10



 目の前に現れたのは――― まっすぐな廊下だった。
 左右にドアがある。金属製のドアではない。病室のドアのような合板のドアだ。壁は白く塗られ、床も同じ。なんだ、とすこし拍子抜けする。ここ、病棟の廊下? なんで地下に病棟の廊下?
 頭上の蛍光灯が点滅し、虫の羽音のような音をつぶやいていた。僕の影が床にゆらめく。
 風の唸り声は、耳の底から響いてくるかのように、低い。
 見回したが、あの子の姿は見当たらなかった。でも、隙間の開いたドアが三つほどあった。たぶん、あのどれかにいるんだ。僕はとりあえず手近なドアの前に立ち、そっと隙間を開けて、中をのぞいてみた。
 中は、病室。
 白いシーツのかけられた白いベットの置かれているだけの、殺風景な空間だった。ベットには誰かが寝ている。点滴を受けている。あの子はいない。僕はそれを確認してドアを閉めようとして……
 ……違和感に気づく。
 何か、おかしい。
 何が、おかしい?
 点滴の液体の袋が、黒い。
 黒いだけじゃなかった。かすかにうごいている? 液面がゆれている?
 違う。
 その事実に気づいた瞬間、僕は、喉の奥から飛び出しそうになった悲鳴を、必死の思いで噛み潰した。
 あれは、薬、じゃない。
 なにか、生き物が、入っている。
 その生き物の正体に気づく。
 あれは…… 蟻、だ。
 点滴袋の中に、ぎっしりと、蟻が詰まっている。
 蟻たちは袋の中を落ち着き無く歩き回り、ひしめき合い、押し合いへしあいをしていた。つるつるしたビニールの壁面を登っていこうとするものもいる。でも、すぐにすべりおちて、元通りのラッシュの中に落ちてしまう。蟻たちはもがく。どこかに脱出口がないかと探す。
 脱出口は、ある。
 点滴の、管だ。
 点滴の管の中を、一列になった蟻が下って行き――― その先端は、患者の腕につながれている。
 蟻たちは、一列になって、患者の体の中へと、入り込んでいく。
 壮年の男だった。どこか聖職者めいた穏やかそうな顔立ちなのに、かっ、と眼を見開いていた。その喉からうめき声が間断なく洩れ…… ああ、あれは風の音ではなく、この患者の声だったのか、と頭のどこかがぼんやりと思った。
 口が開いたままだった。その口の周りに無精ひげが生えていた。
 違う。
 蟻だった。
 蟻が男の口の中から這い出し…… また入り、を、繰り返している。
 耳の穴からも、鼻の穴からも、眼窩からも。
 男の体のすべての穴から、蟻が出入りする。
 白いシーツの上は、ゴマをばらまいたように、無数の蟻でいっぱいだ。
 男の開きっぱなしの口の中から、うめき声が洩れる。洩れ続ける。

