3.
  
             
             
             雨季が近づいて、次第に雨がちになっていった。空は灰色の雲に覆われることが増えて、夜になると、水場のそばで蛙が鳴いた。乾いていた燃樹の枝がみずみずしい緑の葉を広げ、かわいて灰色だった草原の下から緑の草が萌え出てくる。 
             その日も、雨が降っていた。地面はぬかるんで灰色の泥を跳ね上げた。泥水が飛び散って、ほとんど一着しか持っていない服を汚した。それでもパシャは走った。一心に。NGOの人々の作っている、医療機関のためのテントに。 
            「バヤン!」 
             入り口の布を跳ね上げると同時に、叫ぶ。戻ってきたのは視線だった。テントの奥で、長い布を巻きつけた女が泣いていた。異様な沈黙がそこに満ちていた。 
             そうして、パシャは見た。……布を張ったベッドの上に、ちいさな人影が横たわっているのを。 
            「ああ、パシャ」 
             それは、バヤンだった。バヤンは弱弱しく笑った。パシャは呆然と目を見開いた。小さかったのだ、バヤンの体は。血にまみれた包帯。 
             ―――バヤンの両足が、無い。 
            「へまを、して、しまいました」 
             途切れ途切れの苦しそうな声で言って、バヤンは、うっすらと笑った。肌は土気色だった。 
            「どうして……」 
            「不発弾に、やられたんだ」 
             白衣をまとったNGOの医師が、苦々しい口調で言った。 
            「この子は、山羊を追って、ちかくの水場まで行ったんだ。そこで……」 
             あああああああっ、と唐突に悲鳴が聞こえた。バヤンの母親だった。顔を覆って前にうずくまる。バヤンのベッドの足元にうずくまって、激しい慟哭に体を震わせた。 
            「一緒にいた子供たちはダメだった。この子だけ、助かったんだよ」 
             呆然と立ち尽くしたパシャの頭の中に、一瞬の閃光のように、ひとつの光景が現れた。黒く焦げた野原。血と肉片。生き残った子供たちの悲痛な泣き声。そこに散らばった、人体だった、人間の子供だった『もの』。 
            「バヤン!? パシャ!?」 
             唐突に、誰かがテントの中に飛び込んできた。褪せた赤のショール。チェリ。チェリは呆然と立ち尽くしているパシャを見、泣き喚いているバヤンの母親を見、そうして、苦い表情で立っている医師を見た。それから、テントの奥に立っている、見知らぬ若い男を見た。 
            「……バヤンは」 
            「命は無事だよ」 
             医者は苦い声で答えた。 
            「命は、な」 
             若い男が、皮肉めいた声で答えた。 
             皆の視線が男に集まった。見知らぬ男だった。よれよれになった野戦服を纏い、こけた頬に、目だけがナイフのように剣呑に鋭い。医師は答えた。 
            「サウードくんだ。……彼が、バヤンくんのことを、ここまで連れてきてくれたんだよ」 
             
  
             
