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 ―――マリクは、広大な闇に包まれた場所に、立っていた。
 総身を貫いた黄金の炎が、ゆっくりと薄れ、消えていく。マリク自身の身体へ。その魂の中へと。
 黄金と焔の身体を持つ神代の竜。その力が己の中へと戻っていくのを、まるで、手に取るかのように感じる。
 ……そして、《ラーの翼神竜》が姿を消したとき、マリクは、糸が切れた人形のように、地面へと崩れ落ちた。
「はぁっ、……っあ、……はっ……」
 身体が今にも砕け散ってしまいそうなほどの、痛み。
 体中、あちこちで、骨が折れていた。息をするたびにゴボゴボと肺が音を立てるのは、折れたあばらが肺へと突き刺さっているのか。引きちぎられた腕から流れる血は止まらない。あまりに多量の流血のせいで、貧血を起こし、視界がはげしく明滅した。
 だが、マリクは見る。
 己の目の前に、まるで、消し炭のようになって転がっている、父の姿を。
 体の半分は焼き尽くされ、片腕は完全に炭となって折れ、体の皮膚の殆どが焼け爛れていた。生の肉がこげる嫌な臭い。
 だが、それでも父は、まだ生きていた。
 身体が、まだかすかに、痙攣するように、動いている。
 ―――ボクが、殺したんだ。
 だが、そう思っても、悲しみのようなものも、怖れのようなものも、何も感じない。ただマリクは己の腕を見る。右手は、なおも硬く硬く、千年杖を握り締めたまま。
 ここは、どこなのだろう。
 体の下にあるのは、まるで鏡のように磨かれた黒い石。神の放った黄金の焔に焼かれてなお、瑕一つ無い。真夜中の水面のような黒い石の床に、ただ、わずかに金の線が埋め込まれて、魔法陣のようなものを描いている。つる草のように伸びていくその先を見れば、巨大な扉が屹立する。黒い石と黒い硝子、黒い宝石と黒い金で作られた扉。
 あれは封印の扉…… と、マリクの中で、何かがささやく。背中に刻まれたイシュタールの紋、それがもたらす記憶が。
 迷宮墳墓の最奥、もっとも秘された扉。
 あの奥に、覇王の力の断片が、封じられている。
 覇王、とマリクは思った。
「覇王…… 様…… なのか……?」
 ボクに語りかけてきた、あの声は?
 戦え、と、命じてくれた。
 絶望のまま、虚しく命を散らさんとしていたマリクに、戦え、と言ってくれた声。
「っ、」
 扉を開く方法を、マリクの背中の紋が、知っていた。
 ずるり、と身体を引きずり、マリクは立ち上がろうとする。だが、身体が答えてくれない。あまりの痛みに魂が軋む。眼から涙がこぼれた。だが、虚しい嘆きの涙ではない。己の無力さを悔やむ涙だった。
 ほんの数歩。
 それだけで、あの方に、お会いできるのに。
「……っ、聞いているか、……《もう一人》……?」
 マリクは、声を、振り絞る。
「ボクたちは…… あの方に…… 救われたんだ……」
 あの声が、冷たい黄金の眼差しが、マリクの魂を貫いて、その奥に潜んだ願い、たった一つの本当の願いを、見出してくれた。
 ただ生きたい、という願い。
 どれほど忌まれようと、どれほど呪われようと、苦痛と絶望にまみれようと、生きていたい。
 他に何も理由など、いらなかったのだ。
 ただ生きたい、それだけが、戦い続ける理由となる。
「この身体を…… 使え…… そして、扉を……!!」
 マリクは、血を吐くように、叫んだ。
 その瞬間、身体から何かが、ふっ、と浮き上がるような感触を覚える。
 今まであまりの激痛に、そして損傷に、動かすことも出来なかった足が、動いた。
 痛みはほとんど総身を貫くようで、マリクの魂がはげしく軋む。だが、声は上げなかった。マリクの《魂》も、その身体を動かす《もう一人》も。
 襤褸のようになった身体を引きずって、マリクの身体は、立ち上がる。気が遠くなるような時間をかけて、血の跡を引きずりながら、父のほうへと歩いていく。焼けただれた肉の塊となった父のほうへと。
 片腕が無い。マリクは口で杖を咬み、仕込み刃を引きずり出す。鋭い刃がぎらりと光った。
 あまりのダメージに、おそらく、マリクよりも数倍痛みに強いはずの《もうひとり》ですら、ほとんど声も出せない。肩を激しい呼吸にゆらしながら仕込み刃を構えるマリクに、父が、僅かに動いた。
 白く濁り、もはや視力を失った目が、マリクを見上げた。
「私を…… 殺すのか……」
「……」
 返事も無い。もはや、声を出すだけの力も無いのだ。
 マリクと、《もう一人》の身体を突き動かすもの。もはやそれは、たったひとつの願いに過ぎない。
 逢いたい、という願い。
 戦え、と命じてくれた方に逢いたいという、それだけの願い。
 父は、見たのだろうか。血にまみれ、断末魔の痛みに全身を貫かれながらも、ただ、戦い続けようとする己の息子を。
「はは…… はっ……」
 父が笑った。炭化した唇が、ぼろぼろと砕け、零れていく。
「ははははは……!!」
 なぜ父が笑うのか、マリクは理解しなかった。《もう一人》も。
 次の瞬間、振り下ろされた刃が、眼窩から脳を貫き、その命を断ち切った。
 父の体はそれでもしばらく痙攣し続けていた。だが、やがてそれも止まる。マリクの手から千年杖が零れ落ちた。激しい呼吸だけが己の耳に響く。
 音一つしなかった。
 だが、確かに、”封印”は解かれたのだ。
 
