いた瞬間、《自分では無い自分》が、カッと目を開いた。
「ただ千年杖を手に入れるためだけに、私が、どれだけの犠牲を払ったか、貴様ごときに分かるものか! ―――この餓鬼のために、私も、妹も、人生をめちゃくちゃにされたんだ!」
 父は気付かない。己の言葉に興奮し、血を吐くようにして、わめき散らしている。全身が痛い。だが、マリクの身体は、確かにゆっくりと動いていた。手を伸ばす。父の手にある千年杖へと。
「何を…… 何をおっしゃっているのです、長……」
 弱弱しく呟くリシドに、父は裂けたような笑みを浮かべる。狂気の嗤い。
「これを産んだのは、妻ではない…… いや、妻などと呼ぶものか…… これはな、千年杖を得るために、イシュタールの血が最も濃い子を作るため、私が妹との間に作らされた子なのだよ」
 己の指が折れているのを、マリクは見た。小指が奇妙な方向に曲がっている。だが、その激しい痛みとは裏腹に、手はじりじりと、確実に、千年杖のほうへと這っていく。別人が己の身体を動かしていると、悟らざるを得なかった。
 だが、父は何を言っている? 
 これはいったい、どういう意味なのだ?
「あの女は言ったのだよ…… 千年首飾りが見せたとな…… 千年杖を取り戻すのは、最も濃い血をもった、最も罪深い子だろうと。双子の兄妹の間に生まれた子など、まさしくふさわしかろうとな!」
 ひからびた頬を涙が一筋つたった。赤黒い涙が。
 父は、絶叫した。

「分かるか!? この餓鬼は――― 薬に狂った私が、実の妹を犯し、産ませた子だ!!」

 瞬間、マリクは、思い出した。
 妹、という人を。
 父の双子の妹。一度しか、見たことは無い。墓に葬られるそのとき、棺に入ってこの迷宮墳墓へと還ってきた、そのときしか。
 白い亜麻の布に包まって、手足にはファイナンスのビーズを飾り、未婚のまま葬られる娘の慣わしに、赤いリボンで手首を結び合わされていた。
 母である巫女姫の威厳に満ちた美貌とは違い、儚げな様子が少女のような、小柄な人だった。色の淡い亜麻色の髪。眼の縁に入れられた魔よけの刺青。
 才覚が無かったゆえに千年首飾りを受け継ぐことが出来ず、ただ、侍女のように己の従姉妹に仕えていた。そうして、その末に狂気を得て、長い長い間少女の心へ戻ったまま生きて、とうとう、若くして息絶えたという。
 花の乏しいノドの地で、たった一輪、白い百合を胸の上に捧げられた姿。
 まぼろしのような――― 幼い日の記憶。
 一閃の記憶が、まるで、長い長い時の様に、感じられた。
 ―――マリクの手が、とうとう、千年杖を、掴んだ。
「……おぃおぃ、人のモンを勝手に振り回してんじゃねェよ…… お父様よォ……?」
 低く押しつぶされた声に、父が、ぎょっとしたように眼を向ける。その瞬間、杖が、白熱した。
「ッ!!」
 父の手が、声にならない声と共に、千年杖を取り落とす。真の主の手に戻った杖は、瞬間、強く光を放った。黄金の光を。
 よろめくようにして立ち上がったマリクは、けれど、千年杖にすがりはしない。その眼は狂気と憎しみに歪み、血と吐き戻したものにまみれた唇が、寧猛な笑みを浮かべる。骨があちこち折れているのだろう。悲鳴をあげるほどの痛みが全身を貫いた。だが、マリクは、マリクの身体を動かす何者かは、歯牙にもかけない。舌がべろりと己の唇を舐め、そこを汚していたものを舐めとった。
 その表情に、何を見たのか。
 しばし呆然と眼を見開いていた父は、けれど、すぐに落ち着きを取り戻したらしい。だが、それを正気と呼ぶべきか。父の顔に広がったのは、さらに深く無惨な、狂気が作り出す裂けるような笑みだ。
「はは…… ははは…… なるほど…… これが、結果か……」
 マリクは、不機嫌に顔をゆがめる。ぷっ、と血を吐き出した。
「何言ってやがる…… このキチガイジジイ?」
「三千年間、この墓穴によどみ続けた、生きた死人の血…… 最も濃く煮詰められた結果が、貴様か……」
 父の指が、マリクを指差す。薬に長く侵され続けた身体だ。指はすでに骨のようだ。眼が譫妄を起こしたように激しく震えていた。
「災厄と不幸と、罪悪と暴力と…… 貴様がこの世にもたらすことが出来るものはそれだけ……」
「……」
 マリクは何も言わない。ただ、わずかに顔をゆがめた。
 父の唇が哂った。笑みだった。耳まで裂けるようだった。歯のない歯肉がむき出しにされる。
「貴様が生きて、この世にもたらすものは、災厄だけだ!」
 その瞬間、黒い影が、躍った。
「だから――― 死ねッ!!」
「!!」
 マリクは、とっさに、地を蹴った。飛びのいた拍子に、肩から地面に突っ込む。全身がばらばらになりそうな凄まじい痛み。だが、《マリク》の魂が心の中で悲鳴をあげても、身体は僅かも揺らがない。
 黒蛇はなおも絡み合いながら、鞭のようにしなり、マリクへと襲い掛かる。マリクは顔をゆがめ、千年杖を巧みに操った。辛み取った蛇を引きちぎり、開いた顎から頭を貫く。だが、蛇の数には限りが無い。後から後から湧き出してくる蛇の群れ。首を狙うその一匹を杖でなぎ払った瞬間、別の方向から迫った二匹が、足に、肩に、その牙をつきたてた。
「ぐゥ……っ!?」
「はは…… よく逃げるな…… 虫けらが。だが、捕まえたぞ……」
 蛇が鎌首をもたげれば、マリクの軽い身体は、たやすく宙に浮く。その右手はなおも千年杖を握り締めていたが、人形のように宙に吊り上げられてしまえば、もう、なすすべが無い。太股へとギリギリと牙が食い込んでいく。さしものもう一つの意志も悲鳴を上げた。咽も避けんばかりの絶叫。
「死ね…… 死ね…… お前なぞ……!!」
 その絶叫に、父は、哂った。哂い、哂い、哂った。涙を流しながら哂った。
 かっ、と見開かれた眼から、血が、涙となって流れ落ちた。

