2.
  
             
             
            「あのさあ、最初に言ってるあの言葉、どういう意味があんのかなー」 
             学校が終わると、子供たちは、三々五々に散っていく。チェリは石版と鉄筆をカバンに放り込むと、学校の燃樹の上に上った。パシャもまねをして隣に登った。 
            「ギム? ってナニ? ショトウキョウイク、ってなんだろう?」 
            「さあ……」 
             チェリの言葉に、パシャも首をひねった。木の下からうらやましそうに見上げていたバヤンが、「君たちは……」と苦笑する。 
            「マリーさんがいちばん最初の授業をしたときに、NGOの人が説明してくれたでしょう」 
            「聞いてもわかんなかったんだもん」 
            「そうそう」 
             好き勝手を言う二人に、「それは……」とバヤンが言いかける。と、ふと、その背中に影が差した。 
             マリーだった。 
            「義務っていうのハ、やらなければいけないこと、っていう意味デス」 
             微笑みながら、マリーは、奇妙に体をゆらしてやってくる。木の上の二人は顔を見合わせた。バヤンは不思議そうにマリーを見上げる。 
            「初等教育というのは、アナタがたみたいな子ども…… 12・3歳くらいまでの子どもが、算数と国語と社会と理科、ほかにいろいろなことを勉強することを言いマス」 
            「そんなことをしたら、どういういいことがあるの」 
             挑戦的に聞くチェリに、「そうデスね」とマリーは首をかしげた。 
             マリーは、座り込むと、近くに落ちていた燃樹の枝を拾った。そうしtえ、地面におおきく丸を書いた。 
             そうして、そこに、小さく点を書く。 
            「ココは、このキャンプです」 
             ちいさい。三人は顔を見合わせた。 
            「世界全体から見ると、とても、とても小さいデス。でも、勉強をすると、ここにいても、他のコトが分かるようになりマス。他の国の人が、どういう生活をしているのか、どういうことを考えているのか、世界がひろがりマス」 
            「せかい?」 
             パシャは眉を寄せた。……世界。世界に、広いも狭いもあるのだろうか。 
            「世界が広がるとどんないいことがあるわけ?」 
            「いろいろなことが分かりマス。それに、勉強が出来れば、仕事ができマス。誰にも頼らずに、暮らしていけマス」 
            「……うん」 
             チェリは、しばらく考え込んだ後、感慨深く頷いた。マリーはにっこりと笑った。 
            「だから、勉強はしないといけないのデス」 
            「う―――」 
             いいくるめられたように思ったのだろう。チェリは腕を組んで唸った。そして、くるりと反転すると、木の枝からさかさまにぶら下がり、飛び降りた。背中に編んだ髪が揺れた。パシャは見下ろす。チェリは見上げる。 
            「パシャ、そろそろ行こ。配給の時間」 
             そうして、振り返ると、べえ、とマリーに向かって舌を出す。ようするに言い負かされたのが悔しいだけだ。パシャは苦笑した。 
            「ああ」 
             パシャとチェリの家には、大人がいなかった…… 父親は兵士に取られて死んだ。チェリの母親は死に、パシャの母親は祖母と一緒に幼い弟妹の面倒を見ることに忙しい。この中で一番自由があるのは家に姉たちが残っているバヤンだ。バヤンは複雑な眼でそんな二人を見た。 
             二人は泥の乾いた道を走っていきかけ、途中で、ふと、足を止める。「またね、マリー」と手を振った。 
             
             
            
  
             
            
 
  
             
             配給所には、いつも、人がごったがえしている。ぼろぼろの服をまとった人々。赤子を抱いた母親。やせ枯れた腕の老人。そうして、パシャとチェリのような子供たち。 
             巨大な鍋で煮込んだシチューを、配給者が、無表情に、大きな杓子ですくってくれる。長い長い列を並んで、パシャとチェリは、ブリキの空き缶に家族の分だけのシチューを受け取った。乾パンの缶とコンビーフの缶。布の袋に放り込んで、誰かに盗られないように服の下に隠すようにして、そそくさと列を離れる。 
             テントの立ち並ぶ泥道を、二人は、ぶらぶらと歩いた。歩きながらパシャは考えていた。ふと、漏らす。 
            「なあ…… チェリ、セカイって、なにかなあ」 
             チェリは足を止めた。 
            「お前、どうしたんだよ?」 
             チェリは真顔で聞く。パシャは顔を赤くして、うつむいた。 
             巧く説明できる自身が無かった。だから、ぼそりと一言だけ言った。 
            「セカイって…… どっかにあんのかなあ」 
             チェリは答えなかった。しげしげとパシャを見る。馬鹿にされるかと思って身構えるパシャに、けれど、チェリは、がりがりと頭を手で掻いた。 
            「あのさー、あたし、教科書読んでて思ったんだけどさ」 
            「?」 
             チェリもそっぽを向いていた。何か、恥ずかしそうな表情だった。ぼそぼそという。 
            「あのさあ、教科書に、『イルカ』って生き物が出てくるわけ」 
            「……うん」 
             それはパシャもみたことがあった。海の生き物。イルカ。微笑をうかべたような独特の顔だちと、流線型の体つき。海。 
            「海とか、あたし、見たこと無いわけ。でも、海ってのがどっか遠くにあって、そこには『イルカ』がいるわけ」 
            「うん」 
            「それが『セカイ』ってことじゃない?」 
             パシャは面食らってチェリを見た。チェリは照れた様な、居心地が悪いような、妙な味のものを食べたような、変な顔をしていた。 
            「違うっ!?」 
            「う、うん」 
             怒ったように怒鳴りつけられて、勢いで頷く。そのままチェリは鼻息を荒く吐き出すと、大股で先に歩いていってしまった。 
             パシャは、しばし、ぽかんとそれを見送っていた。 
             ……やがて、じわじわと、心の中に何かが染み出した。 
            「チェリ!」 
            「ん?」 
             チェリは振り返った。パシャは小走りに走っていくと、背中のお下げ髪を引っ張った。チェリは顔をしかめ、「なんだよう」と言う。 
             パシャは何も言わなかった。けれど思っていた。……いつか、チェリに、『イルカ』をみせてやれたら、と。 
             
             
             
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