7.
パシャは、ひとり、草原を歩いていた。
ぽつりぽつりと、燃樹が茂っている。遠くに、焼け跡になった村が見える。石組みの崩れかけた水汲み場。ああ、とパシャは思った。
ここは。
『……あの、キャンプの側だ』
空はたかく晴れ上がり、草原には白い穂がゆれていた。パシャは、知らず、心が弾むのを感じた。帰ってきた、やっと、帰ってきたのだ。
背中の重みが無かった。今では銃を背負っていない。足は折れそうにか細く、軍用ブーツも履かない裸足だけれど、足の裏に感じる草の感触が快い。パシャは、散歩をするような足取りで歩いていく。急ぐことは無い、そう思いながら。
けれど、『キャンプ』に近づくにつれて、その軽やかな気持ちは、奇妙な胸騒ぎに取って代わられた。
―――人の気配が、無い。
パシャは、いつの間にか、急ぎ足になっていた。やがて、走り出す。息を切らして、パシャは走った。そして。
―――目の前に、黒く焼け爛れた、荒野が現れた。
「……え?」
焼け爛れた梁。崩れたブロック。
立ったまま、炭と化した燃樹。チェリがいつも上っていた樹。上って、危ないと、近くのおばさんにたしなめられていた樹。
ふらりと足を踏み入れると、足元で何かがポキリと音を立てて折れた。パシャは見た。それは、黒くすすけた人骨だった。
パシャは、くずれおちるように膝をつく。『それ』を拾い上げた。割れた頭蓋骨。おそらくは女性のもの。
パシャは、呆然と、問いかけた。
「……なにが、あったの?」
頭蓋骨は、かたかたと骨を鳴らしながら、答えた。
ある日、キャンプに、ゲリラがきたんだよ。
「ゲリラって……」
あいつらは、あたしたちを銃で脅して、食べ物を出せと言ったんだよ。抵抗したヤツはすぐに殺されたよ。そうして最後はみんな殺された。そして、最後にあいつらは、キャンプに火をつけたんだ。
パシャは愕然とした。……それは、自分たちがやってきたことと、まったく同じことではないか。
「チェリは? ……チェリはどうしたんだ?」
チェリはね、あの子は、とても可哀想だった。
頭蓋骨は、カタカタと骨を鳴らしながら、答える。
女の子はみんな犯されたよ。あの子はほかの子どもたちを守ろうとしたけれどダメだった。何人もの兵士に犯されて、最後はあそこに銃を突っ込まれて、撃ち殺されてしまったんだよ。
チェリ。
くらり、眩暈がした。世界がぐらりとかしいだような気がした。
パシャは、ふらりと立ち上がった。膝から頭蓋骨が転げ落ちた。頭蓋骨はそれきり黙った。パシャはふらふらと歩き出す。
焼け跡は、どこまでも、広がっていた。キャンプのすべてが焼かれていた。何一つとして、原型をとどめているものは無かった。
抱き合ったまま骨になっている母子がいた。ゆがんだ鍋が、くずれかけた炉の中に埋まっていた。薬莢が散らばっていた。ブロックは崩れ落ち、梁は炭と化していた。
チェリ、チェリ。
パシャはふらふらと焼け跡をさ迷い歩いた。チェリを探して。けれど、どれだけ焼け跡を掘っても、チェリは、チェリだったものは、見つからなかった。
子どもの骨があった。大人の骨があった。老人の骨があった。
暴力を受けて、原型をとどめないまでに砕けている骨があった。まだ、きれいに形を残したままの骨もあった。パシャには、その骨がいったい誰だったのかが分からなかった。そのなかにはパシャの母親の骨や、弟妹の骨もあったかもしれないのに。
けれど、やがて、パシャは、立ち止まった。
焼け跡の中に、誰かが立っている。
よろめきながら、歩いている。何かをひろいあつめている――― それは。
「マリー……?」
パシャは目を瞬いた。
それは、およそ人間とは思えないような、無残な姿の『人形』だった。
もげかけた足に木をくくりつけて支えとし、首は横へと傾いている。避けた喉からは色とりどりのコードがはみ出ていた。……長く、美しかった髪が煤にまみれ、焼け爛れて、千切れていた。
