12



 ……ふと、僕は、鈴の音に気がついた。

 ちり、りん。
 りん。

 ぼんやりと眼を開き、天井を見る。木目の天井に、レースのカーテン越しの光がゆれていた。
 首を傾けると、窓に、何本かの鉄の棒を並べた風鈴が吊るされていた。風が吹いて風鈴がゆれる。窓の外、陽光がまぶしくきらめいた。

 ちりり、りん。

「あ、眼が覚めたんだね?」
「おい、大丈夫かよ!!」
 二つの声が同時に聞こえ、僕は、視線を横に動かした。頭が痛んだ。僕はうめいた。誰かがあわてて手を貸してくれる。褐色に日焼けした手。
 彼、だった。
 彼? 彼って、……誰だ?
 幼さのなかに精悍さの表れだした顔立ち。日焼けした顔と、潮焼けした髪。頭が鈍く痛んだ。誰だろう、これは、と僕は思う。
 僕の、おとうと?
「ごめん、おねえちゃん…… どうしたんだっけ?」
「は?」
 彼は眼をきょとんと瞬いた。隣から、笑い声が聞こえてきた。
 眼をやると、白衣を着た老人が立っている。島の診療所の唯一の医者だった。見事な禿頭から『電球』というあだ名があった。『電球』先生は面食らっている彼の頭をぱんぱんとたたくと、「どうも、寝ぼけているようだなあ」と言った。
「しかし、よりにもよって『おねえちゃん』とはねえ。どんな夢をみていたんだい、君」
「え、えーと……」
「バカ。あんま心配させんなよ!! いきなり海に落ちたり、大ボケ言い出したりさあ……!!」
 すごい剣幕でどなりつけてくる彼の眼に、涙まで浮かんでいた。僕はあわてて頭を抑える。すると包帯とガーゼの感触が手に触れた。頭に何か、包帯のようなものが巻かれている。
「悪いが髪の毛をすこし切らせてもらったよ。うん。ちょっぴり頭を切っているようだったからなあ。一針ばかり縫わせてもらったよ。はげになったらすまんな。まあ、はげもそんなに悪いもんじゃないさ。頭を洗わないですむ」
 『電球』先生はけらけらと笑いながら、自分の禿げ頭をつるりと撫でた。「はあ」と僕は間抜けた返事を返す。
「しっかりしろよ」
 と、彼が僕の手を握り締める。眼を覗き込んで、言い聞かせるように言った。
「オマエ、岬から海に落っこちて、おぼれたんだよ。そんとき渦に巻かれて頭を岩で切ったんだ」
「……あ」
 言われて、思い出した。
 たしか、彼に呼び出されて海まで行った。そこで、ぜんざいを食べて、なにかの話をしたんだ。それから岬に行って…… そこから先の記憶はあいまいだった。
 頭がズキズキした。縫ったんだったら当たり前だろう。でも、なんで岬から海におっこちたんだっけ? そんなことも思い出せない。ぼーっとしている僕に、『電球』先生は、コップの水と薬を手渡してくれた。
「痛み止めだ。飲んどきなさい。あと、すぐに家まで車で送ろう。さっきまでお母さんもいたんだが、無事だと聞いて帰ったばっかりでね」
 薄紫色と白の圧縮錠剤だった。いわれたとおりに飲む。この島で車を持ってるのは『電球』先生のほかにほとんどいない。そもそも狭い上に、道の整備が悪い島だから。『電球』先生は部屋を出て行った。僕と彼だけが部屋に残される。
 