             バヤンを休ませる必要がある、といわれて、パシャとチェリは間もなくテントから外に出された。外には老女の髪のように細い雨が降り続いていた。 
             パシャは、固くこぶしを握り締め、うつむいていた。やがて、チェリが、小さな声で鳴きだす。少し離れた場所から、腕組みをして見ていたサウードは、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。パシャは弾かれたように顔を上げる。 
            「何がおかしい!?」 
            「ああ、おかしいな」 
             サウードは、挑発するように顎をそびやかす。 
            「こんなことは、良くあることだろう。このキャンプでも、何回でも同じことが起こっているはずだ。人が虫けらのように死ぬ。あたりまえのことだ」 
             パシャは食って掛かるように言い返しかけて…… 口をつぐんだ。思わず隣に視線を流した。チェリがうつむいていた。 
             ―――チェリの家族は、村を離れ、このキャンプにくる途中に、兵士に殺された。 
             長い長い距離を歩いてきた。その道の途中で、たくさんの人が死んだ。幼い子供や老人は病に倒れ、検問のときには、男や女たちが、政府軍の兵士に暴力をふるわれた。 
             チェリの母親が死んだのも、そのときだった。まだ当時9歳だったチェリに狼藉を働こうとした兵士を止めて、銃底で殴られて。頭がスポンジのように柔らかくなっていた。白目を真っ赤にしたまま、それでも何日か歩いていたチェリの母親は、数日後、道端で眠りについたきり、二度と、目を覚まさなかった。 
            「この国は腐っている」 
             黙りこむ子供たちに、サウードは、強い口調で言った。 
            「罪の無い民衆が殺されて、政治家たちだけが肥え太っている。こんな国があっていいのか!? お前らは悔しくないのか!」 
             パシャは、じっと、足元を睨んだ。泥だらけの素足。 
            「……悔しいに、決まってる」 
            「なら、」 
             サウードは、戦え、と言おうとしたのだろう。 
             だが、それを、澄んだ声が静止した。 
            「ダメです」 
             サウードは、目を上げた。一人の女が、体を大きく揺らすような歩き方で、ゆっくりと、やってくる。―――奇妙な白い肌と、髪の金色が、青いワンピースに映えて。 
            「子どもたちを、戦わせては、だめデス」 
            「……なんだ、お前は」 
             サウードは喉の奥で唸るような声を出した。チェリは思わず一歩退く。すがるように走りよって、マリーの…… そう、それはマリーだ…… の後ろに隠れた。マリーはしずかな緑の瞳でサウードを見つめた。 
            「子どもたちは、すべての戦闘から守られなければいけないデス。特に14歳以下の子どもは。……パシャとチェリは、まだ、12歳デス」 
            「なんだ、貴様。……アンドロイドか」 
             マリーの正体に気づいたらしいサウードは、ようやく気を取り戻したようだった。あざけるように顎を上げてマリーを見る。 
            「よその国の人間がつれてきた、ポンコツの人形」 
             マリーは何も言わなかった。ただ、ガラスレンズの瞳でサウードを見つめた。 
            「アナタは誰でスカ?」 
            「俺は、解放同盟軍の人間だ」 
             誇らしげに言うと、サウードは、よれよれになった軍服の襟を示した。……そこには、ちいさな徽章が止められている。 
            「この国を正しい持ち主に返すために戦っている。このキャンプを訪れたのも、ちかくに、政府軍や不正なゲリラがうろついているという情報を聞いたからだ。俺たちはこのキャンプに平和を取り戻しに来た」 
            「……マリー、バヤンを助けてくれたのもこの人だって」 
             チェリの小声のささやきに、マリーはじっとサウードを見つめた。 
            「貴方は何歳ですか?」 
            「……17だ」 
            「ご家族はどうしたのですカ」 
            「俺は10のときから開放同盟で戦ってきた。親父もお袋も政府軍に殺された」 
             サウードの声は、憎しみに満ちているというよりも、むしろ、誇らしげなものだった。いままで戦ってきたということを誇っているという、そんな様子に、パシャは思わず目を奪われる。パシャは思った――― こんな生き方も、あるのか、と。 
             
             無力に踏みつけられるのではなく、哀れみを請うて生きるのでもなく、自らの手で、自由を掴み取るために、戦う。 
             
            「サウードくん」 
             マリーとサウードが見詰め合っていると、背後のテントから、ボランティアの医師が出てきた。白衣が血にまみれていた。男はサウードに問いかける。 
            「君たち開放同盟はどれくらいの人数がいるんだ? 今、どこに集まっているんだ?」 
            「今、キャンプから離れたラウの村の跡に陣営を張っている。このあたりには政府軍の犬どもがうろついている。……俺たちは、そいつらを追い払いに来たんだ」 
            「そうか。……詳しい話が聞きたい。こっちに来てくれないか」 
            「ああ」 
             侮蔑するような一瞥をマリーにくれると、サウードは、医者の後に従って、テントの方へと歩いていく。すれ違いざまにぼそりとつぶやいた。 
            「この国から出て行け、白豚」 
             マリーは身じろぎもしなかった。不安げな表情でマリーのスカートをつかんでいたチェリは、サウードの姿が消えるのをみて、ようやく、ほっと息をつく。 
            「……あたし、あの人苦手」 
             珍しく弱音めいた言葉を漏らすチェリに、パシャは思わず目を瞬く。「だって」とチェリは言い訳がましく言う。 
            「あんなおっかない目…… やだよ。なんか、母さんを殺した兵隊に、あんな目をしたヤツがいたよ」 
            「そうか?」 
             オレにはぜんぜん違うように見える――― その言葉を、パシャは、飲み込んだ。代わりにこぶしを握り締めた。握り締めたこぶしを見下ろしていると、胸の中が熱くなっていくのが感じられた。 
             
             この国は腐っている。 
             
             この国を守るために、戦う。 
             
             マリーは、ただ、黙ってパシャを見下ろしていた。ただ、静かに。 
             
             
             
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