 ―――迷宮墳墓の最奥、覇王の力を封じた扉。

 それを開くためのたった一つの方法。それは、イシュタール一族の長の命を、捧げること。
 父もまた、イシュタールの紋を背に持つ以上、資格持つ命であった。マリクは己が手でそれを捧げた。見上げる。音もなく封印が解ける。黒い扉が開いていく。
 鏡のような扉の中央に細く光が走り、黒い石と黒い硝子、黒い金と黒い宝石で重ねられた封印が、解けていく。
 音もなく扉は開いた。
 そしてマリクは見た。迷宮墳墓の最奥に、三千年間、封じられてきたものを。
 扉の向こうに現れたものは、礼拝堂だった。はるか古代のもの。大理石と硝子、金と宝石で築かれた、清廉な宮殿だった。
 礼拝堂の中央には、翼持つ女神の像が、見上げるほどの高さで聳え立っている。どこから降り注ぐ光なのかは分からない。だが、色硝子を寄せ集めた薔薇窓から、光が降り注ぐ。無数の色を束ねた光はまばゆいばかりの白となり、白い光に照らされた礼拝堂には、聖別な空間だけが持ちうる、神聖な沈黙がただよう。
 だが、そこはすでに、礼拝堂ではなかった。
 そこは墓場だった。
 ―――無数の剣が、勇士たちの墓碑のように、つきたてられている。
 女神像は首と腕をもがれ、慈愛の微笑を浮かべた大理石の頭が、礼拝堂の床を砕いて、横様に転がっていた。
 三千年の時を経て、けれど、剣は朽ちることもなく、錆びることもなく、その全てが鋼の輝きを宿している。その一本一本に勇士たちの魂が宿っているのだ、とマリクは悟った。
 千の剣が作る檻。
 それが封じ込めているものは、黒い、翼だった。
 大きく、美しい、漆黒の翼。
 それが、無数の剣で、標本の蝶をピンで留めるように、女神像の胸へと縫いとめられている。
 黒でありながら、万色だった。
 その翼は、光を吸い込むような漆黒でありながら、無数の色を纏っていた。血と焔の紅、死の蒼、憎しみと怨嗟の翠、絶望の紫。
 大きく美しい黒翼は、眠っていた。三千年の永い眠りを。千の勇士たちの魂に縫いとめられ、女神の祈りに封印され、ここに、閉ざされ続けてきたのだ。
 あの、黄金の眼をもつ方の力の、欠片として。
 マリクは、足を引きずり、歩き出す。
 もはや意志も、感情も、何も無かった。痛みすらなかった。身体を動かしているのが《マリク》なのか、《もう一人》なのかすら、分からなかった。
 ただ、憧憬だけがあった。