マリーは、ゆらゆらとよろめきながら、亡霊のように歩いていく。焼け跡を歩きながら、ときおり屈みこみ、なにかを拾う。パシャは、よろよろと足を踏み出した。
「マリー…… マリー」
マリーは、振り返った。
「誰でスカ?」
「オレだよ…… パシャだよ」
ゆっくりと歩み寄る。そのパシャに、マリーは、ゆっくりと目を瞬いた。斜めになった顔の中、透明な緑の瞳が、パシャの姿を写した。
「マリー、チェリは、どこにいるんだ?」
問いかけるパシャを、じっと見つめ返す。
「母さんは、妹は、ばあちゃんは…… みんなは、どこにいるんだ?」
「わかりマセン」
マリーは答えた。ぎぎ、と音を立てて、首が傾いた。首を傾げたようだった。
パシャが立ち尽くしていると、マリーはふたたび振り返る。ゆっくりと歩き出す。かがみこみ、何かを拾う。パシャはマリーの手元を見た。それは…… くだけちったブロックの欠片だった。
マリーは、何をやっているのだろう。
よろめきながら、パシャは、マリーの後を追った。
マリーは歩いていく。焼け跡の中を。焼け跡の空はどこまでも青く、透き通っていた。焼き払われたキャンプの跡には、視界をさえぎるものは何も無い。遠く、草原まで、大地がひろく開けている。そのさなかを、壊れた人形と、少年が、ゆっくりと歩いていく。
やがて、マリーは、立ち止まった。拾い上げたブロックをひとつひとつおろしていく。そこは、きれいだった。すくなくとも他の場所よりは。瓦礫が取り除かれ、四角く、地面が見えていた。やけただれた燃樹が立っていた。パシャは気づいた。
「学校……?」
「みんな、いなくなってしまいマシタ」
マリーは、傾いた首で、答えた。虫の羽音のような、かすかなモーター音の唸りと共に。
「デモ、ワタシは、まだ動いていマス。……学校で、待っていなければなりマセン」
パシャは見た。マリーが、並べている石を。……ブロックのかけらを。
焦げた板が並べられていた。割れた板は、おそらく、黒板だったものだろう。パシャはゆっくりと歩いた。並べられた板切れの間を。そうして思い出す。ここが自分の席。ここがバヤンの席。ここが…… チェリの席。
チェリが座っていたはずのその場所で、パシャは、立ち止まった。立ち尽くした。
「……無駄じゃないか、こんなこと」
パシャは、呆然と、つぶやいた。
「無駄なんだ、こんなこと。もう誰もいないんだ。チェリも、バヤンも、もう、誰もいないんだ。……こんなこと、したって」
マリーは、首を上げた。
透明な瞳がゆっくりと動き、レンズの焦点を合わせる。パシャを見た。マリーは、ゆっくりと、立ち上がった。
「パシャ」
パシャは呆然とマリーを見詰めた。腕のもげた、片足の、無残な姿のアンドロイドを。
学校、いまさら、そんなものが何になる。もう誰もいないのだ。このキャンプの人々は、皆、死んでしまった。殺された。炎の中で死んでいったのだ。
そんなことが、何になる。
「パシャ」
モーターの動く音をさせて、マリーが、胸をはだけた。
その胸は鉄だった。へこんでいたが、破壊されてはいなかった。マリーはその胸を開く。そして、何かを、差し出した。
パシャは目を上げた。―――それは、一束の紙だった。
裏には模様が印刷されていた。ほとんど焦げてしまっていた。それでも、見ればわかった。鉛筆の線で、何かが書かれている。つたない文字。
「チェリが、アナタに書いた、手紙デス」
パシャは、目を見開いた。
―――別れるときに、たしかに、言った言葉。
手紙を出すから。いつか、手紙を出すから。
パシャは、おずおずと手を伸ばし、その手紙を受け取った。
『パシャ』
自分の名前が書かれている。パシャは、呆然と、指で紙をたどった。
『げんき』
『あたらしい きょうかしょ』
『うみ』
……『いるか』