「―――お前なぞ、生まれてこなければよかったのだ!!」

 筋繊維が伸び、音を立てて切れる。関節が引きちぎられる。骨が砕ける。
 凄まじい力で、身体が上下に引き裂かれる。凄まじい苦痛と絶叫と共に、マリクの左腕が、引きちぎられ、壁や地面に、大量の血をぶちまけた。
「――――――ッ!!!!」
 身体が、地面に、投げ出される。
 まるで手足をもがれた虫のようになった、小さな身体が。
 放り出されたマリクは、地面にぶつかって鞠のように一度跳ね、それから壁際へと転がって、動かなくなった。
 リシドが絶叫した。父が哄笑する。けれど、マリクにはもう、聞こえない。
 リシドが、涙を血のように流しながら、父へと向かっていく。ほとんど戦う力も無いだろうに、その叫びは、傷ついた獣のものにも似ていた。だが父は歯牙にもかけない。無数に繰り出される黒い蛇の鞭がリシドへと痛撃を加えていいく。見る間に皮膚がやぶれ血がしぶきをあげる。
 泥と血と痛みにまみれ、マリクは、捨てられた人形のように、地面に転がったまま、指先一つ動かせなかった。

 生マレテコナケレバ良カッタノニ。

 ―――その言葉が、薄れ掛けた意識の中で、ゆっくりと繰り返される。

 生マレテコナケレバ良カッタノニ。
 生マレテコナケレバ良カッタノニ。
 生マレテコナケレバ良カッタノニ。

 ……本当に?


 マリクはふいに、頬のかたわらに、光を感じたように思う。
 なんなのだろう。光? ほのぐらい燭しかないはずの迷宮墳墓に、なぜ、このような光を感じるのだろう。
 うすく眼を開いた。あまりに多量の出血に、視力などないはずの眼だった。だが、マリクは光を見た。冷たい、黄金の光を。
 誰かが、マリクを、見ていた。
 無感情な眼。だが、そこには憎しみの色も、侮蔑の色も無い。ただ見ている。血と痛み、絶望と汚辱にまみれ、命が消えるのをただ待つだけのマリクを。
 声がした。脳裏に、声ではない声が、響いた。
《戦わぬのか》
 戦う――― なんのために?
 だが、マリクがそう思ったとき、唇が、まったく違う返事を、返す。
「戦い…… てぇ……」
 ごぼり、と熱い塊が咽をこみ上げ、唇から、赤黒い血となってあふれた。だが、なおももう一つの意志は、マリクの身体を突き動かす。頬を熱いものが伝った。それは、涙だった。
「消えたくない…… 生きたい…… 理由なんていらない……」
 信じられない思いで、マリクは、《もうひとりの己》の声を聞く。
 邪悪な、狂気じみた、寧猛なだけの意志だと、思っていた。
 だが、たった今聞こえる声にあるのは、真実の叫び。ただ生きたいと必死で叫ぶ――― マリク自身と変わらぬ、ちっぽけな、踏みにじられた、力ない魂の叫びだった。
「戦いたい……! 俺は、生きたい……!!」
 その声が、マリクの魂に、強く響いた。
 マリクはただ、痛みも憎悪も超えて、ただ、純粋に思う。
 生きたいのか。
 おまえは、このような世界でも、生きたいというのか?
 忌み子として、ただ、千年杖を得るための道具として生を受けた。千年杖を得ればもはや用なしと、虫けらのように踏みにじられて死ぬだけだ。そして、これから生きつづけても、生きながら死人として、墓穴の底に閉ざされ続ける定めだけが待っている。表の世界を守るため、三千年前に埋葬された墓を守るため、死にながら生き続ける。
 ―――いや。
 マリクは、強く、思った。
 死にながら、生きつづけるのは、厭だと。遠い日に無心にうったえた、幼い己の声が、心の中に響く。
 