 戦え、と命じてくれたあの方に。
 ただ一度、触れたい。
 
 清廉にして純白の礼拝堂に、赤黒い血の跡が、残される。
 マリクは身体を引きずり、這いずるようにして、女神像への、気が遠くなるほどの道のりを、進む。
 もはや命は無い。血を流しすぎ、力を使いすぎ、あとは死ぬしかない、と悟っていた。
 だが、それでも、前に進むだけだった。
 立ち止まることだけが――― 死ぬ、ということだったから。
 とうとうたどり着いた女神像の踝下に、マリクは崩れ落ちる。
 片方だけ残された手の、震える指が、黒い翼へと伸ばされる。
 触れたかった。
 あの方に。
 
 伸ばされた、血まみれの指が。
 ―――黒い翼へと、触れた。










 そこに、少年が、いた。

 空は昏い。太陽が消え、月が蝕に喰われ、星は堕ちていた。少年は荒れ果てた世界をただ見下ろす。彼の身体はすでに傷だらけだった。甲冑は砕け、剣は折れ、わずかに見える肌からは血が流れている。片目は流れる血でふさがれて開かない。どこで兜を失ったのか、頭を覆うものはなにもなく、栗色の髪が風に吹かれていた。
 それでも、少年の表情には欠片ほどの怖れも怯えもない。彼はただ、聳え立つ教会の鐘楼にたち、己が滅ぼした世界を見下ろしている。
 片方だけ開いた目は、欝金のような、鈍く暗い黄金の色をしていた。
 彼は王だった。王であったが、ただ一人の民も持たぬ、孤独の王だった。民が彼を棄てた。邪悪であり、忌むべきものであると、彼から王座を奪い、追放したのだ。
 だが、それでも彼は王であった。たとえこの世界のすべてのものから憎まれても、彼には、誰にも奪いえぬ宝冠があった。
 彼が彼自身の王であるという、魂の宝冠が。
「―――ユベル」
 彼が、呟く。その威厳、その威容に見合わぬほど、澄んだ、美しい声だった。
《……どうしたの、ユダ》
「見ろ。あの太陽王と同胞どもが、神を従えて来る」
 少年は、地平線の彼方を指す――― そこには、ほのかな光があった。曙光に似たうつくしい輝き。
 少年の眼は、己の敗北を、冷静に見つめていた。己はただ独り。対する敵は無数。邪悪を討ち、この世界の平穏を取り戻さんと、命も賭す覚悟で最期の戦いを挑みに来る。
 少年は王であり、最強の精霊の愛を得たものであり、この世界で最も力あるものだった。
 だが、彼にも、限界はある。
 ―――己の破滅と死を見つめて、それでもなお彼の眼は、欝金の光を湛えて、静かだった。
「ユベル。俺は死しても滅びない」
 少年は、ただ、淡々と言う。
「俺は死しても、再びこの世界へと還りくる。そして戦う。……幾度でも。何千年の時を経ても」
《なら、ユダ。僕はそのたび、君と生きよう。何千年が過ぎても、僕は君を見つけて、君を愛そう》
 うつくしく不吉な精霊は、そっと少年の首に腕を回す。血に汚れた頬へと口付ける。
《僕の、たったひとりのユダ。愛しいユダ……》
 少年の眼が、ほんのわずか、揺らいだようだった。だが、そこにある感情の意味が理解されるよりも先に、再び、凍りついたような冷たい光が還ってくる。
 ばさり、と帆布が風に翻るような音がする。
 少年の背に、大きく、うつくしい翼が、広がった。翼は黒かった。漆黒にして、万色だった。
 力強く優雅な黒翼を広げた少年の姿は、あまりに不吉で、あまりに忌まわしかったが、同時に、”天の使い”と呼ばれるものと錯覚するほどに、力強さと美とに、満ちていた。
 少年は剣を抜き放つ。その剣の切っ先が、敵の軍の迫る方へと向けられる。すると、虚空から無数の気配が生じた。精霊たちの軍。それは、少年へと忠誠を近い、敬慕を抱いたものたちの魔群であった。
 魔群は、犬のように忠実に、少年の命令を待っていた。彼らこそが、少年に残された、最後の軍勢であった。
「行くぞ」
《うん》
 ふわりと、精霊は舞い上がる。その冥府の女神のように美しい貌には、愛するものと共に有るという、恍惚に満ちた微笑がある。
《行こう、僕の愛しいユダ――― 滅びの覇王よ》