 ちり、りりん。

 なんだか、悪い夢でも見ていたような気分だった。
 体の中を虫が這いずり回るような、嫌な感触がどこかに残っている。蟻、画鋲、農薬。地下一万階の深さまで降りるエレベーター。なんだそれは? 矛盾に満ちたイメージの連鎖。だが、ひとつふたつ瞬きをすると、それもきれいに消えうせた。
「ねえ、僕のレンズ、どうなったの?」
 傍らでカーテンを開けている彼に話しかける。彼は、「レンズってなんだよ」と返してきた。まぶしさに眼をしかめながら。
「なんだよって……」
「虫眼鏡でも無くしたのか?」
 レンズっていうのは、と僕は説明をしようとした。そして、それが何のことだったのか、まったく思い出せないということに気づく。
 確か、何かとても大切なものだったはずだ。僕のレンズ。何か、特別なものが見えるレンズ。でも、それが何なのかはわからない。妙な顔をして黙り込む僕を見て、彼は可笑しそうというよりも、心配げな顔をした。こっちに歩いてくると、ベットの上に座った僕の額に、額をこつんとぶつけた。
「悪かったよ。おれがふざけたりしなかったら、こんなことにならなかったもんな」
「うん」
「でも、きちんと助けたんだからオッケーにしてくれね?」
「うん……」
 そうだ。岬の上に僕を誘ったのは、彼だった。
 なんで岬に行ったのか? 氷ぜんざいを食べに行ったついでだ。あの駄菓子屋の氷ぜんざいは、氷がふわふわしてて美味しいから。それから風に当たりに岬に行った。そして、僕らはふざけていて、彼に押されて、うっかり岬から足を滑らせてしまったのだ。
 ……この想定には、なにか、矛盾がある。おかしい部分がある。
 僕はそう思うけれども、思考は水に浮いた泡のようで、すぐにはじけて消えてしまった。そもそも頭痛に悩まされている今の状況では難しいことを考えるのは無理だった。僕はベッドの上に起き上がり、着ているものが見覚えのない検査着だと気づく。窓の外を見ると、びしょぬれになってしまった僕の服が、物干しにゆれていた。
「お前のかーちゃん心配してるぜ」
 ベッドの横に座った彼が、自分のほうが心配そうに言う。
「あ…… うん」
「さっきまで診療所にいたんだけど、どうしても手が離せない用事があるからって戻ってった」
「そっか」
 母さんが心配している、という言葉に、けれど、僕は、不思議なほどに何も感じなかった。
 自分の親に心配をかけたのだから、子供らしく、何かを思うべきなんじゃないだろうか。それがちょっとした後ろめたさだろうが、悲しさだろうが、あるいはうっとおしさだろうが。でも、何も感じない。僕にはそれが奇妙なことに思えた。
 
 ちりりん。

 僕は何も言わない。けれど、何かが変わった。何が変わったのかは、僕には分からなかった。 
 病院の窓から見える空は、土耳古玉を磨いたようなあざやかな青だ。大きな雲が浮かび、落とす陰影が地面に模様を描いていた。赤い土、白い砂の島。なびくサトウキビの畑と、ガジュマルの樹。
 僕のふるさとだ。生まれたときから暮らしてきた。なのに、なぜだろう。まるで始めて見るもののように感じるのは。
 そう思いながら、ぼんやりと窓の外を見ていると、ぺたん、と頭に手が触れた。
 見上げると、彼だった。
「お前、どっかおかしいぜ?」
 心配そうに問いかけてくる。僕は、どきりとした。
「え…… どこも変じゃないよ。大丈夫」
「頭、痛くねえか? さっきからぼーっとしてるじゃねーか」
「大丈夫だってば」
 僕は笑いながら彼の手をよけた。心配げにこちらをのぞきこんでくる、彼の褐色の顔を見ていると、何か、こころがほっとするのを感じた。彼からはあの奇妙な疎外感を感じない。彼はたしかに僕にとって親しいものだ。
 夢の中でも、彼は、たしか、とても僕に親しいものだったように思える。
 それがなんだったのかは分からなかった。思い出せない。でも彼は頼りになる。僕を守ってくれようとしている。
 では…… 『僕』は?
 ふいに、窓の外に視線をやる。閉じられた窓ガラスに映った自分の姿に、僕は、奇妙な寒気を感じた。
 か細い体つき。色素の薄い髪。顎の細い繊細な輪郭。薄茶色のアーモンド・アイ。
 この姿は知っている。当たり前だ。僕自身なのだから。でも、なぜだかそれが僕自身だという確信が持てずに、僕は、しばしぼんやりと窓にうつる自分の鏡像を眺めていた。
 ぶるるん、と窓の外で音がした。『電球』先生が車を動かしてきたのだ。「行こうぜ」と声をかけて、彼は僕に手を差し出してくれた。