 なんだ、これは。

 僕は、ドアを閉めるのも忘れて、数歩、背後によろめいた。
 その背中が別のドアに触れた。ドアが開いた。私はその部屋のなかに倒れこんだ。
 その部屋の中にあるものを見たとき、何を見たのか、やはり、一瞬、理解できなかった。
 棚にボールが並べられている?
 違う。
 首だ。
 男の首が、並べられている。
 すべて同じ顔――― 聖職者のようにおだやかな面差しの、壮年の男。
 その眼が金色をしている。別の首は唇が。別の首は鼻が。
 金色の塗料を塗られているのか、と思った。
 違った。
 画鋲だった。
 開いたままに固定された眼球に、びっしりと、画鋲が刺されているのだ。
 しかも、男達は、首だけにもかかわらず…… まだ生きていた。
 うめき声が洩れる。
 びっしりと画鋲を刺されて、金色のうろこに覆われたようになった舌から。内側に隙間なく画鋲が刺され、金色に埋め尽くされた口腔から。顔面全体がびっしりと画鋲に覆われた顔から。
 ひとつの顔は、あかんべえをするように、長くひきだされた舌が、ホッチキスで顎に固定されていた。
 一つの顔の、両眼から、何かが生えていた。
 プラスチックの柄の、子供用の、はさみだった。青い柄のものと、黄色い柄のもの。
「……!!!」
 膝から力が抜けて、ぺたんと床に座り込む。僕は、そのまま背後へとじりじりと後ずさった。背中が冷たい壁に触れた。うめき声は渦を巻くようにして、拭い去れない悪臭のように、全身を覆うようにして漂っている。
「あ、あ、……ア」
 開いたままの口から、意味を成さないそんな声が洩れる。何がなんだかわからない。脳髄が麻痺する。ホワイトノイズで埋め尽くされる。同じ顔の男達。蟻を体の中に点滴され、びっしりと画鋲を顔に突き刺され、無意味な呻き声を揚げ続ける男達。
 僕はゆっくりと首をめぐらせる。首の関節がきしむような気がした。
 まっすぐに続き、ドアの並んだ、病棟の廊下。
 ひんやりと湿った白い壁に、点滅する蛍光灯。薄汚れたドア。それが規則的に並んでいる。ずっと先まで。見えなくなるくらい先まで。いくつもの交差。いくつもの角。このフロアはどれほど広いのか、想像もつかない。一万もドアがあるのではないだろうか。背筋を何かがざわざわと駆け上った。
 いくつものドア。無数のドア。このドアの中では、何が起こっている? この呻き声はなんだ? 風の音じゃないとしたら…… どうしてこんなにも、折り重なって聞こえるのだ。まるで足元から這い登ってくるように聞こえてくるんだ。これは、どう考えても、ただ、このフロアだけから聞こえてくる声ではない。
 僕の傍らに、三つ目のドアがあった。わずかに隙間が開いていた。
 僕は、半ば機械的な動作で、そのドアの隙間へと、眼を当てた。
 さっきまでの部屋と、まったく同じ病室。
 白い壁。窓の無い部屋。無個性な白いベット。そこに、男がいる。あの男だ。ベットに縛り付けられていた。おそらくは、紳士用の革のベルトで。呻き声が聞こえた。指だけが見えた。必死でシーツをかきむしり、逃れようとしている。だが、逃げようも無い。
 その男の体の上に、少年が、またがっていた。包帯で真っ白になった体。やわらかそうな茶色い髪と、静脈の青く浮いた白い肌と、細い手足と。
 少年の手には、ポリタンクがある。
 そして、その中身を―――
「ねーねー!」
 その瞬間、僕は、強い力で背後に引き戻された。
 僕は振り返る。そこには弟がいた。浅黒い、まだ幼いけれど精悍な顔立ち。黒砂糖のような真っ黒い眼が必死の色をたたえていた。弟はぐいと僕の体を引きずりあげると、強引に歩き出す。子どもとは思えない力。
「あ、アア、ア……」
 僕の口からは無意味な声だけが洩れた。弟は僕を引き戻した。でも、すでに見た光景が、残像のようにくっきりと頭に焼きついてしまっていた。そして僕は見た光景の意味を理解していた。男の口に漏斗を入れて、少年が、ポリタンクいっぱいの、何を飲ませようとしていたのかも。 
 弟は僕を引きずり、半ば走るような早足で廊下を横切った。壁には業務用のエレベーターがある。スイッチを押すとさびたドアが開いた。引きずり込まれ、ドアが閉められる。僕は腰が砕けて床に座り込む。弟は最上階のボタンを押す。ボタンを見た僕は驚愕した。最上階は7階…… 
 最下層は、『地下一万階』。
 一万!?
 この地下に、一万ものフロアがあるというのか。
 一万ものフロアにあの男がいて、無数の病室があって、ひとつひとつの部屋の中では、同じ男が。
 軽い圧迫感。エレベーターが上昇する。弟は険しい顔をしていた。やがてドアが開いた。風が吹き込んだ。
 青い空が、見えた。
「ねーねー、行こう」
 弟は僕の手を引く。びょお、と風が吹き付ける。埃っぽい風。目の前には年月に劣化したコンクリートの屋上フロアが広がっていた。
 弟は僕をコンクリートのブロックに座らせる。そして、目の前に跪いて目線を合わせた。黒糖のように黒い眼が必死だった。弟は僕の肩を掴んでゆさぶった。
「大丈夫か、ねーねー。ねーねー!?」
「あ、れ」
 僕はあえいだ。
「なに」
 あの少年が男に飲ませようとしていたのは…… パラコートだった。
 青紫色の液体。知っている。農薬のパラコート。劇物だ。飲めば死ぬ。それも、その死は、非常に残酷なものだ。
 致死量のパラコートを飲むと、まず二日ほどで、腎臓が侵される。
 腎臓が侵されて、尿が排出されなくなる。体の中を老廃物が循環し始める。この段階ならまだいい。人工透析を受ければ生存が可能だ。
 だが、次に、血中の酸素濃度が低下し始める。
 活性酸素が発生して肺を侵しはじめるのだ。次第に呼吸が出来なくなり、酸素の投与が必要になる。酸素の濃度はじりじりと高くなる。けれど、追いつかない。患者は緩慢に窒息して死んでいく。
 その間、およそ、10日から20日。
 最後まで患者は意識を清澄に保ち続ける――― 自分が解毒できない毒に侵されて、死んでいくという過程を、ゆっくりと、じっくりと、見せ付けられながら死んでいくのだ。
 あの男は、そのパラコートを飲まされていた。
 ポリタンクに、いっぱいも。
 漏斗を口に突っ込まれて。
「あ、……アアア」
 僕は、
「ア」
 とても、
「あハ」