 







 それは、一瞬だったのか、永遠だったのか。
 そのヴィジョンが身体へと流れ込むと同時に、マリクの身体を、凄まじい衝撃が、貫いた。
 それは、小さな器を破壊するほどに強大な力のもたらす苦痛――― 同時に、魂を裂くほどに圧倒的な、快美感。
 今だ性の喜びも、芥子の魔睡も知らぬ幼い少年の身体に、苦痛と快楽が、二つながらに、流れ込む。

「あ、あ、あ、あああああああああ―――――ッ!!!」

 眼が、裂けんばかりに見開かれ、涙を流した。
 背骨が折れるほどに背が反り、身体がびくびくと痙攣する。まだ精通も迎えぬはずだった体があっという間に絶頂を迎え、それでも果てることなく、法悦の波が、途切れることなく押し寄せる。魂を焼ききるほどの圧倒的な快楽が、苦痛とない交ぜになり、身体を貫く。
 処女が初夜の床にのたうつ苦痛と快楽を、数千倍にしたかのような感覚が、小さなマリクの身体を翻弄した。
 身体が二つに裂かれていく。そして同時にそれは、熱くたぎる精を子宮に注がれるかのような、魂そのものを犯す快楽でもあったのだ。
 内側から、身体が作り変えられる。
 全身の傷が灼熱する。
 血が流れ出して冷え切っていた身体に、代わって、熱く滾る魔力が駆け巡る。まるで燃え盛る焔が血管の中を疾駆するかのよう。心臓が燃える。身体が燃える。

「ひぐっ、う゛ぁぁ、あぁ、う゛っ、……んぁぁぁッ―――!!」

 快楽と苦痛にのた打ち回る少年の上に、黒い羽が、降り注ぐ。
 美しい黒翼が、ほろほろと散っていく。まるで昨日切り取られ、壁に縫い付けられたかのようだった翼が、端から劣化して、はらはらと散っていく。
 だが、それは、崩壊を意味しなかった。滂沱と流れる涙の中で、マリクは悟った。あの黒翼に宿っていた強大な魔力が、己の身体へと、流れ込んでいるのだと。
 ならば、この魂を荒々しく犯しているのは、誰だ。
 黒い翼で包み込むように、己を抱くのは、誰だ。
 
 ―――あの、黒翼の、冷たい眼の覇王に、他ならない。

「んぐッ…… ぁうッ、……あ、ああ、あううッ……」
 マリクは、硬く、硬く、眼を閉じた。歯を食いしばる。
 己の身体に爪を立てるようにして、強く強く、己の身体を抱きしめた。
 狂うものか。
 この苦痛、この快楽、それこそがあの方が下さる賜物。
 全てを受け止める。全てを飲み干す。一滴もこぼすことなく、苦さと甘さを、飲み下す。
 それこそが――― 戦うと、あの方へ答えた己の、応えなのだから。
 
「あ、あ、あ、あ゛、あ゛―――――ッ!!!」

 咽も引き裂かんばかりの、苦痛と絶頂の、叫び。
 その声が響き渡ると同時に、黒翼を封じていた全ての剣が、礼拝堂の薔薇窓の硝子が、すべて、封印の開放を示して、粉微塵に砕け散った。





 


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