8.


 分厚いアクリルガラスの向こう側で、イルカは、さっと身体を翻した。
 さっきまで、不思議な微笑を含んでこちらを見つめていたのが、今ではもう、そんなことなど忘れたように、自由に水槽の中を泳いでいる。流線型のうつくしい身体に銀の泡がまとわりつき、まるで、100万の真珠を纏ったようだ。子どもたちはガラスに張り付いて歓声を上げた。水族館の中には、薄暗がりが満ちて、水槽越しの青い光だけが、うっすらと人々の顔を照らしている。
 子どもたちは、手に手にパンフレットを握り締めて、水槽の向こうを見るのに夢中だ。中には飾られたサメの歯の模型に感心しているものもいれば、小さな水槽の、飾り物のような熱帯魚を飽かずに見つめている少女もいる。水族館は今日も大盛況だった。
 引率の教師は、それぞれの子どもたちが、勝手にあちらこちらへと駆けていこうとするのをとめるのに忙しい。今日は社会科見学の日だった。水族館に見学に行き、その後は公園で食事を取ることになっている。この年の子どもにしては少しばかり退屈な内容なのか、それでも、水族館という場所そのものを楽しんでいる子はけっこう多いようだった。
 ふと、水槽の前で熱心に向こうを見ている一団に気づく。教師が近づいていくと、子どもたちが振り返った。一人がパンフレットを見ながら問いかけてくる。
「せんせー、イルカのショーは見に行かないの?」
「今回はいかないの」
「ちぇー」
 唇を尖らせる彼女に笑ったのは、車椅子に座った、浅黒い肌の少年だった。
「どう、バーク? 楽しい?」
「ウン。水族館来たの初めてダカラ、とても楽しい」
 まだ少し外国訛りの残ったイントネーションで、けれど、少年は、うれしそうに答えた。バーク…… 本名はバヤンという名の少年。彼は、去年にこの学年に編入してきた、とある一家の養子、外国生まれの少年だった。
 怪我をした名残だというバークには両足がなく、足にはいつも義足をはめている。けれど、バークは実に向学心の豊かな気のいい少年で、まだこの国の言葉もそれほど達者ではないというのに、すっかりこのクラスになじんでいた。今も、他の友人たちに囲まれて、うれしそうにイルカを眺めている。
「バークはイルカは珍しい?」
「とても珍シイ。絵で見たことあるケド、本物見るのはじめて」
「バークねー、水族館来るの初めてなんだって〜」
 うん、とうれしそうに頷くバークに、「そっか」と教師もうれしそうに答えた。一人でも喜んでくれる生徒がいれば、うれしくなるのはあたりまえだろう。
 バークの膝の上には、カメラがあった。さっきから盛んに写真を撮っていたのも彼だろう。イルカがそんなに好きなのだろうか。
「バーク、イルカは好き?」
「スキ。でも、写真はボクのものじゃナイ」
「うん?」
「故郷の友達に、いつか、見せてアゲル」
 バークはにこにこと答えた。
「ボクの故郷、水族館ナイ。イルカ、いない。でも、友達とってもイルカ大好き。だから、見せてあげる」
 ちら、と教師は思い出した。
 バークが生まれたのは、遠い、遠い国だ。今でも内紛が続いているというが、ニュースになることも少ない。人が死のうが戦争が続こうが、国際的に関心を失われている国のひとつ。
「……そうね、楽しみね」
「ウン!」
 うれしそうに笑うと、バークは、水槽のほうへと向き直る。友達となにやらにぎやかに話し合いながら、シャッターを切る。
 彼らから離れ、ゆっくりと歩いていきながら…… 教師は、ふと振り返る。
 楽しげな横顔の、子どもたち。
 バークは、その友達は、この子どもたちのように、笑顔で生きているだろうか。生きているといい、と心のどこかでささやかに祈り――― 


 ……ふと、どこかとても遠くに、風の音を聞いたような気がした。




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