 ―――愉快になった。


「アははははははははははハハハハハハハはははははははははははハハハハハハハハハハハハハハハハハハははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!!」
 僕は笑い出す。止められない。愉快だ。とても愉快だった。すばらしく愉快な気持ちだった。
 弟は必死に僕の肩を揺さぶった。僕を止めようとする。仰向いて、すさまじく大きな声で、喉が壊れそうな勢いで笑い続ける僕を。
「ねーねー! ねーねー!! しっかりしろ!! ねーねー!!」
 一万ものフロアの、その、それぞれのフロアもの一万もの病室で、一万床もの病床で、あの男が、殺されていく。
 工夫を凝らした、緩慢な、残酷な死に方を選び抜いて。
 殺されていく。
 すばらしく愉快な気持ちだった。なんてすばらしいんだろう!! すばらしい!!
 だが、壊れたように笑い続ける中で、僕は自分にかすかな疑問を抱いていた。パラコート。パラコート中毒の死に方。その詳細を、なんでこんなにも詳しく、僕は知っているんだろう?
 だいたい、なんでこんなに可笑しいんだ? 愉快なんだ? 快感なんだ?
 ひとりの男が、残酷に、一万回の一万倍もの回数、痛めつけられ、なぶられ、殺されるということが?
 見開きすぎて眼窩から眼球が飛び出しそうだった。涙が帯になって頬を流れていく。喉が痛い。肺が痛い。煙に灼かれた肺が、激しすぎる笑いの発作に悲鳴を上げている。
 弟は両手を伸ばし、僕を抱きしめた。必死で僕に呼びかける。正気をとりもどさせようとする。
「ねーねー! 戻って来い! ねーねー、ねーねー!!」
 弟は泣いていた。真っ黒い眼に涙がにじんでいた。そして、ものすごい形相で振り返る。背後に向かって、怒鳴った。
「この――― 役立たず!!」
 そこには、少年が、立っていた。
 弟とはまったく違う、かぼそい、儚げな立ち姿。
 水色の入院着の下から、包帯で覆われた体が見えた。顔も包帯に覆われていた。ガーゼを当てられて包帯で巻かれた頬、右目。左目だけが無事だった。薄茶色の、アーモンド・アイが、まっすぐにこちらを見ていた。家畜のように従順で、哀しそうな目。
「なんでねーねーをここにつれてきたんだよッ!! 死ね! 役立たず! 死んでしまえ!」
 弟は鬼のような形相で少年を罵倒する。僕は笑いが止められない。肺が痛い。血の味を口の中に感じる。愉快だ。愉快愉快愉快愉快。もう止められない。僕は壊れる。笑いの発作に壊される。
 そんな僕を哀しそうに見て、少年は、力なくつぶやいた。
「……なんで、こんな、ことに」
「このレンズのせいだッ!」
 弟は私のポケットに手を突っ込み、レンズをつかみ出す。そして、すさまじい憎しみのこもった眼でレンズをにらみ、同じ眼で、少年をにらみつけた。
「こんなものは、『存在しない』! 消滅させるんだよ! いいな!? 全部やりなおしだ!!」
 少年は、うなずいた。……その眼から、すっと涙が流れた。
 くちびるがうごいた。

「ごめんなさい、―――……」

 弟は、僕の肩をぎゅっと抱きしめると、瞬間、肩に顔をうずめた。一瞬だった。すぐに手を離すと、立ち上がる。勢い良く振りかぶる。
 握り締めたレンズを、
 コンクリートの床に、
 たたきつける。

 音を立てて、レンズが、砕けた。





 ―――そして、リセット。





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