 ……あれが、ほしいよ。

 マリクは思った。強く、強く、思った。二つの魂が、刹那、確かに重なり合った。
「オレは……」
《ボクは……》

「生きたい!!」

 二つの声が、重なる。
 その瞬間、何ものかの手が、千年杖を握る己の手の上に、重ねられた。

《ならば、戦え!》

 ―――その瞬間、千年杖が、白熱した。
 リシドを追い詰め、いままさに止めをささんと蛇に命じようとしていた父が、満身創痍で意識すら失いかけていたリシドが、振り返った。そして見た。片腕を失い、血にまみれ、すでに虫の息だったはずのマリクが、立ち上がるのを。
「何事だ……!?」
 父が瞠目する。ゆらりと、立ち上がったマリクが、腕を前へと差し出す。横一文字に握られた千年杖、そこに宿ったまばゆい黄金の光。太陽を知らぬ迷宮墳墓を、さながら、真昼のように照らし出す。
 だが、その光は、千年杖からのみ、放たれるものではない。
 刹那、リシドは、眼を見張った。彼の眼に映ったもの、それは、その背にまばゆい黄金の翼を開いていく、幼い己の主君の姿だった。
「マリク、様?」
 ゆっくりと顔が上がる。
 淡紫の瞳と、力を受けて揺れる淡い亜麻色の髪。その額が露になる。そこに――― 黄金の光が、瞳の形の紋を、描き出す。
 マリクの唇が、ゆっくりと、奇妙な呪文を紡ぎ出した。《力》が、まるで水面を打ったように、空間そのものに波紋を描く。次の瞬間、マリクは、手にした杖の先端で、己の父を、指し示した。

「―――降臨せよ、《ラーの翼神竜》!!」

 凛、と声が響き渡った瞬間、世界が、ひび割れた。
 迷宮墳墓が、閉ざされた三千年の闇が、ばらばらに砕け、零れ落ちる。マリクの背から、光の翼が、開く。否、それは、マリクの背後から姿を見せる黄金の竜の翼だ。
 封印されし神の竜。
 それが、姿を見せる。
 リシドは呆然と眼を見張った。幼い、愛しい主の名を呼ぼうとした。だが、唇は声を紡がない。ただ眼を見張ることしかできないリシドの前で、光がゆっくりと世界を呑んでいく。幼い主君を、そして、狂気の男を、呑み込んで。
「―――ク、様ッ……!!」
 最期に、マリクが、一瞬だけこちらを見たようだった。
 淡い紫の眼が、ほんのわずか、わずかだけ、何かの思いを滲ませて、揺れた。
 ……それを最期に、あまりに圧倒的な光に飲まれ、リシドの眼は、瞬間、盲いた。
 身体を焼き尽くすかと思われる黄金の光。思わず片腕で眼をかばい、地面へとうずくまる。熱い。身体が焔に焼き尽くされるかと思うほどのまぶしさ。
 だが、やがて、光はゆっくりと薄れ、消えていく。
 ―――数瞬、あるいは、はるかに長いかと思われる時間が過ぎ、迷宮墳墓に、闇が戻る。
 リシドの眼は、それでも、しばらくは視力を取り戻さなかった。あまりにまぶしい光に焼かれたせい。けれど、必死で眼を見張り続ければ、ようやくわずかにものが見えるようになる。
 その視界には、誰の姿も、写らなかった。
 廊下には血がぶちまけられ、精霊獣に砕かれた壁が、床が、瓦礫となって爆ぜている。だが黒い蛇の精霊の姿も、その主たる狂気の長の姿も、リシドの愛する幼い主の姿も無い。
 ただ、マリクのものである金の耳飾がひとつ、血のぶちまけれた床に、転がって、光っていた。
 リシドは立ち上がろうとする。だが、あまりに大量の出血のせいか、それすらもままならない。這いずるようにしてたどり着き、震える指を耳飾へと伸ばす。握り締める。
「マ…… リク…… 様……」
 だが、声は虚しく迷宮墳墓の闇に響き、答えるものは、誰も居ない。




 


back