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この街には雪はあまり降らないのだと思う――― 確証はなかったが。
「え、雪? そうですね、そんなに積もりませんよ」
ちかくの看護婦さんに聞いたら、あっさりと裏が取れてしまった。
「山のほうに行ったらけっこう降るみたいだけど、このあたりだと10cmくらい積もるのがせいぜいですね。まあ、まだ雪にはだいぶ早い季節ですけど…… でも、どうして?」
「いえ、ちょっと知りたかっただけなんです。ごめんなさい」
僕がぺこりと頭を下げると、看護婦さんは不思議そうな顔をしながら、けれど、きびきびとした足取りで去っていった。最近の病院はスタッフの予定がかなりタイトらしいと聞いたが、なるほど。
肺をいためているというのは本当らしかった。すこし歩くだけでも息が切れて胸がぜいぜい言う。僕は廊下の途中で足を止めて、二階の吹き抜けから下を見下ろした。病院の一階。待合のためのベンチが置かれているあたり。
歯医者にでも行くのか頬を押さえてべそをかいている子どももいるし、首にネックコルセットを付けた男性もいる。さすが総合病院。患者に統一性が無い。
けれど、僕のいた園の子どもらしい子どもは見つからなかった。
いちおうおぼろげにだけど思い出せた子達もいる。もっぱら年下の少年達で、元気がいいのもいれば、悪いのもいた。でも、誰の姿も見当たらない。怪我をしていないということなのかな。でも、僕一人だけが入院しているというのもなんだか変な話のような気がした。
小児病棟のあたりまで行きたかったけれど、とにかく、ここで小休止だ。
軽く息を切らせながら、ポーチを見下ろしていると、幾何学模様のステンドグラスの向こうから、光が降り注いでくるのがわかる。青系色に黄色を加えた光が、待合室の床にちらばっていた。
今は何月くらいなんだろう、と思う。
ケヤキもクスノキもまだ緑だ。気候は暑くも無ければ寒くも無い。もっともそれは病院内だから空調がきいているという可能性も捨てきれない。すくなくとも真冬や真夏ではないのは確かだ。
そんなことすら思い出せないなんて、煙にやられて脳が窒息でもしてしまったんだろうか? とにかく思考があいまいで、自分が置かれている状況がどうしてもわからない。だから僕はあてどもなく、病院内をうろうろと歩き回る羽目になる。どことなく薬臭いような、その向こうに人間の体臭を薄く引き延ばしたような…… 病院の匂い。
清潔で、とてもおおきな、病院。
まるでそれだけでひとつの街かと思うほどおおきな病院であるということはわかった。いくつもの棟が渡り廊下でくっつきあい、巨大な迷宮状の建築物を構成している。ここまでおおきな建物で患者が迷わないんだろうか? とにかく、どこともしれない変な場所で階段やエレベーターに出くわすのだから困る。まるで、人を迷わせることを目的としているような建物だ。そのくせすぐに元の場所に戻ってくるんだから…… 変だ。
何が変だというのもおかしいかもしれない。でも、この病院は、どこかおかしい。なんだか変な感じがした。
清潔で、あたらしく、おおきな病院。それがこんな田舎町にあるというのがおかしいんだろうか? ううん、違う。そもそも『田舎町』というのが僕の推測にすぎないんだから。もしかしたら、ここはどこか都会なのかもしれない。そんなことすら僕にはわからない。
そもそもこの病院の名前は何? 園の傍にこんなおおきな病院があったっけ? 三日間入院してるというけれど、それすらまったく記憶に無い。ずっと寝ていたような、弟がこまめに見舞いに来てくれてたような、そんなおぼろげな記憶はたしかにあるんだけど。
僕はため息をつくと、入院着のポケットからレンズを取り出した。ステンドグラスの明かりに透かしてみる。
藍色の空をバックに、降りしきる、雪。
懐かしい。それだけは間違いない。これはたしかに僕の記憶。僕はこの雪を知っている。
でも、この街の空は、この雪にはそぐわない。空なんてどこから見ても同じかもしれないけど、僕はそれだけを強く強く思う。たぶん、この記憶の空はこの街の空じゃない。どこか別の街の空だ。
しかし、こんなにも雪の記憶ばかりが出てくるなんて、僕はそんなに空ばっかり見てたんだろうか? それも、寒い雪のさなかに。
それに……
奇妙な違和感が、棘のように、ちりちりと胸に刺さっていた。
このレンズに写った少女の姿は、たしかに僕だ――― と思う。