「はは……は……」
パシャは、ふるえる指で文字をたどり、分かる単語を拾った。パシャは、いつのまにか、笑い出していた。
文字。
ことば。
「読めない…… 読めないよ……」
「どうシテ?」
「オレ…… 文字なんて…… 忘れちまった……」
笑いに震える頬を涙がつたった。力の入りすぎた指の中で、紙の端が、くしゃりとつぶれた。
忘れていた。手紙を書いたことなど無かった。ずっと戦っていたから。文字など、思い出す暇すらも無かったから。
チェリがいる。ここに、チェリがいるのに、パシャは、その言葉を読むことすら、できない。
……けれど、マリーは、言った。
「ダッタラ、ワタシが、文字を教えマス。忘れたら、もう一度、勉強すればいいデス」
パシャは、目を上げた。マリーは、手を伸ばす。パシャの手の上に、そっと、手を重ねた。
「遅くないデス。何回でも、忘れたら、教えマス」
マリーは微笑んだ。
「チェリのこと、世界のこと、いっぱい、チェリは書きマシタ。チェリはたくさん勉強しまシタ。だから……」
世界。
遠くには、草原があるということ、山があるということ、雪が降るということ。
そして、イルカが泳ぐ、海があるということ。
「パシャもたくさん勉強しまショウ。そうしたら、世界のコト、分かりマス」
ほんとうなのだろうか。
この国で生まれ、人を殺し、殺された自分にも、そんなことができるのだろうか。
―――もう、とっくに死んでしまっている、自分にも。
マリーは、ゆっくりと、歩いていった。黒板のあった場所へ。青いワンピースがひるがえった。空の青の下、違う色の青。
マリーは手を伸ばす。ちびたチョークを拾い上げる。黒板に、文字を書き付ける。なつかしい形。
マリーは読み上げる。晴れやかな声で、その文字を。
それは、帰郷だった。焼け、荒れ果てたキャンプの跡地で、パシャは、ゆっくりと、マリーの言葉を繰り返す。郷愁が胸を刺した。ここにはもう誰もいないのに、それでもオレは、こうやって。
「海」
「うみ」
「元気」
「げんき」
繰り返すうちに、次第に、意識が透明になっていくのを感じた。そしてパシャは感じた。草の中に倒れている自分を。頭蓋を砕かれ、脳漿を地面にまきちらして、死んでいこうとしている自分を。
周りでは、まだ、皆が戦っている。高く伸びた草の中で、銃撃戦が続き、硝煙と草、血と風の匂いが混ざり合い、青い空に吹き散らされていくのを、感じている。
これは夢なのだ。もしかしたら、キャンプは、まだ、何事も無く無事でいるのかもしれない。無事で、貧しく、未来の無い生活をしているのかもしれない。そして、チェリはいまも手紙を書き続けているのかもしれない。すべて、パシャには、知る由も無いことだった。
けれど、パシャは、薄れていく意識の中で、マリーの白い手の向こうに、書かれていく文字を見ている。
青い空。草原。燃樹。風。遠い海。
……チェリ。
パシャは、そっと、手紙を抱きしめる。そこにチェリがいた。そこに、『世界』があった。
いつか読もう。この手紙を。今は不可能でも。チェリがその生き方で書いた『手紙』を。いつかまた人に生まれてきたら。
……チェリは、最後、『イルカ』を見ることができただろうか。
そして、マリーは、一綴りの文字を黒板に書く。
「コレが、アナタの名前」
「……うん」
パシャは、頷いて、目を閉じる。
風が吹き、ふわりと、手紙が舞い上がる。青い空に白い紙が舞う。舞散り、そして、ゆっくりと舞い降りてくる。
マリーは手を止めた。斜めになった首で振り返る。あたりを見回す。そこにはもう、マリーのほかに誰もいない。焼け跡に風が吹き、遠くの草原の匂いを運び、空が青く広がっているだけだ。
―――おそらくは、最初から、ずっと。
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