 家に帰ると当然のようにものすごい勢いの母さんに出迎えられた。母さんは僕を叱り、それから泣き、それからあわてて僕の様子を確かめた。僕は苦笑しながらそれに答えているしかない。まあ、頭を一針縫ったというのはけっこうな大怪我だ。
 父さんも、話を聞いて普段より少し早く家に帰ってきた。でも、僕が元気な様子をしているのを観てほっとしたらしい。とはいえ、頭を打ったというのはけっこうな大怪我だから、実際にはきちんとした検査を受けたほうがいいのかもしれないな、と言った。その発言が僕には少しばかり不可解だった。
 しっかりした検査を受ける。島を出るということか? でも、この島を出る方法なんて、あるんだろうか。
 ある。定期便がある。でも、乗ったことなんてないし、これからも乗ることなんてないだろうと思っていた。何の根拠もないけれど、それは確信だった。僕はずっとこの島で暮らす。少なくとも『子供』でいる間は。
 夕食は気を使った母が食べやすい魚の煮込みを作ってくれた。それを食べると、今日はもう早々に寝ることにする。二階の部屋に上がってパジャマに着替えた。
 二階の、僕の部屋。
 浜辺で拾ってきたものたちのコレクションが、ところせましとひしめき合っている部屋。ドアを開けるとちょっと潮の匂いがする。拾ってきたものたちはいちいち丁寧に洗っているつもりだけれど、それでも、ぬぐいきれないものというものはあるものらしい。
 学校で使われていたふるい陳列棚をもらってきた棚。そこに並べられた無数の貝や、珍しい文字の入ったゴミの類や、機械の破片。無造作に放り出された箱の中にはいっぱいの磨り硝子。浜辺で波に洗われたガラス瓶のかけらかなんかの箱。
 さびた歯車、さびた螺子、さびたボルト。そんなものはいくらだってあった。離島の海はきれいなだけのものとは限らなくて、特に嵐の過ぎた朝なんて、いくらでも浜辺にものが漂着してくる。魚やサメやなんかの屍骸に混じって、びしょぬれになった猫の死体を見つけたことだってあった。そのときは、僕は、丁寧にその猫を埋葬してやった。
 僕の机の上には、懐中時計が置かれていた。
 硝子が割れて、中身がむき出しになっている。精緻な機構はまだ真鍮の色を残していた。掘り出し物だ、と思い出す。何日か前に浜辺で拾った、壊れた懐中時計だ。
 僕は時計を手に取った。真鍮色の時計は、僕の小さな手のひらに、ちょうど納まる大きさだった。ふたの裏に星と月とが彫刻されていた。ゆっくりと指でなでる。記憶がよみがえってくる。
 そう、浜辺でこれを拾った。金色の日差しが照らし出す、美しい浜辺で。
 そのときに、僕は――― ほかに何かを拾わなかったか?
 麻酔が切れてきたのか、頭の切った部分が傷んだ。僕はガーゼ越しに頭を抑えて呻く。何かがおかしい、と頭のどこかが警鐘を鳴らしていた。何かがおかしい。何がおかしい、と断言することは出来ないのだけれども。
 レースのカーテンを開くと、目の前の景色が広がった。
 遠く、海が見える。この島は元は珊瑚礁だから山はほとんどない。平たい地面にサトウキビ畑やいくらかの木々が生えているだけで、海のほうまで一望することが出来る。
 藍色の夜空。銀砂を撒いたような星。欠けた形の月。
 どこがおかしいというのだろう? 僕は自分自身に言い聞かせようとする。
 おかしいもなにも、これが自分のふるさとじゃないか。美しい僕の島。そこに違和感を感じるなんて、おかしい。
 ―――けれど、そのとき、僕は不意に気づく。
 雪を、感じるということに。
 雪? 
 どこかでしんしんと雪が降っている。白い羽毛が降るように。冬の初めの雪だ。鈍重な灰色の空。そこから降り注ぐ雪。
 僕はどこでそんな光景を見たんだろう。いぶかしみながら、僕はレースのカーテンを引く。窓を閉める。そして。
 思わず、硬直、した。
 暗い外と、明るい部屋の中。そのコントラストの差が窓の硝子を鏡に変える。そして、そこに写っているのは。
 僕じゃなかった。
 ひとりの、少女だった。
 年のころなら14・5。卵形の繊細な輪郭。色素の薄く、ふわふわともつれながら顔をふちどっている髪。そして、悲しそうにこちらを見つめる、アーモンド・アイ。
 はっとわれに返ると彼女の姿は消えていた。窓ガラスに映っているのは僕だ。やわらかい髪と茶色い目。色の白すぎる少年。僕。
 僕は震える指を窓の硝子に伸ばした。冷たい硝子が指に触れた。ただの硝子だ。何の変哲もない。
 では、さっきの少女は、ただの錯覚か?
 けれど、錯覚だとは思えなかった。どうしてもだ。

 頭が――― 痛む。






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