人形めいた顔立ちも、アーモンド型のおおきな眼も、白すぎる肌、ふわふわした茶色い髪も。すべて僕だ。鏡で確かめたんだから間違いない。特にこの髪。そう思って自分の髪を半ば無意識に指でひっぱる。
細くてもつれやすい髪質は、日本人には、たぶん、ちょっと珍しい。なんというか無国籍風の顔立ちというのか、そんな感じ。こういう顔の人間は、そんなにそこらにゴロゴロ転がってるもんじゃない。
でも、なんとなく違和感があるのは、レンズで見たあの姿が、あまりにも疲れやつれていたせい、だと思う。
眼の下に浮かんだ薄い隈。哀しそうな、無気力な眼。
僕はあんな顔をしたことがあっただろうか? 鏡の中に、あんな顔をした僕自身を見つけたことがあったんだろうか?
少なくとも今の僕はあんな顔はしていない。入院はしてるが元気なほうだと思う。弟だっているし、園は焼けてしまったけれど、今後の憂いはたいしたこと無い。弟と二人でどこか別の園に移る。それだけ。
それだけ―――?
ぢり、と眼の裏がかすかに痛んだ。
それだけ、ほんとうに、それだけ?
なんの憂いも無いの? ほんとうに?
無い。無いと思う。僕は自分で自分にそう返事をする。
だって弟はあんなに元気だし、僕だってもうニ三日も入院していれば退院できると思う。ちょっと肺が弱ってるだけで、後遺症は無いと先生も言ってくれた。
僕たちは、世の中にたった二人きりの姉弟だ。
昔から支えあって生きてきたし、これからもそうする。それだけだ。それでうまくやってきた。問題なんて無かった。
弟は見てのとおりのしっかりした子だから、僕が多少ぽやっとしていてもフォローしてくれる。頼りにしてる。両親がいないのがまったく引け目にならないといったら嘘になるけれども。
けれど、そこで。
ふいに、小石を呑んだような違和感を覚えた。
……あれ?
そもそも、なんで僕たちには、親がいないんだっけ……?
思い出せない。頭の中がぢりぢりと音を立てる。僕は顔をしかめてこめかみを押さえ、バルコニーの手すりに寄りかかった。
駄目だ駄目だ。どうしてこんなに記憶があいまいになってるんだろう。そもそも僕は誰? あの子の姉だ。じゃあ、あの子は誰? 僕の弟。……だめだ。こんなのぜんぜん説明になってない。
ぢりぢりぢり。
眼の裏の辺りが痛い。
僕は眼をぎゅっと閉じて指で強く抑えた。そして、それからそっと指を離し、眼を開ける。そして近くを見て、遠くを見る。遠く、つまり、一階を見下ろしていたとき、
僕は、
自分の目を、疑った。
一回の、待合のベンチの間を、ひとりの少年が、ふらふらと歩いていく。10か11か、それくらい。かぼそい体つきの、まだ、子どもといったほうがいいような。
片手におおきなポリタンクを提げていた。病院なんかには不釣合いな。
水色の入院着を着ている。けれど、そんなものは意識にも上らない。
白い。
包帯で、真っ白な姿。
首も、入院着から見える手足も、顔も、すべて、包帯で覆われている。
どういう病気なんだ? 皮膚病か? でも、あんな包帯だらけの状態で出歩くなんて無茶だ。そんな考えが頭の中をよぎる。でも、それはノイズにすぎない。僕はごくりとつばを飲み込む。
その子は、ふわふわとした茶色い髪をしていた。
白い、透き通るような、白すぎる肌をしていた。
顎の細い、繊細な顔の輪郭をしていた。
そして、ちらりとこちらを見上げた――― 薄茶色のアーモンド・アイ。
知っている。
知っている顔だった。
あれは…… 夢の中の、『僕』だ。
それは、一瞬だった。
「!!!」
少年の姿はあっという間に死角に消える。僕は唖然として…… すぐに我に返った。あわてて身を乗り出すが、少年の姿はもう見えない。
驚愕が頭の中のノイズを追い払った。眼が信じられなかった。なにかの錯覚か? でも、あれは間違いなく、夢の中にいたときの『僕』の姿だった。
さっきも思ったように、僕の容姿は、日本人離れしている。
アルビノすれすれの色素の薄さ。人形のような、整っているが生気に乏しい顔立ち。
そんな容姿は、何度も言うが、とても珍しいのだ。どんな人ごみにいたって、石炭の中に落とされた石鹸のように目立つ。にもかかわらず、待合室の人々は、それを疑問に思う様子も無い。誰ひとりとして顔をあげすらしなかった。おおきなポリタンクを下げた、包帯まみれの異様な姿を、振り返りすらしなかった。
僕はしばらく呆然としていた。
『夢』から、『僕』が、出てきた?
そんなわけがない!!
急に意識が現実に引き戻される。僕はあわてて自分の抱きかけた妄想を否定する。
僕は僕だ。15歳の少女だ。11歳の少年じゃない。そもそもあの子は僕の弟ですらない。弟は僕にぜんぜん似ていない。
でも、だったらアレは誰? なんでこんなに気にかかる?
僕は、考えるよりも先に、スリッパを蹴飛ばすような勢いで、走り出した。
階段を駆け下りると、角にちらりと裸足のかかとが見えた。すぐに看護婦さんの押すカートの陰に隠れてしまう。あわてて後を追いかける。すると、そこは誰もいない長いまっすぐな廊下だった。逃げ場は無い。
けれど、少年はそこにはいない。
唖然としかけて、でも、すぐに気づく。業務用の、階段。
壁の一角に重そうな金属の扉があって、壁と同じクリーム色のペンキで塗られていた。当たりを付けてひっぱってみると簡単に開いた。鍵がかかっていない。では、あの子はここから降りていったのだ。
扉の中に踏み込むと、びょお、と吹き上げた風が、僕の前髪を舞い上がらせた。
目の前にあるのは、無骨なコンクリートの階段だった。
病院の中の階段のように、やさしいクリーム色のリノリウムに覆われてはいない。ただ降りることができさえすればいいというだけの打ちっぱなしのセメントの階段だ。しかも下から吹き上げてくる風はなんだ? これが地下鉄の中にあるような気温だの気圧だのの差によるものなのだとしたら、この階段は相当に深いことが予想される。
たった数十メートルを走っただけなのに、肺がぜいぜいと音を立てていた。どうやら、入院中は伊達ではなく、この胸はそうとうなポンコツになってしまっているらしい。
あの子は、ここを降りていったんだろうか?
あきらかに患者が踏み込む領域じゃない。それどころか、他の人の気配すら感じられなかった。正体の分からない階段。こんなものを下っていくなんて、正気の沙汰とは思えない。
けれど、僕は…… 恐る恐る、一歩を踏み出した。
ぺたん、とスリッパのそこが音を立てた。
ぺた、ぺた、ぺた。
初めゆっくりと、次第にテンポを上げて、階段を下っていく。
ぺた、ぺた、ぺた、ぺた。
足音は恐ろしいほどに階段に響いた。誰かが聞きつけないかと不安になるくらい。でも、聞きつけるような誰かの気配はまったく感じられず、それがかえって不自然に感じられた。なんなんだ? この階段は? どこにつながっている?
やがて、風の唸り声が聞こえてきた。
うううううう、おおおおおお、という低い低いうめき声。風がなっているんだ、と僕は思う。やがて踊り場の一つにドアがあるのが見えた。ペンキのはげかけ、さびのういた金属製のドア。
ほんの少しだけ隙間が開いていた。あの子がここを通っていったという証拠だろうか。
僕はしばらく迷い、それから、ドアに手をかけた。
きしむ音を立てて、ドアが開いた。
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